一ノ章 孤寄島 ④

       4


 謝花が門を押すと、きいい……と、お手本のような軋み音をたてて開いた。重厚そうな木門だった。標識には、寒咲、とある。

 奥に視界が開けると、木造の屋敷が佇んでいた。一見して、とても古い建物であることは間違いないが、荘重であり、島の集落に並んでいた民家とは造りも大きさも別物だといってよい。邸宅と呼んでいいだろう。宿泊費が高そうな老舗旅館や、社の建造物内を連想させる。このように森のなかに鎮座していなければ、集落からでも目視できたのではないだろうか。

 正面玄関で靴を脱ぎ、促されるまま寒咲邸に上がる。夏美たちを拘束していた男三人はなかには入らず、門のほうへともどって行った。放置してきた死体の処理をするのだろうか。

 広い……。玄関から廊下が奥に伸びている。三十メートルくらい先で扉にぶつかっているのが見えた。

 上がってすぐ左手に障子戸があり、夏美たちはそのなかに入るように誘導された。八畳ほどの和室になっていて、長方形の座卓が置かれている。入ってきた障子戸を背にした場合、左手は壁。右手は引き違いの襖になっているから、部屋が隣接しているのだろう。奥は硝子戸になっていて、鴨居の上の小壁には壁時計がかけてあった。硝子戸の外は広縁になって、木戸が開け放たれている。その先には、夜の庭と、屋敷を囲んでいた外壁が見えた。

 少女は、「血、洗ってくる」といって廊下の先へ歩いて行く。母親はなにもいわないまま彼女と一緒に歩いて行った。

 案内された和室のなかに立ち尽くしていた夏美たちだったが、座るようにいわれて腰を下ろす。

「いまお茶を用意してきます」といって、彼は障子戸を閉めようとする。そんな彼に、「あんたたちは、なに者なんだ」と涼湖がいった。

「………」謝花は少し黙ってから、「あまり気になされずに」

 杏梨が続いた。「助けて、くれませんか」

 彼は無言で首を振った。「逃げようとしないでくださいね。どこにも逃げる場所はありません。島人に助けを求めようと思っても意味はありませんよ。孤寄島はそういう島です。無意味なことをして、余計な手間をかけさせないでください。いますぐ死にたいわけではないでしょう。こちらも今夜は忙しくて、それどころではないのです。しかし妙なことをされると……わかりますね」

 最後の言葉がひんやり冷たく感じた。

 それでは、といって障子戸は閉じられた。足音が屋敷の奥へと消えていく。壁時計の針が時間を刻む音だけが部屋に残った。

 涼湖が座卓に両肘をつき、頭を抱えた。「うそだろ。なんだよ、これ」

「ねえ」といって杏梨が夏美の腕をつかみ、揺さぶる。「逃げよう、いまのうちに」

「お、落ち着けって」涼湖がなだめる。「そんなことして捕まったら、すぐにだって殺される」

「でも、だって……ねえ夏美、逃げようよ。そうしたほうがいいよねっ」

 夏美も頭を抱えて、「ごめん……わからない。どうしよう」

「ここにいたらだめだよっ」

 杏梨は立ち上がり、庭が見えている硝子戸まで走った。

「ほら……こ、ここ開くよ。ほら、逃げよう、はやくっ」

「杏梨っ」涼湖が苛立った風にいう。「とにかく落ち着けっ」

「落ち着けないよっ」杏梨の返事も不機嫌そうだ。

「そこから出て逃げられるなら、この部屋に放置するわけないだろっ。あの男がいったとおり、たしかに逃げ場はないよ。ここは本土から船で何時間もかかる島なんだ。むしろ厄介だと思わないか? 縛りつけておく必要なんてない、部屋に鍵なんて必要ない……わたしたち、それくらい孤立してるってことだろ。こんな部屋に、呑気に座らせておけるくらい」

「だったら、だれかに助けを求めて……」

「で、でもさ杏梨」夏美はいった。「さっき、あの男のひと……謝花? ってひとが、島人に助けを求めても意味はない……って、そういってた。これって島のひとたちもこの家の味方ってことじゃないのかな」

「そんなことわからないじゃないっ」杏梨は声を張った。「まずはこの家から抜け出して、みんなで考えようよっ。そうだ、真季はどうしたんだろう……ねえ、抜け出して合流しようよ。四人で知恵を絞れば、きっと逃げられるよっ」

