5
「ただいま」
僕は家のドアを開いた。靴をきちんと並べて置き、廊下に上がる。すると奥からがたがたと物を動かすような音が聞こえてきた。
「ナギサ? 何してるの?」
居間の襖が開き、頭に三角巾を巻いたナギサが顔を出した。
「おかえりなさい、兄さん」
「何、その恰好」
「お掃除中ですから」
「ああ、なるほどね」僕はそう言って、居間の前まで歩いた。「それにしてもナギサが掃除だなんてどういう風の吹き回しなの?」
「こんな日くらいは兄さんにお休みになってもらおうと思いまして」ナギサは胸を張るようにして言った。「われながら殊勝な思いつきでしょう?」
「そういうことは自分で言わないの」僕は苦笑した。「でも、ありがとう。ナギサ。掃除はまだ途中? 僕も手伝うよ」
僕が言うと、ナギサの笑みがたちまち強張った。
「な、何を言っているんです。兄さんは妹の厚意が素直に受け取れないのですか。ささ、部屋でお休みになってください」
そう言って、僕の背中を押して居間の前から立ち去らせようとする。うん……まあ、事情はだいたいわかったよ。
「ねえ、ナギサ。もしかして掃除するつもりが逆に散らかしちゃったんじゃない」
ナギサは目を丸くした。「兄さんは千里眼ですか」
「やっぱりね」僕はため息をついた。「別に怒ったりしないよ。僕はナギサが自発的に手伝ってくれたってだけで十分うれしいんだ」
「兄さん……」ナギサが感激するように言う。
「さ、そこを通して。一緒にやった方が早く片づくでしょ」
「わかりました」
ナギサは居間の襖を開いた。僕は思わず天を仰ぐ。視界に飛び込んできた景色は控えめに言ってもカオスそのものだった。
「さあ、兄さん。一緒にお片づけしましょう」
「あー、ごめん。ナギサ。この部屋で何をしてたって?」
「掃除と言ったじゃないですか」
「どこがだよ!」僕は部屋の中を指さした。「たしかにちょっとくらいなら大目に見るつもりだったけど、いくらなんでもこれはないでしょ! 泥棒だってもうちょっと気を使って部屋を荒らすよ!」
僕は居間に足を踏み入れた。四方を見渡し、部屋の惨状を改めて確認する。
「あーあーあー、座布団のカバーが破れてる。げ、箪笥が動いてる。ちょ、なんでこんなところに大量のティッシュが。しかも濡れてるし。野球のバットが転がってるのは何でなの。もう、何をどう間違えたらこうなるのさ。って、ねえ。ナギサ? さっきから返事がないけどどうしたの?」
僕は振り向いた。そこに立っていたのは、全身をプルプル震わせながら視点をあらぬ方へと向けている十二歳の少女だった。
「ナギサ?」
「ごめんなさい」ナギサは声を震わせて言った。「わたし、役立たずですよね。せっかく兄さんがいつもきれいにしてくれてるのに、台無しにしちゃいました」
詫びながらどんどん小さくなっていくナギサ。目元には涙がたまりはじめている。
なんてことだ。僕ともあろう者がたった一日で二人の女の子を泣かせてしまうなんて。
僕はナギサに近づいた。こうなったら、兄貴にできることはただ一つ。なでなでのよしよしだ。
「ごめん。僕の方こそ悪かったよ。そうだよね。ナギサがせっかく掃除してくれたんだもん。僕、うれしいよ。ありがとう。ナギサ」
「兄さん……」ナギサがぎゅっと抱きついてくる。ああ、もう。困った奴だなあ。いつまで経っても兄離れができないんだから。
「それにしても、ずいぶん早かったんですね」
「え、ああ、うん。まあね」
「わたし、けっきょくイルカさんには一度も会えませんでした」ナギサは言った。「なんだか不思議な感じがします。この島に外から人がやって来て、またすぐいなくなってしまったなんて」
「何度も紹介しようかって言ったじゃない」
「そうですね。こんなことになるなら、一度くらいは会っておくべきでした。この島の外から来た人に」
「ナギサは外の世界に興味があるの?」
ナギサはすぐには答えず、
「この島が嫌いなだけです」
「こらこら、そんなことは思っても口に出すものじゃないよ」
「なら、兄さんは好きなんですか。この島が」ナギサが体を離した。「お母さんやお父さんが死んだのだってこの島のせいなのに」
「僕らにはこの島しかないんだ。出ることが叶わないなら、嫌いになるよりは好きになった方がずっと楽じゃない」
「兄さんは楽天的なんですね。わたしはとてもそんな風には考えられません」
どうしたらこの困った妹を諭すことができるだろう。僕がない知恵を絞っていると、玄関の方から、隣のスズキさんの声がした。
「リクちゃん、帰ってるの?」
ナギサは来客のときいつもそうするように、息を殺して居間の隅へと引っ込んだ。膝を抱いて丸くなる。これがナギサの防御体制なのだ。つまるところ、ただの居留守なのだけれど。
僕はまたため息をつき、いろんな意味で将来が心配な妹を残して玄関に向かった。
スズキさんは縦に細長いおばさんだ。かぼちゃの煮物をお裾分けに来てくれたらしい。僕は感謝の言葉を述べ、煮物が入ったタッパーを受け取った。
「イルカちゃんのこと。本当に残念だったわね」
スズキさんは言った。ありきたりな言葉だけど、深い実感が籠っていた。
「はい」
「あの子とはシロの散歩中によく会ってね。ほら、うちの犬馬鹿だから一回噛みついちゃったんだけど、それでもあの子は仲良くしてくれたわ。リク君も悲しいだろうけど、負けないのよ」
そう言うスズキさんの目がすでに真っ赤になっている。スズキさんは細長くて、そしてとっても感じやすい人なんだ。
ナギサが何と言おうと、やっぱりこの島の人たちは優しい。大災で両親を失った僕たちが生きていけるのもこの人たちのおかげだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます