第6話〈5〉【職場見学ですが、何か?】

 

 時はおよそ三年前。

 レミュルーフ家が所有している海辺の別荘地より、少し離れたとある林の中にて。


 私、十四歳の誕生日を迎えたばかりの──【アメリア・レミュルーフ】は、文字通りの〈丸い顔〉を上空へと放っていた。


 目の前には晴天を背景に聳え立つ、背丈の立派な大木。

 そして、その木の上に。

 身を預けていた人物は……──


『──やーい、デブ女! 悔しかったら、ここまで登ってみせろよ!』


 私の幼馴染である婚約者の少年であった様子……。


 そう、私には同じ年齢の幼馴染が二人いる。


 一人は、不本意ながら。

 このニタニタと嫌な笑みを浮かべているオカッパ頭の少年だ……。


 彼は他の五代貴族の中で最もレミュルーフ家と関係が深い──【ランドレイク家】の一人息子であり、五代貴族の間でも留まり知らずの勢いを見せている名家なのである。

 

 そして、そんな名家の長男として生まれてしまったせいなのか、無事に彼も見た通りの立派な性格に……。

 

 今も木の上から私に向かって暴言を喚き散らし、『私の私物である本』をヒラヒラと見せびらかしてきている最中なのであった。


「ま、お前みたいな食べてばかりの【銀豚】じゃ、一生かかってもここまで登ってこれる訳ないだろうけどなっ! ひゃはは!」


 彼が口にする、この【銀豚】という言葉……。

 これは、彼が私に付けた数ある呼び名の内の一つである。


 無論。

 当時の若い私に、その鋭利な言葉の刃を捌ける術などある筈もなく……。


「う、うへぇぇぇーーーん!!」

 

 私は次第に。

 その場で情けなく、ポロポロと涙をこぼし始めてしまった。


 非常に恥ずかしい話だ。


 しかし、この頃の私は。

 本当に無力だったのである。


 只々、わんわんと赤子の様に泣きじゃくることしか出来ない程に……。


 しかし、それでも。

 いつも、私はその場で泣き続ける事を選ぶ。


 何故なら、私が泣き声をあげた時は。

 ほぼ決まって……──



『──あたしのご主人様に謝れ!』


 

 私のヒーローである彼女が……。

 すぐに私の元へ駆けつけてくれるからだ。


「げっ!? またお前かよ!?」


 丈に余分さを感じさせる、新品のメイド服。

 決して高価なモノとは言い難い素朴なヘアゴムで纏められた、真紅のポニーテール。


 その通り。

 突然現れた、このメイド服に身を包んだ赤髪の少女こそが……。

 もう一人の幼馴染なのである。


 そんな彼女は、私の元に駆けつけるや否や。

 卓越された運動センスを周囲に見せつけるかの如く。

 肥満気味である私には一生かけても到底不可能であろう身のこなしを使いながら、一瞬にして目の前にある大きな木を駆け登った。


 あっという間に婚約者の元に到達した彼女はそのまま……。

 私を揶揄っていた少年に目掛けて、強烈な蹴りをお見舞いする。


「げっ!? ……う、うわぁぁぁ!?」

 

 鋭い蹴りをお見舞いされた少年は、足場の細い枝の上でバランスを失ってしまったのか、真っ逆さまに地面へと落下……。


 すると、顔から地面に着地した彼は頬を抑えながら、先ほどまで自身がいた筈の木の上を強く睨んだ。

 

「【Middle Class〈中流階級〉】の癖にいつもオレ様の邪魔をしやがってっ! ウチのお父様に言いつけられたいのかっ!?」


 そして、そのままの体勢でギャーギャーと彼女に向かって叫び始める。

 