「だめだ無謀すぎる」涼湖がぴしゃりという。

「どうしてそんなに冷静なのっ。ここにいたら殺されちゃうんだよっ」

「冷静なわけないだろっ杏梨が興奮しすぎてるだけだっ。抜け出す抜け出すっていうけど、どうやるんだよっ。この戸から出れば屋敷の外ってわけじゃあないんだ。まず、あの門には見張りくらいいるだろうし、周囲は塀で囲まれてる。見てみろ、四メートルくらいはあるよな。越えることなんてできないだろっ」

「見張りなんていないかもっ」

「いないかも? 自信あるのかよ。見張りがいない確率に、命かけられるのか?」

「それは違うよっ。ここにいれば必ず死ぬ、でも逃げれば可能性がある。わたしはそういってるのっ」

「だったら……行けよ。あたしは残る。いまはまだ、そこまでして助かりたくもないから」

「どうかしてるよっ」杏梨はじれったそうに両手を振り下ろした。「絶対おかしいっ。どうしちゃったのよっ。ねえ夏美、夏美はわかってくれるよね。逃げようよ」

 夏美は涼湖のほうを見る。しばらく目が合った。

 ――そこまでして助かりたくないから。

 この意味を考える。それからゆっくり首を振った。

「……わたしも、ここにいる」

「どうしてっ」

「ねえ杏梨、落ち着こうよ。涼湖がどうして止めるのか、考えてみてよ」

「無理だよっ、できないっ。夏美も涼湖も間違ってるっ」

 夏美は立ち上がり、杏梨の傍に歩み寄り、両肩に手を置いた。

「杏梨、逃げてもきっとすぐに気づかれる。そして追われる」

「でもっ」

「うん。それでもがんばって走れば、集落までもどれるかもしれない。でもさ、自分は助かるかもしれないけど、誰かが捕まるかもしれないんだよ」

「……誰か、が」

「うん。いつか四人で、体育のときに計った短距離走とか、持久走のタイムの話、したことがあったよね」

「あ……」

 一番タイムがよかったのは涼湖で、次が真季、そして夏美、杏梨の順だった。しかも夏美と杏梨は僅差ではなく、杏梨が特別に遅かった。

「自分だけ助かればいいってものじゃない。涼湖はそういってる……んだよね」

「………」涼湖は無言で首肯した。

「杏梨、いい? まず見張りがいるかもしれない、つぎに島のひとに助けを求められるかわからない、そして全員で生き残れるかわからない……これって、逃げきれる可能性があるっていえるのかな。ただ、やけを起こしてるだけじゃないかな」

 杏梨はうつむいた。

「杏梨の気持、すっごくわかるよ。わたしだって……ほら、手の震えが止まらないんだ。いますぐ逃げ出したい。死にたくない。怖い……怖いよ。でも、いまは落ち着こう。ここにいれば必ず殺されるっていったけど、そうなのかな。あの場で殺されてもよかったのにわたしたち生きてる。これって、理由ははっきりわからないけど、少なくとも抵抗していないから、だよね? だから冷静になって、もっと時間を稼いで、杏梨がいったようにみんなで知恵を絞って、逃げる隙を探そう」

 杏梨は、「……うん」とうなずく。「涼湖、ごめん」

「あやまらなくていい。理屈がどうあれ、たぶん、杏梨の心境のほうが自然なんだ。わかってる。でも……なんでかな。殺す……なんて、突然いわれてもぴんときてないのかも。どうしてここまで慎重に考えられるのか自分でもわからない。……けど、とにかく、やっぱりいまは動くべきない気がする」――でも、といってから、「夏美、杏梨、ひとついっとく。いざとなったときには、自分だけでも助かろうとするべきだと思う。きっとあたしもそうする」

 正直で平等な言葉に、ふたりで同時に頷いた。涼湖がいてくれてよかったと夏美は思った。

 廊下の先から足音がもどって来るのが聞こえる。夏美と杏梨は慌てて座っていた場所にもどった。

 障子戸が開くと、謝花がお盆に急須と湯呑を乗せて立っていた。

「遅くなってすみません。お湯を沸かしていましたので」彼はそういって室内に入ってくると、戸を閉めてから腰を下ろし、湯呑を座卓に並べ、お茶を淹れはじめた。作業しながら、「逃げなかったのですね」という。

「迷ったけどな」

 涼湖が正直にいったが、問題はないだろう。この状況で逃走をまったく考えなかったほうが不自然なのだ。

「それが正解ですよ」謝花はお茶をそれぞれに配った。「門の傍に、ひとり立たせてあります。それにここの屋敷の門は、内側からも鍵がかけられるようになっていましてね、もちろん接鍵しています」

