第5話〈3〉【華の日本人ですが、何か?】
緑の三角巾とお気に入りの割烹着。
この二つは、私が保育園から小学校に上がった際にお母さんから貰ったものである。
幼かった私はそのプレゼントに大はしゃぎ。
四六時中それらを身に付けて過ごしていた。
その事は私自身もよく覚えている。
なにせ、大好きなお母さんと同じ恰好ができたのだから当然だ。
……只、子どもの成長と言うのは早いもの。
身体の成長につれて、すぐにそのサイズも合わなくなってしまう。
幼い私はその事に納得出来ず。
それでもその割烹着に無理矢理袖を通そうとしていたらしい。
それを見かねたお母さんも、新しく別の割烹着を買ってきてくれたのだが……。
どうしてもお母さんとお揃いであるあの割烹着でなければ嫌だった私は一日中大泣き。
結局、最後までその割烹着を捨てきれなかった私は……。
最終的にお婆ちゃんに泣きつき、一からミシンを習いながら自らの手でその割烹着に布を継ぎ足したのだ。
小学生になっても無理矢理それを使用し続けたのは、まるで昨日の事のように覚えている。
……そして。
そんな思い出の三角巾と割烹着は──
「──よし……っ!」
無論、今も健在であった。
色落ちした薄緑の三角巾と、何度も改修された跡が残る割烹着を装着した私が現在、立っている場所は……。
──とあるお屋敷の立派な【厨房】
私は手を洗い終えると、自身を鼓舞するかの様に顔の前で両手をギュッと握りしめてみせる。
そう、今から私が行おうとしているのは『昼食作り』だ。
何故、平凡な女子中学生が海外まで来てこんな事をしているのか?
事の発端は、恩人であるルーヴェインさんに──【アメリアさんの負担を減らす為に、彼女の仕事を手伝って欲しい】と急遽お願いされたのが全ての始まり。
早い話、多忙なアメリアさんを少しでも休ませる為に今日一日、私が彼女の仕事をできる限り代理する役目を引き受けたのである。
そして、現在の時刻は昼時前。
早速、アメリアさんがこなそうとしていた午前中の仕事の一つである──『昼食作り』の時間がやってきたのだ。
「よしっ、頑張るぞ〜っ……!」
私は意気軒昂にそのやる気を吐露すると、この屋敷で働くメイドのアメリアさんが、私の目の前でこの様な言葉をボソッと呟いた──
『It was supposed to my turn…….〈折角、私の番だったのに……〉』
──ズーンと沈み込んでいる様子のアメリアさん。
そんな彼女を見て、私は不思議そうに首を傾げてしまう。
ちなみに、私の耳はまだまだ英語慣れしていない状態だ……。
故に、たった今アメリアさんが口にした言葉の意味も、私には上手く理解できないのである。
……うーん。
カノンちゃんみたいに『簡単な単語』だけで会話してくれるなら、まだ言ってる事が理解できるんだけどなぁ。
はぁ……、この調子だと。
完璧に英語が話せるまで、結構時間かかりそうかも……。
すると、アメリアさんはそんな私の様子に気がついたのか、咳払いを挟んでからニコッと誤魔化す様な笑みを浮かべてきた。
「し、失礼しました。それでは始めましょうか」
アメリアさんは親切に言語を、わざわざ私の母国語である日本語へと切り替えてくれた模様。
ルーヴェインさんもアメリアさんも日本語が上手で助かるなぁ……。
「ところで、何をお作りになるかは、もう決めているのですか?」
本日の献立を何にするのか……。
勿論、私は予め幾つかの候補を脳内に挙げていた。
「色々考えたんですけど、やはりここは『アレ』で行きたいと思います」
直前に覗かせて貰った冷蔵庫の中身。
疲労を溜めているであろうアメリアさんの精力補給。
男性であるルーヴェインさんでも満足するボリューム感。
期待を膨らませるカノンちゃんを納得させる代表的な日本料理。
それら全ての条件を満たしている料理は。
偶然にも私の得意料理が、それに該当していたのである。
そう、私が作ろうと決めた料理の名は──
『【トンカツ】を作りましょう!』
──日本人なら誰でも一度は口にしたことがある揚げ料理。
【トンカツ】だ。
私の出した答えに対し、アメリアさんは顎に手を添える。
「トンカツ……。確か、フランス料理である
──【Cutlet〈カットレット〉】を日本流に改良したフライ料理のことでしたわね。丁度、午前中にルーヴェインが契約してきた豚肉が先ほど大量に屋敷へ届いた所ですし、とても良い考えだと思いますわ」
どうやら、それはアメリアさんを納得させる答えだったのか、彼女は直ぐに巨大な冷蔵庫から四枚の豚肉とトンカツ作りに必要な食材を取り出して中央の台に移し始めた。
よし、見たところトンカツ用のパン粉とソース以外は全部揃ってるみたい……。
トンカツ特有の粗めのパン粉はフランスパンから作れるし。
トンカツソースは天国のお爺ちゃんが生涯かけて開発した門外不出の自家製ソース……──通称、【西園寺家秘伝のタレ】をこの場で調合すれば代用できる!