 そんな彼の遠吠えを受け取った上空の少女は、余裕そうな笑いで返答。


「ふーん? あっそ、やってみなさいよ。ついでにアンタが裏で悪さばっかりしてることも、一緒にバレちゃうかもしれないけどね」


 すると、彼は彼女の反論に返す言葉を失ってしまったのか。

 悔しそうにその場を立ち上がって、一目散にどこかへと走り去ってしまった。


 それを木の上から見送った少女は、ストンと地面に着地。

 彼の落下地点に残った本を拾い上げ、私に手を差し伸べてくる。


「アメリー、大丈夫? はい、コレ!」


 少女の名は──【ジェシカ】。


 彼女は私の親友であり。

 私の専属メイドであり。

 私のヒーローなのだ。

 

 ──そして、この一連の流れこそが。

 変わり映えのない、私の日常なのである。


 婚約者に意地悪をされ……。

 私が泣き……。

 親友である彼女が助けに来て……。

 最後に私を慰める。


 毎度、それの繰り返しだった。


「本当にごめんなさい、ジェシー……。いつもありがとうございます……」


 本を受け取った私は、木を背もたれに三角座り。

 不機嫌そうな顔を見せながら、拗ねるように顔を俯かせる。


「あはは……。あんなのが婚約者だなんて最悪だよね。ああ見えて、意外と表向きは良い子ちゃんを徹底してるから、私達が奥方様達に告げ口しても誰も信じてくれないし」


「裏表がある人は苦手ですわ……。卑怯な人も……、みんなキライです」


 すると、ジェシカは私の隣に並ぶようにしゃがみ込み、コチラに優しく微笑んできた。


「大丈夫! アメリーをイジメる人間がいたら、あたしが今日みたいに何度でも守ってあげるから! だって、あたしはアメリーの親友……──」



 しかし、彼女そこまで言葉を発した途端。

 何か思い出してしまったかのように、ゆっくりとその口を閉ざす。



「──……じゃなくて。……今はもう、ただの『お世話係』だよね……」


 彼女は間違いなく私の幼馴染……。

 しかし、彼女の家は私や先程の少年とは異なり、五代貴族に名を連ねている様な【Upper Class〈上流階級〉】の出身ではなかったのだ。

  

 彼女の家は所謂──【使用人】を排出している貴族の生まれ。

 そして、そんな彼女の家と私のレミュルーフ家は代々、長年の雇用契約を結んでいる関係性なのである。


 私の祖父には、彼女の祖父が執事として。

 私の父には、彼女の父が執事として。


 世代を渡りながら、彼女の家とレミュルーフ家は専属契約を交わしているのである。


 つまり、そこの長女として生まれた彼女も当然……。

 私の家に仕える【侍女】になる将来が確定しているのだ。


 実際、もう間もなく。

 彼女も私の【専属メイド】としてそろそろ本格的に生活し始める予定である。


「アメリアお嬢様のために、これからも誠心誠意お仕え致します」


 今回、彼女が五代貴族間で企画されたこの小旅行に同行できていた理由も、私がお母様に強くお願いしていたからだった。


 しかし、身分の違う親友の彼女には……。

 非常に厳格な父がいる。


 おそらく、日頃から娘である彼女にも厳しい教育をしていたのだろう。


 子どもという年齢でも無くなる境界に差し掛かっている事もあり、彼女もそろそろキチンとした線引きをし始めようと考えているらしい。


 しかし、私はそんな彼女の言葉に対し──



「いいえ! 親友ですわっ!!」



 ──首をブンブンと横に振ってみせる。


 例え、自分より身分が低かろうとも。

 例え、私の専属メイドになろうとも。


 私にとって、彼女が親友である事に。

 なんら変わりはないのだ。


 そう考えた私は、今一度。

 彼女の手を追いかけて、強く握る。


「貴女は私の大切な親友ですっ! 家柄が何ですの!? そんなモノは関係ありませんわっ!」

 

 私は彼女が大好きだ。


「……アメリー」

 