 涼湖が杏梨にちらりと視線を配る。彼女の意見に流され脱出を実行していれば、いま頃どうなっていたかわからない。杏梨は顔を伏せ、小さくなった。

「あ、あの」夏美は謝花に訊いた。「真季は……その、逃げた女の子はいま」

「まだなんの報告もありませんね」

「そう、ですか……」

 どこに行ったのだろう。身を隠しているのだろうか。なにか、わたしたちが助かる方法を見つけてくれてはいないだろうか……

 夏美の頭に淡い期待がよぎる。

 お茶をどうぞ、といわれたが、夏美は手を出せなかった。他のふたりもじっと湯呑を見つめたまま、飲もうとはしていない。

 廊下の先から足音がもうひとつ近づいてきた。謝花は障子戸のほうを振り返る。戸が開くと少女の母親が立っていた。

 謝花も立ち上がり、「奥さま。どうされました」

「この子たちを、キリコドウまで連れて行っておくれ」

 どんな場所なのかイメージができなかったが、訊ねる余裕はない。

「それは……また」

「あの子がそういうの。まあ、好きにさせておやりなさい。どのみち全員、殺すことになるのだから、構わないでしょうに」

 相変わらずひとの良さそうな語りくちだが、話している内容は穏やかではない。

 ――どのみち全員、殺すことになる。

 この言葉が胸を締めつける。

「ええ……わかりました。お嬢さまがそういうなら」

「じゃあ、そろそろむかうかねえ。あなたたち、お茶はもういいかい」母親は微笑を浮かべていう。

「あ……はい」夏美が小声で答える。

「茶菓子も出さないでごめんなさいねえ」

「い、いえ……」

 なんだろう……わからなくなる。ただ知人の家に遊びにきているのか、それとも見知らぬ屋敷に拘束されていて、もうじき殺されてしまうのか。

 謝花が夏美たちにいった。「靴を持って、ついて来てください」

 三人は立ち上がる。廊下に出ると、謝花と吟子は屋敷の奥へと歩いて行く。夏美たちはいわれたとおり、玄関で脱いだ靴を手にしてからついていった。改めて、広い家……と思う。いくつ部屋があるのだろう。ここは殺し屋の巣窟なのだろうか。何人くらいのひとが暮らしているのだろう。

 廊下の奥に見えていた扉に行きあたる。左右にも廊下が伸びている。謝花は正面の扉を開けて、そこからさらに続いている廊下を進んだ。

 十五メートルほど歩き、ふたたび突き当たったところに、また扉がある。

 謝花が開くと、先は野外になっていた。裏戸だったようだ。

「それじゃあ、まかせましたよ」

 咳込みながら梢絵がいう。ついて来るのはここまでのようだ。

 夏美たちは靴を履き、謝花と共に外に出る。謝花は出るとき、裏戸に用意されていたリュックサックほどの大きさをした布袋を手に持った。なにが入っているのだろうか。

 裏庭を見渡してみると、屋敷を取り囲む壁には裏門があるとわかった。表の門と比べると、半分くらいの大きさだ。鞄鍵を謝花が外し、門を開く。全員、敷地の外に出た。

 正面には、背の高い木々に囲まれ樹木のトンネルのようになっている道が夜の闇へと続いていた。集落から三叉路まで四人で登ってきた道よりも細い。軽自動車でも通ることができない。地面は土だった。この島で舗装されている道はほとんどないかもしれない。

 進むように促されて、小道を歩き出す。謝花は夏美たちの背後からついてきた。

「逃げられない、かな」と杏梨が小声でいう。なにせ、いまは屋敷を囲む塀の外なのだ。

「だからやめとけって」涼湖も小声で返す。夏美も同じ意見だった。いま一斉に逃げ出したとしても、足が遅い杏梨の不利は変わらない。「うしろの謝花ってやつ、背が高いし、足も速そうだ。三人とも逃げ切れるとは思えない」

「……そう、だよね」杏梨は理解を示してくれた。

「背が高いだけじゃない。細身に見えるけど、あの腕……たぶん体格いいよ。女三人くらい、ひとりで対処できる自信があるんだろ」

 夏美はそっと振り返る。半袖の和服から伸びる筋肉質な腕を見て、たしかに、と思った。へたな動きをすれば、なにをされるかわからない。腕力だけの問題ではなく、武器を隠し持っている可能性もある。あの少女のように刃物を忍ばせているかもしれない……。夏美は男が刺殺される場面を思い出した。