調理台にある食材達を眺め、改めてそう確信した私は笑顔で調理に挑み始めるのであった。
私は広い厨房に複数存在する内の調理台から一つ選んで、その前に立つ。
「それじゃあ早速始めちゃいますね! もし注意点とかあれば遠慮せずに言ってください!」
まず豚肉を適温まで解凍し、包丁で筋切りを済ませて素早く下処理を加えていく作業からだ。
肉を包丁の背で丁寧にほぐし、塩胡椒。
料理酒と油を馴染ませおえると、次にパン粉作りとバッター液。
そして、自家製ソースの製作を順番に開始していく。
「ふむ……、随分と手際が宜しいですわね。もしや作り慣れているレシピなのですか?」
すると、そのタイミングで隣から観察していたアメリアさんが小さく感心の声を漏らした。
「はい! 私のウチは農家なので、両親が忙しい時はこうして良く弟や妹達に振る舞っていたんですよ」
「なるほど、そうでしたか……。それなら、味の心配は無用そうですわね」
それを聞いたアメリアさんは納得の表情を見せると、どこからともなく一箱のアタッシュケースを取り出し始める。
そして、その中から一本の和包丁を引き抜いた。
「では、そろそろ私も……──」
包丁を手にした彼女は、上機嫌で私の背後に位置するもう一台の調理台へと向かおうとしていたので……。
それを目にした私は、慌てて彼女の腕を掴みながらグイッと引き留めてみせる。
「──あっ!? ちょっと! アメリアさんは休んでて下さいっ! 四人前くらいなら私一人でも十分ですから!」
ルーヴェインさんから聞いた話によれば。
住み込みで働くアメリアさんはこの屋敷に来てからというもの、たった一日の休日すらもまともに過ごせていない状態らしい。
私の役目は──『アメリアさんを出来るだけ休ませる』ことだ……。
故に、ここで彼女の手を借りる選択肢はない。
そう考えた私は必死にアメリアさんの腕を掴み、意地でも彼女に仕事をさせまいとその場に引き留めると、彼女は困った様な笑いを浮かべながら、この様な発言をしてきた。
「……その事についてなのですが、実は少し『変更点』がございまして」
気になる単語を吐き出したアメリアさん。
そんな彼女の言葉を耳に入れた私は「え?」っと小さく呟く。
「へ、変更点ですか?」
「はい。どうやら午後からルーヴェインがこの屋敷の提携先である近所の漁業組合に顔を出すらしいので、ついでにそこで働く漁師さん達に『お昼の差し入れ』をしようと考えているのですよ」
お、お昼の差し入れ?
「……つまり、少し多めにトンカツを揚げて欲しいってことですか?」
私の予想に、アメリアさんは頷く。
少し多めかぁ……。
それってどのくらいなのかな?
ちょっと増えるくらいなら……、きっと私一人でも大丈夫だよね?