 彼女の様な強い存在になりたいと、何度も願った程に。

 私は、彼女に強い憧れを抱いていたのである。


「そ、そうですわ! 助けて下さったお礼をしないと……──」


 そう言っておもむろに私がポケットから取り出したモノは、私の大好物……。

 板チョコレートだ。


 ……勿論、ただのチョコではない。

 なんと、あの有名ブランドの刻印が入った、超高級チョコレートなのである。


 私は銀紙に包まれたそのチョコレートを。

 丸ごと彼女に差し出す。


「わぁっ!? ……もしかして、またティータイムの時にコッソリ隠し持ってきたの!?」


 ちなみに、コレも毎度行う恒例行事の一つ。


 こんなことしか出来ないのは情けない話だが、仕方がない。

 勉強以外に特に取り柄がなかった私にできることは精々……。

 お気に入りのお菓子を分けてあげることくらいだ。


 すると、ジェシカは少し困った様な笑いを見せる。


「しかも、またチョコか〜……。本当にチョコが好きだね、アメリーは」


 ただ、私のポケットから出てくるのはいつだって私の大好物のみ。

 ……故に、毎度同じモノを彼女に差し出しているということ。


 いくら高級であるとはいえ。

 毎度渡される同じお菓子に、内心は飽き飽きとしているのか。

 彼女は微妙な反応を見せてきた。


 すると、それに気がついた私は。

 次第に顔を暗くしてしまう。


 ……もっと、私にも。

 他に何か出来ることがあれば。


 そう考えると、途端に自分という存在が恥ずかしく思えてしまい……。

 私はチョコを差し出していた手を、その場からゆっくりと引っ込めてしまった。

 

 ……だが、その瞬間──


 

「──……なーんてね! スキアリっ!」


 彼女は油断していた私の手を取り、その上でチョコレートをパキッと割り砕いてきた。


「……え?」


 更に、そこから全体の八割分をも占めるチョコレートを盗み取りながら、コチラに笑顔を見せてきたのである。


「半分もーらいっ! ……あははっ!」


 そんな彼女の行動に対し、私は一瞬だけポカーンと口を開けてしまったが、すぐにコチラも同じ顔を見せる。


「……あっ!? それのどこが半分なのですか!? もうっ!」


 そう、ジェシカはカッコいいだけではない……。

 彼女は、誰よりも優しいのだ。


 だから、私はこの先。

 どんなに辛い事が起きても……。


 彼女が側に居てくれるだけで、笑顔になれるのだろう。

 


 ──────


 ────


 ──小旅行、二日目。

 レミュルーフ家が所有する海辺の大型別荘地にて。

 ……またもや、午後のお茶会が開催されたらしい。


 広すぎるバルコニーでは昨日と同じく。

 青く輝いている海をバックにしながら五代貴族の子世代達がテーブルを囲み、あちこちで楽しく談笑している模様。


 毎度毎度、暇があれば開かれるお茶会に対し、正直かなり辟易としていた私であったが……。

 それが貴族の嗜みというのなら仕方がない。


 昔から優等生気質である私はいつものように真面目に出席し、今日も自ら率先して誰もいない端っこのテーブル席へと移動する。


 すると、対面側に集まっていた私よりもひと回りほど年代が高い子世代達の席から、クスクスと笑い声が聞こえてきた。


『──ほんっと、ワタシの妹は面白いでしょ〜? 痩せればワタシみたいに可愛くなれるかもしれないのに、あんなにぷくぷく太ってるの! どうして痩せようとしないのかしらねぇ〜?』