 ――殺されるかもしれない、という恐怖が行動力を奪う。いつかニュースで、民家に長年監禁されていた女性のことが報道されていたが、なぜ逃げられなかったのか少しわかるような気がする。

「なにか?」と謝花にいわれた。

「あ、いえ……その、いまからどこに行くんですか」

「行けばわかります」

 杏梨が続く。「いまからわたしたちを、殺すの?」

 夏美も不安に思っていた。涼湖もそうだろう。逃走は不可能に近いと悟っても、だからといって素直について行っていいものか、という迷いがあるのも事実だ。

 ――いざとなったときには、自分だけでも助かろうとするべきだと思う。

 涼湖がくちにしたこの言葉を実行するときが、いつ訪れるかわからない。

 しかし、「ご安心を」という言葉で安堵した。「本日のところは、危害を加えるつもりはありません。……妙なことをなされなければ、ですが」


 歩いた時間は十分くらいだろう、小道のさきに、切り立った山肌が現れた。屋敷の裏手からしばらく歩いたところにある山……。島の地図を思い出すと、『打山』がこれだろう。

 山肌には、ひとが立ったまま、ふたりくらいなら通れる大きさの穴が開いている。穴の近くには、さきほど見た背広の男たちが立っていた。三人しかいない。真季を追いかけた男はまだもどってきていないのだろう。

 男たちの傍に、木製のリアカーが置いてある。なにかを乗せて、ここまで運んできたのだろうか。

 穴のなかに謝花が入って行く。

「あなたたちも、なかへ」

 といわれて夏美たちも入って行った。男たち三人は入って来る様子がない。見張りだろうか。

 穴は、奥へ奥へと伸びている。洞窟のようだ。空気がひんやりする。土の臭いがした。

 もう入口から三十メートルは歩いていた。暗いが、壁にはいくつも蝋燭が焚かれていて足を進めることができる。洞窟の壁や頭上は、木材で補強されている個所も多かった。いつごろ掘られた穴なのだろうか。長い月日を感じた。

 やっと視界が広がったのは、さらに二十メートルくらい進んだ辺りだった。四方、十メートルほどの空間だ。ここは視界が鮮明だ。蝋燭ではなく、所々にある背丈ほどの台座に、薪で篝火が焚かれている。

 ここから先へ進む道はない。行き止まりになっているようだ。

 空間の中心には大きな岩が置いてある。長方形をしていて、縦は二メートル、横は一メートルに満たない程度。高さは腰くらいだ。人間がひとり寝転べそうな大きさ。そしてそのとおり、石の上にはひとが横たわっているのだった。

 死んでいることがわかる。なぜかというと、横たわっているのは山道で刺殺された初老の男だったからだ。腹部は鮮血により赤黒い染みが広がっている。

 夏美は、この洞窟を進めば死体があるような気がしていた。外に置いてあったリアカーを見たときに思った。死体が乗せられて運ばれてくる様を想像することができたのだ。

 こちらに背をむける形で石の傍に立ち、死体を眺めているのは、その男を刺殺した、黒い和服の少女だった。

「連れてきました」謝花が彼女にいう。

「うん」と彼女は答えて、夏美たちのほうをむいた。

 大きな瞳で見つめてくる。怖くなったのか、杏梨が涼湖に身体を寄せた。

「さっきいったけど、死んでもらわなきゃ」

「そんなっ」杏梨が声を張る。謝花を指さし、「このひとが、危害はくわえないって」

「うん。きょうは、ね。殺さない。殺せないの。まだ生きていられる。でも、謝花にいわれたのだけれど、生かしておくのも大変みたい。どうやっても島から逃げ出すことはできないでしょうけど、色々と方法を考えて、こそこそ動かれたりするかもしれないし、わたしたちを攻撃しようとか計画するかもしれない。……たしかにそれは、とても面倒。だからもう、人生をあきらめてほしいの。あなたたちにしても、どのみち死んでしまうのに、無駄なことをするのは時間がもったいないわ。でしょう?」

 彼女は死体に視線をもどした。

「逃げようと考えるのも、わからないことはないの。きっとそれって、不安だからだと思う。わたしたちについてなにもしらないから、逃げ出したくなる。だってそう。ひとが死ぬところを見たわけだし。それって、怖いこと……なのよね? でも、あれはしかたがないの。わかってほしい」

 ――そのために、わたしを……キリコを受け入れて。

 少女はそういった。

「きりこ……」と夏美は呟いた。

「はじめるわ。謝花、それを」

 少女は謝花の手元を指さす。彼が手にしている布袋だった。

「……儀式をお見せになると」

「ええ」

「お言葉ではありますが、ひとはそんなに物わかりがよくありません。見ただけで受け入れるわけもないかと。むしろ……」

「そうかしら。わたしたちがなにをしているのか、わかれば安心するわ。そもそも、わたしは望んでやっているわけでもない。昔からこういう家系なだけ」

 謝花は仕方がなさそうに、「わかりました」といい、布袋に手を入れて、なかのものを取り出す。見覚えがある物だった。

「……るいそう、の……」杏梨が呟く。

 孤寄島の伝統工芸品として売られていた、泪瘡ノ面……。彼が手渡してくるので、夏美たちは受け取った。たしかにあの面だ。悲しげな表情。目元には火花が咲いている。

 謝花は少女のもとへ歩き、彼女にも面を渡す。

「被って」と少女がいった。

 わけがわからず戸惑っていると謝花がもどってきて、「お嬢さまのいうとおりに」といった。

 三人で、それぞれ顔を見合わせる。涼湖が頷いたので、夏美は面を顔にあてた。被るための紐がついている。紐を後頭部にまわし、しっかり被った。

 視界が狭くはなったものの、正面は見据えることができる。少女も謝花も、すでに泪瘡ノ面を被っているのがわかった。魔除けと聞いていた面……。なぜ被る必要があるのだろう。いまからなにが行われるのだろう。

 彼女は石の反対側にまわり腰を屈めて、死角になっていた場所からになにかを手に取った。右手に拾い上げた物は鉄製の槌だ。やや大振りで重そうだ。左手では同じく鉄製の、三十センチくらいはある棒を拾っていた。――いや、棒という表現は間違っている。見れば、三角錘をしていることがわかった。片方の先端は鋭利に尖っている。棒の周囲は十センチくらいあった。太く大きい、杭……こういうものをたしか、楔、といった。

 夏美は息を呑む。

 少女は楔の尖った先を死体の腹部にあてがい、槌で打ったのだ。槌と楔がぶつかる甲高い金属音と、熟れた果実を潰したような水っぽい音が鳴り、深く突き刺さる。彼女はつぎの楔を足元から拾い上げ、また死体に打ちつけた。あばら付近に打ったので、骨が砕けたような音もした。それからまた、同じ動作が繰り返される。夏美も涼湖も杏梨も、声を出せずに放心状態で眺めているだけだ。

 十本ほど打ったころ、少女がいった。面の裏から、こもった声がする。

「このひとは、ひっそりとこの島で葬られる。生きているのか、死んでしまったのか、だれにもわからない。だれにも悟られることなく、この世から消える。そんなひとたちが、孤寄島には運ばれてくるのよ」

 ひとを葬る……ひっそりと消す……。それが『キリコ』という存在なのだろうか。しかし、いま目の前で行われている異常行動はいったい……

「――死体には鬼が棲む。と、孤寄島ではいわれているの」

 疑問に答えるように少女がいった。

「ご遺体は《鬼憑さま》と呼ばれる」

 少女は手を休めない。

「このまま葬ってしまえば鬼が外に出てしまう。そして大地に巣食う。数が増えれば、やがて災厄がある。島では、そういわれている。だから死体を処理するまえに、鬼を殺さなければならない」

 死体が楔で覆われていく。

「鬼の逃げ場がないくらい、身体に楔を打ち」

 もう身体に刺せる場所が無くなったころ、少女は両目に楔を突き立てて眼球を潰し、

「脳天に追い詰めて――殺す」

 と、最後となる一本を死体の額に打った。いままでで一番、嫌な音がした。

「これを《楔の業》という。孤寄島では古くから、わたしの家、寒咲家によってこの儀式が行われてきたの。亡くなった島人には全員、儀式を施してきた。外部に知られることがないように、ね。……そして、それはまだ続いている。いまでもこの島で死体の処理をするときには、儀式を用いている。運ばれてきたひとたちも例外ではないわ」

