17

「ミオ!」


 僕は走った。屋敷の裏手には墓地が広がっている。ミオはそこからさらに奥へと進み、裏山の方に向かったようだった。暗闇の中、彼女の足音を追う。まったく、ミオは何を考えてるんだ。こんな闇の中を走るなんて、魔臼のことがなくても危険すぎる。


「待ってってば」


 やがて、ミオの背中をとらえた。僕は一気にペースを上げ、その腕をつかんだ。


「どうしたのさ、ミオ」


 しかし、ミオはそれには答えず、「やっぱり全力で追いかけられたら適わないな」なんて呟いた。


「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」僕は言った。「ダメじゃないか。こんなときに一人で飛び出すなんて」


「リク君はやっぱり優しいんだね」ミオは微笑んだ。「わたし、リク君が好き」


「僕もミオのこと好きだよ」


「ありがとう。でも、わたしの好きはリク君の好きとちょっと意味が違うかな」


「どういうこと?」


 熱と重みをもった物体が僕の体にぶつかって来た。ミオは僕の背中に腕を回し、締めつけるように強く力を込めた。


「ミオ……?」


「わたし、怖かったんだ。告白して拒絶されたらどうしようって。だから、ずっとリク君の優しさに甘えてた。リク君の優しさにつけ込んで、いつもべったりくっついて、それで恋人のつもりだった。ずるいよね、リク君の気持ちなんて確かめたこともないのに」


「ねえってば、ミオ。そろそろ帰らないと……」


「イルカちゃんに一度訊かれたことがあるんだ。リク君と付き合ってるのかって。わたし、ううんって答えたよ。そしたらイルカちゃんはこう言ったの。なら、わたしにもチャンスがあるなって。イルカちゃんはね、リク君に告白するつもりだったんだよ。怖くないのって訊いたらイルカちゃん言ったんだ。怖いよ。でも本音でぶつかり合わなきゃ、本当の意味で心を通じ合わせることはできないって」


「みんな心配してたよ。僕だって詠役になったばかりなんだし魔臼が出てもどこまで対応できるか……」


「ねえ、お願い。わたしの話を聞いて、リク君。お話ししよう? わたしも、リク君の本音が聞きたいよ」


 本音本音って、そんなものにいったい何の意味があるのだろう。僕が我慢してみんなが笑顔になるんならそれでいいじゃないか。


「ねえ、ミオ。やっぱり君はちょっと参ってるんじゃないかな」僕は可能な限り優しい声音で言った。「イルカにミナトと立て続けに友達を亡くしたんだ。堪えないはずがないよ。だからそんなおかしなことを言うんだ」


 僕は言いながら、ミオの頭を撫でてやった。この困った「お姉さん」はこうすればいつだって満足するのだ。


 なのに、なぜだろう。ミオはとても悲しそうな顔をして僕から体を離した。「そっか。わかった」


「わかってくれてよかった。じゃあ、家に戻ろう」僕はミオの顔を見ないようにしながら、その手を引いた。しかし、ミオはその場に根を生やしたように動かない。


「ミオ?」


「ねえ、リク君。わたしはこれからひどいことをする。嫌われたっていい。だから、わたしの気持ちを受け取って」


 ミオはそう言って、僕の頬に手を添えた。その瞬間、僕はこれから起こることを悟った。閉じられた瞼。わずかに開いた唇が僕のそれと重なる感触。その何もかもが、実際に体験する前から手に取るようにわかった。まるで以前にも同じ経験があるかのように。


 でも、いったい誰と?


 僕の予感が現実と一致したのはそこまでだった。なぜなら、ミオは僕が思った以上に貪欲で、舌を使って僕の口をこじ開け、僕の歯を舐め、ぞっとした僕の隙を突いて舌をにゅっと忍び込ませ、やがて僕の舌を探り当てると、自分のそれを絡ませてきたからだ。


 ちゅう――


 僕はミオの体を突き飛ばした。口元を拭った。唾を吐いた。いますぐ口の中をすすぎたかった。


「ミオ、いったいどうして、こんなことを……」言いながら、ミオの方を向いた。だが、そこに立っていたのはミオではなく……


「そんな。なんで――」


 それは白い影だった。人型のシルエット。ナイロンを思わせるなめらかな皮膚は月光を浴びてそれ自体が光っているように見えた。体毛の類は見当たらない。側頭部には鼠を思わせる大きな耳。人間の口にあたる部分からは、長い歯が覗いていた。


 ちゅう――


 そいつはそう鳴いた。


「魔臼……」


 僕は周囲を見回した。ミオの姿はどこにもない。


 まさか、こいつに――


「よくも、ミオを!」


 僕は祝詞を詠みあげはじめた。たちまち、意識が漂白されていく。魔臼が何か声を発するが聞こえない。僕はもう忘我の境地に入っていた。


 その後のことは、夢を見ているようだった。


 僕は唱え、唱え、唱え、魔臼が苦しみ出すのが見え、ミオの苦しむ姿が目に浮かび、僕はその報いを与えるように唱え、唱え、唱え、やがて魔臼がその場に崩れ落ち、嫌な匂いを放ちながら死に、僕はそれでも唱え、唱え、唱え、魔臼の死骸に向かって唱え、唱え、唱え、やがて視界が暗転するまで祝詞を唱え続けた。

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