『あははっ! ちょっと、そんなこと言っちゃ可哀想だよアナベルさん。……そうだ! それより、次の休日なんだけど──』


 どうやら、声達の中心にいたのは。

 華やかな水着姿を披露している私の姉──長女の【アナベル・レミュルーフ】であったらしい。


 そんな姉は、身体のラインが隠れた長袖のサマードレスを着ている私に視線を合わせながら、それを囲う青年達と楽しげに会話している様子である。


 ……そう、私がお茶会時に行う立ち回りは、大きく分けて二種類のパターンが存在するのだ。


 パターンその1。

 姉妹で参加するお茶会だった場合。


 既に同年代の婚約者が存在している私は、ひたすらお姉様達の惹き立て役兼、会話の掴み作りを担当しなければならない。

 ……最も、私はただポツンと席に座っているだけでいいので体力的にはかなり楽なのだが、流石に容姿を話題に出されるのは精神的に来るものがある……。


 パターンその2。

 同年代のみで開かれるお茶会だった場合。


 五代貴族の中で最も有力な婚約者を持たされている私に近づく男性はまず存在しない為、常に壁の華を決め込めるのは精神的に落ち着ける。

 しかし、代わりにひたすら婚約者のストレス発散目的による目下の嫌がらせに耐えなければならないのだ。

 ……こちらはこちらで体力的な疲弊が生じてしまう為、かなり憂鬱である。


 そして、なんと。

 此度は、五代貴族による子世代達が親睦を深める為に毎年行われている小旅行だ。

 つまり、現在はその両方が合わさったお茶会に参加しているということ。


 しかも、バケーション期間は残り一週間……。

 控えめに言って、地獄だ。

 

 こんな時は適当にテーブルのお菓子をつまみながら本と向き合い、ひたすら時計が進んでいくことを祈るに限る。


 と言う訳で、私はいつも通り。

 目の前にあるテーブルからお気に入りのチョコレートを手に取り、そのまま隣の椅子に置いていた本を構えようとした。


 だが、しかし──



「──……あれ? 私の本が無い……?」



 いつの間にか、私が隣の椅子に置いていた筈の本が、忽然と姿を消していたのである。


「まさか……!」


 嫌な予感がした私は急いでバルコニーの端に駆け寄り、キョロキョロと辺りを見渡してみた。

 すると、私の予想通り……。


 例の婚約者がコソコソと私の本を抱えながら、別荘地の脇にある林の方へと走っていく姿が目に入った。


 完全に油断した。

 いつもなら、彼がお茶会に飽きてきた頃合い……。

 つまり、お茶会が終わる間際である後半に仕掛けてくる事が多いのだが……。

 どうやら、今回は開幕から仕掛けてきたらしい。


 私は慌てて一階へ駆け降り、彼の背中を必死に追いかける。


「か、返しなさい! 今日という今日は、本当に許しませんわよっ!」


 道なき林の中を征く、彼の背中……。

 それに食らいつく様に懸命に追いかける私であったが、運動不足すぎる私の足は非常に鈍足だ。


 到底、彼に追いつける筈も無く。

 すぐに彼を見失ってしまう形となる。


「はぁ……、はぁ……。今回は……、一体、どこまで行く気ですの……?」


 次第に体力が尽きてしまった私は、激しく息を切らし……。

 その場で暫く足を止めてしまった。


「確か、こっちの方に走っていった気が……」


 そして、不機嫌そうな表情を浮かべつつも。

 彼が消えていったであろう道を辿って、草木を掻き分けながら歩いていく。


 道なき道を進んでいくこと。

 およそ数分……。


 やがて、木々の生えない一本の林道に飛び出てしまった。


 すると、丁度そのタイミングで──



『おっ? へへっ、やっと来やがったな!』



 ──突然、隣の木の上から。

 その様な少年の声が聞こえてきたのである。


 私はビクッと驚きながらも、隣にあった一番近い木を見上げてみると……。

 そこには私の本を持った婚約者の姿が。


「あっ!? そんなところに!」


 なるほど。

 おそらく、今日の彼は。

 この木の上に本を隠すつもりなのだろう。


 私は、いつもの様に彼を強く睨みつける。


「おっと、残念ながら今日は鳥の巣じゃないぜ? もっと恐ろしい場所に隠してやろうと思ってるんだ」


「お、恐ろしい場所……?」


 すると、そのオカッパ頭の少年は。

 木の上から『とある方向』へと指を差し始めた。


 なので、私も。

 彼の視線の先を追いかけてみる事に──


「こ、ここは……?」


 ──目の前には。

 私達の背丈より何倍も高い石塀。


 そして、彼は木の上から。

 その石塀の内部を覗き込む様な仕草をする。


「お前も何回かこの別荘地に来てるんだから、噂くらいは聞いたことあるよな? この『呪われた館』からは毎晩、幽霊の啜り泣く声が聞こえてくるらしいぜ? ……しかも、敷地内に足を踏みいれた奴は、二度と帰って来れないんだとか……!」


 そう、私の父が所有する海辺の別荘地……。

 この地域には、ある都市伝説が存在していたのだ。


 勿論、私も何度かその話を聞いたことがある。


 この林の奥深くに建てられた館には。

 やれ殺人鬼がいるだとか。

 やれ悪魔が住み着いているだとか。

 やれ幽霊が彷徨っているだとか……。


 しかし、それはあくまで子どもの間で語られている噂話だ。


 年々、姿を変えながら貴族の子達の間で語られていた為、正直なところ個人的な感想言えば……。

 あまり信用はしていない。


 すると、次の瞬間──


 

「ま、せいぜい呪われないように取ってくるんだなっ!」



 ──婚約者の彼は。

 手に持っていた私の本を……。


「あっ!?」


 石塀の向こう側へと、放り投げてしまったのである。


 私の本はバサバサと音を鳴らしながら弧を描き、壁の向こう側へと消えていく……。


 そして、本を投げた当の本人である彼は木から飛び降りるや否や。

 そのまま、そそくさと何処かに逃げてしまった。


「……」

 

 取り残された私は、とりあえず。

 その石壁沿いに外側から回り込み、鉄の門を構える正面側へと目指してみる事に。


 あまりにも静か過ぎる敷地の内の様子。

 ギィギィと音のなる半開きの門。

 悪魔の手の様に壁を這う苔。

 異様に不気味な雰囲気を醸し出す廃墟に近いボロボロの館。


 そんな噂の館をいざ目の当たりにした私は、すっかりその場で空気を呑まれてしまったのか。

 キョロキョロと辺りを見渡しながら、ポツリと不安げな声を上げる。


「うぅ、ジェシー……」


 咄嗟に口から出たのは、親友の名。


 どうやら、こんな時ですらも。

 私が頼るのはやはり、親友であるジェシカだったらしい。


 彼女に着いてきて貰おうと考えた私は、逃げる様に身を翻し……。

 来た道とは違う方向である林道沿いを通りながら、別荘地へ帰ろうとその場で大きく足を踏み出した。

 

