13

 僕はウミネコさんの船を降りた足でそのままミナトの家を訪ねた。呼び出しのベルを鳴らし、洋風のドアを叩く。


「イルカのことで話しておきたいことがあるんだ」


 返事はない。聞こえるのは蝉の鳴き声ばかり。


「また来るから」


 僕は踵を返した。すると、その直後にドアが開く音がした。振り向くと、パジャマ姿のミナトがドアから顔を覗かせていた。ミナトの顔を見るのは久しぶりだ。少し癖のある髪は寝癖に乱れ、ただでさえ小柄な体躯がいっそう小さくなったように見えた。


「久しぶりだね」


 ミナトは口を開き、餌を食べる金魚のようにぱくぱくさせた。


「もしかして、声が出ないの?」


 ミナトは頷く。それからようやく声が出た。


「……ずっと……話してなかったから」


「わかるよ。僕も七年前同じ経験をしたから」僕は微笑んだ。「入っていいかな?」


 ミナトはわずかな逡巡を見せた後、ふたたび頷いた。


 僕たちは二階に上がった。海に面した部屋がミナトの部屋だ。花柄の壁紙。壁面に貼られた世界地図にはピンが何本も刺さっている。机の上には地球儀。床には昔の観光雑誌が散らばっていた。


「ずっと卓上旅行してたの?」


「呆れた?」


「どうして? 友達が死んだら気晴らしの一つもしちゃダメなの?」


「ありがとう。リクは優しいんだね。でもみんながみんなそう言ってくれるわけじゃない」


 この島の人たちは、よく言って結束が強く、悪く言えば閉鎖的だ。きっと、外の世界に「見捨てられた」という意識が強いのだろう。特に年長の島民ほど外の世界の話題を疎む傾向がある。


「僕は素敵だと思うよ」僕は励ますように言った。「そうだ。ウミネコさんから預かりものがあるんだった」そう言って紙袋を渡す。


「ウミネコさんってば。もういいのに」


「お供え物だって言ってたけど」


「そっか」ミナトはこちらを向いた。「何なのか気になる?」


「え、うん」


 ミナトは紙袋の中に手を突っ込んだ。中から出てきたのは、折りたたまれた布だった。水色を基調とした華やかな色使いだ。ミナトはそれを空中で広げると、それはワンピース型の水着となった。


「ミナトの?」


「わたしが着たらぶかぶかになっちゃう」ミナトは自嘲するように言った。うん……まあ、たしかにね。特に胸のあたりとか。


「じゃあ、イルカの水着なんだ」


「そう。ウミネコさんにサイズを伝えてあったんだ。でも、もう無駄になっちゃった」ミナトの声は徐々にトーンダウンしていった。顔が俯きがちになる。僕は思わず体がこわばるのを感じた。だって、ミナトがいまにも泣き出しそうに見えたから。


 しかし、ミナトはあくまで涙を見せず、無言で水着を折りたたみ紙袋にしまった。


「ウミネコさんの言う通り、イルカのお墓にお供えする」それから僕の方を見て、「それより、イルカについて話って?」


「ああ、うん」僕は言葉に詰まった。「あのさ、ミナト。イルカと住んでたじゃない。それでね……」


「リク」ミナトが言った。「言いたいことがあるなら勿体ぶらずに言って」


 その一言で、僕はあらゆる言葉を取り上げられてしまった。残った言葉といったら一つしかない。


「……イルカは邪教徒だった」


 僕は恐る恐る言った。しかし、ミナトは特に驚いた様子を見せなかった。ああ、なんだ、そうだったのか。


「知ってたんだね」僕が言うと、ミナトは静かに頷いた。


 だったら、どうして――


「リクが考えてることはわかるよ。なんでイルカを説得しなかったのかって思ってるんでしょ」ミナトは僕の心を見透かしたように言った。「わたしだって何もしなかったわけじゃない。七年前のことだってちゃんと聞かせたんだよ。でもね、イルカが自分で一度決めたことを曲げる子だと思う?」


「そうだね。でも、どうしてイルカは邪教なんかに……」僕は言った。「ねえ、ミナト。ミナトは知ってるんでしょ。どうしてイルカは邪教に入ったの。いったい誰にたぶらかされたのさ。教えてよ。君たちは親友だったじゃないか。まるで本物の姉妹みたいで……」