 少女が続ける。

「鬼を、死体から引き離す……鬼を殺す……だから儀式を行う者は、キリコと呼ばれる」

 キリコ……鬼を引き離す……そして殺す。

 夏美は《鬼離殺》という漢字を思い浮かべた。

 少女は面を外して、「わかった?」といってきた。「受け入れてくれるかしら」

 夏美の隣にいる杏梨が、かたかた震えだし、慌てて面を外したかと思うと、地面に右手をついて、左手をくちにあてた。いまにも嘔吐しそうだ。それを見下ろしていた謝花が面を外すと、いわんこっちゃない、といいたげな顔をしていた。

 夏美と涼湖も面を取る。夏美は腰を下ろし、杏梨の背中をなでた。杏梨はなんとか我慢できたらしく、何度か飲み込むような音を喉で鳴らすと、あとは荒い息を繰り返している。気持はわかった。死体に楔が突き立っていく様はあまりに凄惨だった。楔が人肉へ突き刺さると、自分の身体まで痛むような気がした。生温かい死臭まで漂ってくるような気もしてきて、夏美も胃の中のものが何度も喉へと迫ってきた。

 杏梨の様子を見た少女は近寄ってきて傍に屈み、意外にも夏美と同じように、背中をさすった。

「大丈夫?」

 しかし、「近づかないでっ」と杏梨は彼女の身体を勢いよく押し返した。「狂ってる。平然と、こんなこと……」

 謝花が杏梨に、「お嬢さまになにを」といって詰め寄ったが、少女が、「いいから」と制したので彼は足を止めた。

 少女は立ち上がって、「とにかく、受け入れてしまったほうがいいわ。そう難しく考えないで。あなたたちは運ばれてきたひとを、それもそのひとを殺すところを見てしまったから、やっぱり殺さなければいけない。これは決まりだから仕方がないの。あと短い人生、怯えながら過ごすよりも、逃げ出すことばかり考えて時間を無駄にするよりも、そのほうがいい」

 少女は死体のもとへもどって行き、足元からまたなにかを拾い上げた。楔ではない。時代劇の旅人が水を入れておくような竹筒だった。

「――燃やすわ」と少女がいた。

 栓を抜き、竹筒をひっくり返す。なかにはやはり液体が入っていたようで、死体に振りかけている。死体の表面にかけるだけではなく、くちから身体の中にも流しこんでいた。

 謝花が壁にある篝火から薪を一本引き抜き、それを手にして死体の傍まで歩き、火をかけた。液体は燃料だったらしく、一気に燃え上がる。とても眩しい。語弊があるかもしれないが、どこか神々しくもあり、人間が焼かれる光景など見たくないのに、見入ってしまう。洞窟内が煙で一杯にならないのは、天井のどこかに通気口の代わりなるような亀裂でもあるのだろう。

 炎が小さくなると、少女が再び液体を振りかける。しだいに熱が籠り、みるみる高温になる。例えようもない臭いも充満している。汗が滲み、頭がぼうっとしてきた。

 ややあって、少女の声が聞こえてくる。

 独り言ではない。夏美たちや、または謝花という男に話しかけているのでもない。

 彼女は、歌っているのだとわかった。

 静かな歌だ。島に伝わる民謡だろうか。夏美は自然と、少女の声に耳を傾ける。


 ヤミヨ タチコメル ワカレノオトガナク

 イマクサビヲモチテ クモイへ ナガシユク

 ツキノ ソラニ ホシノ ソラニ

 トケユケ トモヨ オネムリタマエ

 トキハ ナガレユク ナミノコエ クリカエサレルルタビ

 ヒトハ ワスレユク キミノコエ カタチダニモ ノコラズ

 ヒトハ ワスレムト カクシ オヘシ キセキヲ

 コヨリノシマハ ダク ワスルルハ ナシ

 ワスレズノウタ ワスレズノウタ

 クサビヲ ハタストキ クチユク ソノヒマデ

 イクツヨアケ ミムト コノミ トザス トハニ

 ワスレズノウタ ワスレズノウタ


 聞いたこともないのに懐かしく感じてしまう心地よい旋律と、彼女の綺麗な声とがあいまって、こんな状況でさえいつまででも聞いていたくなる不思議な歌だった。

 歌が止むと、燃え上がる炎の音だけが残った。それからどれくらい経ったか、たぶん三十分くらいだろう、死体は見る影もない、触れればぼろぼろ崩れてしまいそうな真っ黒な塊になった。鉄の楔だけが焼け残っていた。

 少女は額の汗をぬぐって、「燃えた」と夏美たちにうっすら微笑んだ。「屋敷にもどるわ」

 頭おかしいよ、と杏梨がまたいった。

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