とにかく、今はアメリアさんを休ませることだけを考えないと!
そう考えた私は、アメリアさんを引き止める手を離さず、そのままの体勢でブンブンと首を横に振り続けた。
「さ、差し入れの分も私が作りますからっ! あと何枚揚げれば良いのかだけ教えて下さいっ!」
岩の様な頑固たる決意で。
私はそう強がりながら言葉を返す。
「……うーん、そうですわね──」
すると、何かを思い出す様に自らの指を顎に当てるアメリアさんから。
とんでもない回答が飛び出てきた。
『──ざっと六十人前くらいですか?』
その数を聞いた瞬間……。
私はポカーンと馬鹿みたいに口を開けたままフリーズしてしまう。
へー……。
英国人が使う『少し多め』の基準に……。
【六十】はギリギリ入ってるんだなぁ……。
……。
……って。
「ろ、ろくじゅうぅぅぅーーーー!?!?」
──余りにも無茶苦茶なその数字に対し、私は厨房に声を反響させてしまった。
「いやいやいや!! 無理無理無理っ! 日が暮れちゃいますってば!?」
え、どゆこと!?
『今日のお昼ご飯のおかずを差し入れする』って話だった筈よね!?
私は厨房の壁にかかった『午前十一時』を記す時計に視線を送りながら、そっとアメリアさんに素朴な疑問をぶつけてみる。
「……あの、すみません。ちなみにルーヴェインさんは何時頃にそこへ向かう予定なんですか? お昼まであと一時間くらいしか無いんですけど……」
すると、そんな私の質問に。
彼女はキョトンとした顔で淡々とした声でこう答えた──
「え、普通に一時間後ですけど?」
「『普通に』一時間後!?」
あ、そうか!
アメリアさんは『普通に』英国生まれだった!
だから、今までトンカツを食べた事はあっても……、『作った事は一度も無い』んだよ!
豚肉の厚さで判断する限り。
この肉を一枚揚げ切るには、最低でも五分はかかる……。
しかも、私の家で作るトンカツのレシピは二度揚げ法を用いてるので、単純にその倍近くはかかってしまうだろう。
鍋の大きさ的に三枚はまとめて揚げられそうだが、それ以上は駄目だ……。
一度に沢山入れてしまえば油の温度が下がり、味に影響が出てしまう。
……。
……うん、無理です。
コレ、絶対に無理。
一人じゃ間に合いません。
……いや、そもそも二人でも不可能じゃないかな?
額に汗を浮かべる私は、静かにアメリアさんを説得する方針へと切り替えた。
「すみませんけど……、下準備も無しに六十人前のトンカツを『一時間以内』に揚げるなんて絶対に無理ですよ……? 数を減らすか、別の物で代用しませんか?」
すると、私の小さな抗議の声に対し、アメリアさんは不思議そうに首を傾げる。
「え、一時間……?」
「……あれ? 一時間以内に作らないと駄目なんでしょ?」
すると、少し間を開けたアメリアさんは、「ふふっ」と冗談っぽく笑い始めた。
「……あぁ、言葉足らずで少し勘違いさせてしまったようですわね。調理時間は一時間以内ではありませんよ?」
そして、そのように時間の部分に訂正を入れてきたのである。
これには、冷や汗を浮かべていた私も安堵の表情を見せる。
あ。そっかそっか!
そ、そうだよね!
お昼ご飯だからといっても、世界中の人が正午ピッタリにご飯を食べてる訳じゃないもんね!
漁師さんとかなら、漁の関係で少し遅れてお昼を摂ってるのかも!
そうだなぁ……、二時までなら、急げば何とかなりそう!
ルーヴェインさんには悪いけど、一度トンカツを取りに屋敷まで帰って来てもらう形になっちゃうなぁ……。
でも、こればかりは仕方ないもんね。
「あはは! そ、そうですよね……! 流石にもっと時間がないと、六十枚なんて絶対に不可能で……──」
「──ルーヴェインの到着予定時刻が約一時間後ということですわ。ですから正確に言えば……、あと『三十分以内』に作らないといけませんね」
「……へ?」
──……。
アメリアさんのドぎつい訂正の言葉が、私の言葉に被せられた瞬間。
私は笑顔のまま表情を硬直させる。
そして……。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーー!? なんか減らされたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーっ!?」
いや、どういうことなの!?
調理時間を増やしてくれるどころか……。
半分に減らされたよっ!?
……てゆーか誰ですか!
英国人は紅茶ばかり飲んでる時間にルーズな国民性だから、遊ぶ約束する時やバスの遅延には気をつけろとか言ってたの!!
全然、聞いてた話と違う!!
どっちかって言うと……。
死ぬほど自分を限界に追い込むタイプだよっ!!
真っ青な顔の私は一人でオロオロと狼狽えているとアメリアさんがニコッと微笑み、落ち着いた佇まいで私の肩にポンと手を置いてきた。
「とりあえず時間もありませんし、まずは華様流の作り方を私に教えて下さいませんこと?」
どんな算段があればそのテンションを維持できるんですか……。と、思わず彼女にアドバイスを求めてしまいそうになったが、今はそれどころでは無い。
しかし、このままだと彼女の手を煩わせてしまう事になる。
……とは言ったものの、解決策が閃かないのもまた事実。
私はアメリアさんの顔を恐る恐る見上げると、彼女が優しく微笑んでくる。
「二人で手分けすれば、きっと何とかなりますわ。……ねっ?」
「で、でも……」
本当に良いのだろうか?
彼女を休ませる為に、私は今この場所に立ってるというのに……。
私は壁にかかった時計とアメリアさんを交互に見比べながら、心の中で葛藤する。
そして。
私が出した決断は……──
「うぅ……、お願いします……」
──折れ。であった。
私の固い意志は、妙に頼りになる態度の彼女に折られてしまい……。
結局、素直にアメリアさんの手を借りる事となってしまったらしい。
「お任せを、料理長。……それではまずお手本として、そのまま華様に一枚仕上げて貰おうかしら?」
──────
────
──……約十分後。
「で、出来ましたっ!」
私はジュージューと音を鳴らすトンカツを一枚。
鍋から掬い上げて銀のトレイに移すと、背後からアメリアさんがその出来上がったトンカツを覗き込んできた。
「なるほど、これが華様のご自宅でいつもお作りになられてるトンカツなのですね。……綺麗な狐色で、食べずとも美味しさが伝わってきますわ」
私は英国に来て初めて人に褒められた喜びからか妙に嬉しくなってしまい、同時に調合していた自家製ソースが入ったボウルを自らの顔の横に掲げる。
「えへへ、それほどでも……。お爺ちゃんが長年かけて開発したこの自家製ソースにつけて食べれば、それはもう頬っぺたが落ちちゃうくらい美味しいんですよ〜」
……と、和んだのも束の間。
「──って!? 呑気に会話してる場合じゃないですよ! 急いで次のカツを揚げないと!?」
あれから私は、可能な限り大急ぎで一枚のトンカツを作り終えたのだが……。
時計に視線を送れば、秒針は──『午前11時10分』を指し示していた。
こ、これをあと五十九人前と更に。
私達の分も作らないといけないの……?
残り二十分で……?
「……て、天地がひっくり返っても間に合わない……」
もはや私は。
乾いた笑いを吐き出すことしか出来なかった。
しかし……、嘆いている暇はない。
私はすぐに新たな豚肉を取りに駆け足で冷蔵庫に向かった。
そして、冷蔵庫の扉を開けて、その中へ手を伸ばそうとした瞬間。
その中身に激しい違和感を覚える。
「え……? あ、あれ!? 豚肉がない!!」
なんと、大量に積まれていた筈の豚肉が全て、忽然と姿を消していたのである。
私は慌ててその事をアメリアさんに報告しようと、その場を振り返った──
「……アメリアさん! ここにあった豚肉知りませんか!? 全部無くなってるんですけ……ど……」
──そして、私の背後にいたアメリアさん。
彼女のいる方角を見た瞬間……。
私はその目を疑ってしまう事となる。
何故なら私の目の前では……。
にわかに信じ難い光景が広がっていたからだ。
「なに……、これ?」
アメリアさんが立っていたのは、厨房の中心部に存在する中央作業台の前だ。
そして彼女は……。
その場で包丁、卵、豚の筋を自らの周りに。
文字通り。
『浮かせていた』のである。
厳密に言えば、浮いて見えたと言った方が正しいだろうか?
目を擦りながら良く見てみると……。
どうやら、驚異的な速さで下処理と大量のバッター液作りを済ませている最中だったらしい。
それだけではない。
彼女はそれと平行しながら、ムラなくバッター液を染み込ませ終えた豚肉達を。
厨房のあちこちに向かって……。
放り投げていたのである。
時には左、時には右、時には斜め。
私はその方角に恐る恐る視線を送ってみると……。
そこには、私が使っていた場所以外の調理台が存在していた。
調理台にはそれぞれ。
二口ずつ備えられたコンロが設置されており。
そして、その上には、既に油の張った大きな鍋が用意されていたのである。
おそらく、私がお手本の一枚を調理している間に彼女が設置して予め火をかけておいたのだろう。
そして、弧を描きながら宙を移動する豚肉の行く先は。
まさに、その鍋の中である。
ノールックで次々と彼女の手から放たれるその豚肉達は、さながらプロの飛込選手の入水が如く。
着水の音を一切鳴らさずに、静かに鍋の油へと消えていく。
すると、次の瞬間──
「……っ!?」
──全ての鍋から一斉に。
『ジューッ』と心地の良い音が厨房中に鳴り響いたのであった。
そして、その音と共に。
アメリアさんは布巾で自前の包丁を華麗に拭き通す。
あまりにも奇抜な調理法。
いや、調理の領域を超えた神業に対し……。
私は思わず、彼女の姿を魅入ってしまった。
すると、アメリアさんはようやく私の視線に気がついたのか。
コチラにニコッと笑って話しかけてくる。
「味付けはきちんと華様流のレシピに沿っておりますので、どうかご安心下さい。トンカツの方はこのまま私が引き受けますので、華様にはそのまま、カノン様に提供する分の付け合わせ等をお任せしても宜しいですか? お味噌でも豚汁でも構いませんので、可能なら汁物もお願い致します」
「……へ? あ……。わ、わかりました!」
アメリアさんの言葉をトリガーに。
停止していた私の身体は再び動かされた。
意識を戻した私は予定を変更し、急いで味噌汁作りを始めようと冷蔵庫の中から野菜を回収。
駆け足で自身の調理台へと戻る。
そして、野菜を切りながら……。
背後の調理台で第二陣に使用する豚肉の下処理やバッター液の補充をどんどんとこなしていくアメリアさんをチラッと横目で観察した。
す、凄い……。
なんなの、あの人。
下処理の方法も、私がした方法と寸分違わず同じだ……。
もしかして、一度見ただけでウチのレシピを全部覚えたのかな……?
正直、曲芸師の様な彼女の調理風景が死ぬほど気になっていたのは山々だが、今の私もそれどころでは無い。
積み重なる目の前の仕事に向き合う様に、私は彼女から視線を外して、目の前のまな板へと意識を集中させた。
すると、その瞬間……──
『あっ!』
──背後で嵐の様に第二陣の豚肉の下処理をこなしていたアメリアさんが。
突然、その様に声を上げたのである。
……何かトラブルでも発生したのだろうか?
しかし、かく言う私も忙しくて手が離せない状態だ……。
とりあえず、私は野菜を切る手を止めず。
声だけを背後のアメリアさんに送ってみることに。
「ど、どうかしましたか!?」
すると、私の心配の声に対し、アメリアさんは少し間を置いてこの様な言葉を返してきたのであった……──
『そろそろ洗濯機が洗浄を終える頃なので……、ちょっと干してきますね』
──そして、一心不乱に野菜を切っていた私は。
その忙しさからか、つい生返事で答えてしまう。
「そ、そうですか! では、宜しくお願いしますね!」
背後でアメリアさんの駆け足が。
段々と遠ざかる音が聞こえてくる……。
……そっかー。
洗濯機の時間も完璧に把握してるんだ。
うん。あるある。
他の用事をしてる時に限って、洗濯機が鳴りがちだよね。
そのままついつい後回しにしちゃって、そのまま夕方過ぎまで忘れるのは誰しもが通る道だよ……。
だから、私も結構その場ですぐに干しに行くタイプだなぁー。
うん、良くある良くある。
……。
……そこまで考えた頃に。
流石の私も包丁を下ろす手を止めた。
「え!? 今っ!? 待って待って!! それ絶対に今じゃない!!!」
私が振り返った頃にはもう、アメリアさんは作業台の前から姿を消していた。
厨房には全ての調理台に敷き詰められたコンロの上にある大量の鍋達と……。
その中でジュージューと音を鳴らしている三枚ずつ揚げられたトンカツの群れ……。
そして、他の仕事に手を付けている状態の一般的なスペックしか持たない女子中学生──【西園寺 華】のたった一人だけが取り残される形となる。
「……あわ、あわわわわっ!?」
私は汗をダラダラと流した。
あれ、もしかしてこれ……。
アメリアさんが戻ってくるまでの間、私一人で全部やらなきゃいけないパターン?
「……と言うか、アメリアさんって同じタイミングで一斉にトンカツを揚げてなかったっけ!? それって、二度揚げのタイミングも同時に来ちゃうってこと!?」
ど、どうしよう……!
あと五分で一気に忙しくなるよ!
もたもたしてたらカツが焦げて、全部台無しになっちゃう……?
「うぇぇんんっ!! だ、誰か助けてぇぇー!!!」
絶対絶滅すぎて、私は泣いた。
……ある意味、数時間前にホストファミリーの家を追い出された時よりも焦っているかも知れない。
とりあえず、落ち着かなきゃ……。
今の私に足りないものはなんだろう?
うん、『人手』だ。
そうだ、ルーヴェインさんを連れてこれば何とかなるかもしれない!
……でも、何処にいるんだろう?
私はふと厨房を見渡すと、視界の端に『アメリアさん』を見つけた……。
あ、アメリアさんがいる!
アメリアさんなら、ルーヴェインさんがどこにいるか知ってるかもしれないし、少し聞いてみようかな!
……丁度、厨房の流し台で暇そうに洗い物をしてるみたいだしね!!
そして、私は流し台の前に立っているアメリアさんの元へと駆け寄った……。
……アメリアさんの元に。
……アメリアさんの。
「──あれっ!? アメリアさんいるーーーっ!?」
嘘、なんで!?
……さっきまで誰もいなかったのに、いつの間に!?
私は訳も分からず。
その場で口をパクパクと開閉させていると、それに気がついたアメリアさんがこちらへ不思議そうに視線を送ってきた。
「ど、どうかなされましたか?」
何故かコチラよりも困惑している顔を見せてきたアメリアさん。
そんなアメリアさんに対し、私は幽霊でも見たかの様な引き攣った笑いを見せてしまう。
「いやだって……、さっき洗濯物を干しに行くって出て行ったばかりなのに……」
「ああ、もう干して来ました」
……なんだろう、これ。
もしかしてドッキリ?
私、いつの間にか海外特有の粗めのドッキリでも仕掛けられてるの?
「……もしやこれが噂の、……アメリカンジョーク?」
「え、いや……。ここイギリスですけど」
ロボットの様な口調の私と冷や汗を浮かべているアメリアさんの間に、少し気まずい空気が流れたのも束の間。
洗濯だけでなく洗い物まで済ませたアメリアさんは、そのまま何事も無かったかの様にトンカツ作りの工程へと戻ってゆく。
……うん。
心を無にしよう。
私はもう何も考えまいと、ひたすらお味噌汁とサラダだけを作ることに専念したのであった。
──……そして時が過ぎ。
ようやく、私達は六十枚のトンカツを全て揚げ切ることに成功する。
油切りのトレイには。
圧巻の数のトンカツ達──総勢、六十四枚。
息を切らした私は、そこから自分達の分である四枚のトンカツを取り除き、残りを大きなタッパーに敷き詰めて布で包装。
そして、それをそのままアメリアさんに手渡した。
「ぎ、ギリギリ間に合った……」
「ご苦労様でした。後は私にお任せを」
すると、それを受け取ったアメリアさんは突然……。
そのタッパーを肩に担ぐ様に構え、その場で大きく振りかぶり始めた。
「……え、ちょ……、アメリアさん? ……何してるんですか?」
そして、次の瞬間──
「せいやぁぁぁぁっ!!」
──アメリアさんは何を思ったのか。
厨房の窓に向かって、そのタッパーを全力で投げつけたのである。
「なんでぇぇぇぇぇぇ!!!!!????」
私が絶叫をあげていると、一階の窓の外に広がる庭先に飛び出したトンカツ入りタッパーは……──
『──十三秒遅いぞ、予定が狂ったらどう責任を取るつもりだ』
──なんと、何処からともなく姿を現した執事のルーヴェインさんが見事にキャッチ。
彼の体勢は不思議なことに。
頭が下、身体が上であった。
物理法則的に、どうやら彼は。
上から落下しながら登場した様子である。
そんな彼は空中で見事にそれを手に収めると、体を捻って芝生の上に着地する。
アメリアさんは窓枠に頬杖をつきながら、ルーヴェインさんがタッパーを受け取った際に放った言葉についての返答を述べる。
「それはそうと、華様が貴方の分のトンカツも作ってくれてるそうですわよ」
「ならば冷める前に帰るとしよう……。既にカノン様は僕が食堂にお連れしておいたから、後は頼んだぞ」
そして、ルーヴェインさんはそんな言葉だけを残し、颯爽とどこかに消えてしまったようだ。
彼を見届けたアメリアさんは一仕事終えたかのように軽く伸びを挟み、くるっと上機嫌で私の方に振り返ってくる。
「ふぅ……、さてと! ご苦労様でした、華様。お疲れになった事でしょう? 私達もお昼にしましょうか」
「……そうですね。……カロリーの消耗が凄かったせいか、過去一番でお腹ぺこぺこです……」
そう言って、私はメインであるトンカツを中心にお皿へサラダを盛り付け始めた。
ライスとお味噌汁を添え、最後に自家製である特製ソース──【西園寺家秘伝のタレ】を小皿に注ぐ。
「あっ!?」
すると、そのタイミングで私はとある重大なミスを犯してしまった事に気がついてしまった。
「どうかなされましたか?」
「差し入れの方に自家製ソースを入れ忘れちゃいました!! ど、どうしましょう……!」
実はこのトンカツ。
西園寺家の自家製ソースに合わせてレシピを改良してあるのだ。
つまり、私のお爺ちゃんが生涯かけて研究し、やっとの思いで開発したこの自家製ソース。
──通称、【西園寺家秘伝のタレ】が無ければ……。
その旨さは半減すると言っても過言では無い。
私はその事を思い出し。
慌ててアメリアさんに伝えると、彼女は「あー、そんなことでしたか」と首を横に振った。
「それなら大丈夫ですわ。そのソースなら私が匂いから作り方を特定して、完全再現したもの投げる直前に入れておきましたから」
「……」
それを聞いた私は。
そっとアメリアさんを押し退けて。
彼女の背後にあった開いた窓の前に立つ。
そして、そこから静かに青い空を見上げた。
──拝見、天国のお爺ちゃん。
お爺ちゃんが生涯かけて作った自家製ソースの【西園寺家秘伝のタレ】……。
残念ながら、味見もせずに匂いだけで。
その作り方を暴かれたみたいです。
英国、ガチヤバです。
*
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