「会って三か月だったんだよ。それで親友? 姉妹?」


「ミナト? どうしちゃったのさ」


「わたしはあの子のこと何も知らなかった。どこの誰なのかも。どうして邪教なんかを奉ずるのかも」


「ミナト……」


「わたしにはわからない。あの子は魔臼の存在にもきっと何か意味があるはずだって言った。魔臼の存在を肯定してはじめて見えてくるものがあるはずだって」


「魔臼を肯定する……?」


 どういうことだろう。イルカは魔臼を奉ずることで大災を防ごうとしていたのではなかったのだろうか。彼女の信仰にはもっと別の意味合いがあったのだろうか。


「そう。イルカはこうも言ってた。自分の信仰はわたしが島の外について想像するのと同じなんだって。世の中には決して到達できないからこそ意味があるものもあるんだって」ミナトはそこで首を振った。「でも、そんなのどうやって理解しろって言うの。ねえ、リク教えてよ。あの子はいったい誰だったの。どうしてこの島に流れ着いたの。どうしてあの子は邪教なんかに染まったの。どうして、あの子は死んだの」


 ミナトは畳みかけるように言うと、顔を俯けた。


「わたしには何もわからないよ。あの子のこと、何も」ミナトは悔しそうに言った。「でも邪教徒だからってイルカがイルカじゃなくなるわけじゃない。だからわたしはそのことを受け入れることにしたし、今日まで誰にも話さなかった」


「そっか……」僕はそう言うのが精いっぱいだった。


「ごめん、リクにあたるような言い方して」ミナトは言った。「ねえ、変なこと訊いてもいい?」


「何さ。変なことって」


「うん、あのね」ミナトはもじもじしながら言った。「イルカとはキスした?」


「キス?」


「もういい。いまの反応でわかった」ミナトは僕から顔を背けて言った。それにしても、ミナトの口から「キス」なんて言葉を聞く日が来るとは思わなかったなあ。


「なんでそんなこと訊いたの?」


 ミナトは一瞬、躊躇うようにしてから言った。「あの日……最後の日ね、イルカはリクに告白するつもりだったんだよ」


「イルカが?」


「そう、イルカはリクのことが好きだった。気づいてなかったの?」


「え、うん」


 ミナトはため息をついた。「そうだよね。リクだもんね。でも、そういうリクだからこそイルカも好きになったんだと思う。とにかく、それでわたしもよく相談に乗ってたの」


「そう、だったんだ」僕は言った。そして、あえて冗談めかして、「でも、仮に僕がオーケーしたとしても、いきなりキスっていうのはちょっと性急すぎるんじゃない? ミナトは僕が抑えの利かないケダモノとでも思ってるわけ?」


「そうじゃなくて……」ミナトは言葉を探すように言った。「イルカが自分で言ってたの。リクとキスがしたい。してあげたいって」


 いまひとつ要領を得ない話だ。なんだってイルカはキスなんてものにこだわっていたのだろう。


「キスかあ……考えたこともなかったな」僕は頬を掻きながら言った。「でもさ、キスって言うんならイルカはもう経験ずみじゃない。ほら、この島に来たとき、ミナトと」


「あれは……」ミナトは顔を赤らめた。


「ねえ、ミナト。どうなの。キスってそんなに特別なものなの?」


「あれはそういうんじゃないから」ミナトは顔を伏せたまま言った。「もう、意地悪」


「あはは、ごめんって」僕は言った。「それにしても、イルカは誰から邪教の教えに触れたんだろう。ミナトは何か聞いてない?」


「わからない。そのことについて話したのは一度きりだったから……」ミナトは言った。「でも、そんなことを知ってどうするの?」


「うーん、どうしたいんだろ」


「何、それ」


「でもさ、邪教が魔臼を呼び寄せるとも言われてるでしょ。ホントかどうかはわからないけど、もしそうなら止めたいし、それに……僕は邪教の人だからって見捨てたくはないんだ。魔臼に真っ先に襲われるのは邪教の人たちだし」


「リクがそう思うのはきっと……」


「そうだね。僕が邪教徒の息子だからだと思う」


「ごめん」


「いいって」僕は微笑んだ。「ねえ、ミナト。二学期からでもいいから、学校に来ることも考えてみてよ。みんな待ってるからさ」


「そういえば、この前大勢で来てたよね」


「やっぱりプレッシャーになっちゃった?」


「わかってるんなら止めてよ。ああいうの苦手なんだから」


「僕もそう思ったんだけどねえ」


「じゃあ、何? あれもリクの意地悪なの?」


「人聞きが悪いなあ。僕はただミナトに元気になってほしかっただけだよ」僕はひらめいた。「そうだ、ミナトが学校に復帰したらみんなで盛大にお祝いしよう」


「もう、ホントやめてよ」


 ミナトはそう言って、その日はじめて笑みを見せた。


 いま思えば、僕はその笑顔をもっとはっきりと脳裏に焼きつけておくべきだったのだろう。


 生きたミナトを見たのは、それが最後になったのだから。

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