 そして、事件が起きたのは。

 まさに、その時だった──



「──え? ……ひゃぁぁっ!?」



 何故か突然。

 目の前の大地がボロボロと崩落。


 足場を失った私は、そのまま地面の中へと落下してしまう。


「あうっ! ……いたた。な、なんですの、いきなり!」


 地中の底で大きな尻餅をついてしまった私は軽く辺りを見渡してみると、お尻の下に土塗れのビニールシートが……。


 どうやら、私は。

 落とし穴の中へと落ちてしまったらしい。


 一瞬、誰がこんなところに落とし穴なんて作ったんだと苛立ちを募らせたが……。

 ……愚問である。


 わざわざ、こんな事をする人物なんて。

 最初から一人しかいない。


 穴の底から上空を見上げれば、私の予測通り。


 いつもの様に腹立たしい顔を見せる……。

 オカッパ頭の婚約者の姿が……──



『──アメリー! 大丈夫!?』


「……えっ?」


 しかし、予測外の出来事。


 穴の上にいたのは、なんと……。

 私の親友である、メイドのジェシカの姿が存在していたのだった。


「ほら、引き上げるから捕まって!」


 よく分からないが……。


 おそらく、彼を追いかける私を心配して。

 私達の後を追ってきてくれていたのだろう。


 今日ばかりは、いち早く私の元へ駆け付けてくれたらしい。


 ほぼノータイムですぐに現れた親友の登場に対し、私は安堵の表情を見せていると。

 彼女は辺りを見渡しながらも、慌てた様子で泥だらけの手を私に差し出してくる。


 私は真上にいた。

 そんなジェシカに手を伸ばしながら……。

 明るい顔をみせた。


「丁度良かったですわ、ジェシー! この後、少し一緒に着いてきて欲しい所がっ……──」


 しかし、その瞬間。

 上空から聞き覚えのある笑い声。


「ははっ!! 引っかかりやがった!!」


 そんな声が聞こえきたかと同時に。

 少量の泥が、私の真上から降りかかってくる。


「──きゃっ!?」


 私は上を見上げていたせいで。

 少し口の中に砂利が入ってしまったらしい。


 下を向いて「ペっペっ」と異物を吐き出していると、再び上空から婚約者の声が響いてくる。


「ひゃはは、大成功! 泥浴び中か〜、銀豚!」


 再度上を見上げて確認すると、そこには先ほど逃亡したはずの婚約者の姿。

 つまり、泥を飛ばしてきたのは彼なのだろう。


 すると、次に彼は……。

 耳を疑うような言葉を間髪入れずに。


 その場で発し始めた。


「おい、ジェシカ! お前もやれよ!」


 なんと、穴の上で彼と肩を並べている隣のジェシカに対し、そんな訳の分からない事を言い出したのである。


「……はい?」


 それを耳にした私は。

 思わず、穴の中で呆れを見せてしまう。


「何を馬鹿げた事を言ってるのですか……。ジェシーは私の親友ですわよ? 彼女がそんな事をするはずが──」 



 しかし、次の瞬間……。


 そんな私の発言とは裏腹に。



「──……え?」


 私の頭上から。

 『大量の泥』が降りかかってきたのであった。


 それをまともに頭から被った私は……。


 自前の銀髪も。

 着用しているサマードレスも。

 

 全てが泥に塗れてしまう形となる。


 そして、私は見てしまったのだ……。


 今、泥を落としてきた人物が。

 誰なのか、を──



「ぎゃはははははっ!!! 本当にやりやがったぞ!!」



 ──そう、間違いない。

 いや、間違いようもないだろう。


 何故なら、私の頭上には……。


 バケツを手にした私の親友。

 ジェシカが立っていたのだから。

 

「ジェシー……?」


 その事実が信じられなかった私は。

 思わず、その場で乾いた笑いを溢してしまう。


 そう……。

 私は信じられなかったのだ。


 高笑いする意地悪な少年の声に。

 ではない……──



「…………どうして?」



 ──私を冷たく見下している。

 親友の目線が……。


 本当に信じられなかったのである。


「残念だな、銀豚っ! お前んところの使用人は『今日からウチのメイドになった』んだよ! 今までオレ様に働いた無礼な行いを償う為になっ!!」


 その言葉を聞いた瞬間。

 賢い私は全てを理解してしまった。


 おそらく、婚約者である彼は。

 

 今までのことを全て。

 『親』に告げ口してしまったのだろう。


 自分の親に?


 いや、違う。


 『ジェシカの父親』に、だ……。


 そして、これこそが。

 彼が考える、【ランドレイク家】の一人息子に裏で暴力を働いた彼女への最大の報復なのである。


 そもそも、この事件をそのまま馬鹿正直に自身の父に伝えてしまえば、自身が持つ裏の顔も同時にバレてしまう危険性があった。


 それを危惧した彼は。

 彼女の父親に直接接触……。


 おそらく『今回の件を不問にする代わりに、彼女の雇用先をランドレイク家へ変更させろ』と、脅迫でも仕掛けたのだろう。


 しょうもない事ばかり考えつく彼が考えたにしては、ヤケに出来すぎた作戦だが……。

 現状、五代貴族トップからそんな脅迫を受けてしまえば、彼女の父がそれに従うしか無くなるのは目に見えている。


 でも。


 だからって、こんなこと……!


「ほら、行くぞメイド! これからはオレ様の言うことだけに従うんだぞっ! ひゃっはっはっは!」


 私を見下ろしていた穴の上にいる二人の視線。

 それはやがて、私の姿から逸れてゆく。


「待ってっ!! 行かないでっ!!」


 すると、必死にそう叫ぶ私の声に。


 ジェシカだけが立ち止まってくれた。


「ごめんね……。こうしないと、あたしの家が滅茶苦茶になっちゃうかもしれないの」


 そして、彼女は背中を見せたまま。

 私にこう呟く。


「……本当にごめんね。大好きだよ」


 ……それが私が彼女と交わした。

 最後の言葉であった。


 本当はあらゆる言葉を並べ、彼女を近くに引き留めておきたかった。

 しかし、私はそうしなかったのである。


 ……何故なら。

 私は誰よりも理解していたからだ。


 彼女が『どれだけ優しい人間』なのかを。


 私は『彼女から隠れてプレゼントされた大量の泥』達に視線を落としながら、必死に涙を堪える。


 そして、その泥を固めて足場を作り。

 何とか一人で落とし穴から脱出した。


 遠くに見えるは、婚約者の数歩後ろ……。

 つまり、従者の位置をキープしながら歩く彼女の後ろ姿だ。


「うぅ……!」

 

 そんな親友である彼女の背中が。


 私の前から完全に消えてしまった時……。


 私は……──



「うわぁぁぁぁぁぁぁんん!!!」



 ──泥だらけで。

 わんわんと泣き続けた。


 いくら大きな声を上げて。

 その場で泣き続けようとも……。


 私のヒーローが駆けつけてくれる事は。

 もう、二度とないのだろう。


 ……。


 今思えば、本日は。

 全てがいつもと違っていた気がする。


 何故、私はもっと早く気づけなかったのだろうか?


 いつもと違った。

 かなり早い時間から開始された婚約者の嫌がらせ……。


 いつもと違った。

 不自然すぎる程に早く駆けつけてくれた親友と、私に差し伸べられたその泥だらけの手……。


 そして──



『──……〜〜』


 いつもと違い。

 私と共に泣き声をあげる『どこかの誰か』……。


 そう、その場でへたり込む私の背後。

 つまり、背後にある噂の館方面から……。


 別の誰かが発する『泣き声』らしきモノが聞こえてきたのである。


「……?」


 ……本来なら恐怖を感じ、泣き喚いて逃げていたかもしれない。


 しかし、今日の私はあろうことか。

 その呪われた敷地内に、自ら足を踏み入れてしまったのである。


 まるで、その鳴き声に吸い寄せられるかの様に……。


 不思議と臆する事なく。

 私は泣き声がする方角を目指しながら、ひたすら歩いてゆく。


 ……もしかすると。

 誰でもよかったのかもしれない。


 一秒でもいい。

 誰でもいい。


 私は、今すぐ。

 この孤独感を消したかったのだろう。


 泣き声の出所は、敷地内部にある館の裏手側だった。


 そして、そこには。

 館とは別に建てられていた──【石壁の小屋】が存在していたのである。


「……」


 私はその小屋の前に足を合わせ、ゆっくりと目を瞑ってみた。

 

 すると、その小屋の上部。

 高い位置に穿たれた四角い小さな穴から……──



『──ぐしゅっ……、ひっく……』



 ──確かに、小さな女の子らしき人物の啜り泣く声が聞こえてきたのである。


 姿は確認できないが。

 彼女が『噂の幽霊』なのだろうか?


 私は小さなその穴に向かって。

 静かに呟いてみた。


「……幽霊さん、……貴女も一人ですの?」


 ──自らのポケットから取り出したモノは。

 銀紙に包まれた一枚の板チョコレート。


 私は手の中でそのチョコをパキッと鳴らし……。


 その中へそっと。


 その片割れを投げ入れたのであった。



          ✳︎

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