一ノ章 孤寄島 ③
3
宿にもどると、ちょうど夕食の時間だった。玄関を上がってすぐ右手に八畳ほどの一室があり、食事はそこに用意されるとのことだ。食事処のなかにあるのは長テーブルがひとつだけだった。宿泊客は相席の形で一緒に食事をとるらしい。
「夏美? どうかしたの?」
廊下のほうを気にしていた夏美を不思議に思ったのか、杏梨が訊いてきた。
「あ……うん」
宿に帰ってきて一度部屋にもどったのだが、そのときに気がついた。廊下の壁にあった泪瘡ノ面がなくなっていたのだ。
しかしわざわざいうまでのことでもなかった。杏梨は怖がりだし、余計なことを伝える必要はない。
「ううん。なんでもない」
「……そう?」
今夜の宿泊客は夏美たちだけなので、食事処は静かなものだった。席についた夏美たちのまえに中年の男が料理を運んでくる。女将の旦那だろう。献立は、鯵フライ、野菜の天婦羅、白身魚の刺身、筍の煮物、蛸の酢物、サラダ、白米、味噌汁。
「はあ……」真季は箸をつけていなかった。「こんなもの食べるために来たんじゃないよ」
「わたしは、うれしいかも」と夏美はいう。家では洋食が多いので、たまには家庭的な和食が食べたくなる。「ほら食べてみなよ。すごくおいしいよ。きっと、この島で捕れたものなんだよ」
真季はまた吐息をついて、「ねえ杏梨、追加料払えば、変えてくれるかな?」訊かれた杏梨は気まずそうな顔をして、「声、大きいよ。聞こえちゃう」
台所はすぐ隣の部屋だった。戸一枚で食事処と繋がっている。
「だってさあ、旅行先の夕食っていったらステーキとか、しゃぶしゃぶとか、海鮮船盛とか、そういうものでしょ」
やはり杏梨は気まずそうに、「そういう宿もあるけど……これはこれで」
「なによ杏梨、わたしがおかしいってわけ?」
「そうじゃなくて……」
「やめろよ」涼湖が真季にいった。「豪華なもの食べるなら、それこそ東京にいるのと同じだろ。杏梨が大人しいからって意見を押しつけるのやめとけって。べつに家庭料理を好きでもいいだろ」
「はいはい」と真季はすました顔をした。「そうだね自由だね。とくに涼湖は好きだよね。お惣菜、大好きだもんね」
涼湖が舌打ちをした。杏梨はおろおろする。
「ちょっと真季」夏美はやや強くいった。「ひどいよ」
そういわれると彼女は少し申し訳なさそうにした。「……ごめん、涼湖」
「べつに、いい」涼湖は完食するまで黙々と食事を続けた。
部屋にもどってから宿泊客共用のお風呂でそれぞれ入浴を済ませると、もうやることがなくなってしまった。トランプなども誰ひとり持ってきていないし、さっきからずっと部屋の座卓を囲んで雑談をしている。しかしこれはこれで修学旅行みたいで楽しい。
「あ、お湯なくなった」
真季がポットの頭にあるお湯を出す部分を押しこむと、空音を立てた。
自動販売機がないためジュースの類は手に入らなかったので、部屋に用意されていたお茶を飲み続けていたのだが、お湯が底をついたようだ。
夏美はポットを手にして立ち上がった。「わたし、もらってくるよ」
部屋を出て廊下を歩く。用があれば台所に来てくれればいいといわれていた。まだ九時半だし、休んでいないはずだ。
戸は閉まっていたので、「すみません」といいながらそっと開ける。なかを覗いた夏美はぎょっとした。
台所にある四角いテーブルの左右に女将と旦那が座っているのだが、ふたりは面を……泪瘡ノ面を被っているのだ。
ふたりはすぐ夏美に気がつき、勢いよくこちらを見る。眼球に火花が咲く面がふたつ、夏美のほうをむいた。ぞっとする。
宿のふたりはすぐに面を外した。
「どうかしましたか」女将がどこか不機嫌そうにいった。「ノックくらいしてくれればいいのに」
「ごめんなさい。……あの、お湯を」
「ああ、はいはい、すぐいれますね。ちょうど沸かしたところだったから」
女将は面をテーブルに置いてから立ち上がって、夏美からポットを受け取った。じっと面を見ていると、旦那がいった。
「魔除けの面だって話は聞いているでしょう」ぎこちなく笑う。
「……はい」
「体調が優れないときなんかはね、おまじないというか気休めというか、邪気を払ってくれるんじゃないかと思って被ったりするんだよ。たったいま、なんだかお互い肩こりがひどいって話になってねえ。ははは、こんなものに頼ってるんだよ」
「そう……なんですか」
女将がポットを押しつけるようにして返してきた。「ほら入れましたよ」
「ありがとうございます」
「学生さんはもうお休みなさい。島は朝が早いですよ」
「わかりました」
夏美はすぐに戸を閉めて、急いで廊下をもどった。途中、壁から面がなくなっていたことを思い出す。
体調が優れないときには、おまじないとして被る……。そんなこともあるのかもしれないが、いまの話は疑わしかった。夕食まえに宿へ帰ってきたときにはもう、壁に面はなかったのだから……。
どうして嘘をつくのだろう……いや、考えすぎかもしれない。
それでも夏美は一人でいるのが怖くなって、小走りで部屋へもどった。
「夏美?」部屋に入ると、涼湖がいった。「どうした。慌てて」
「お化けでも見たんでしょ」と真季がからかう。
似たような気分だった。夏美は腰を下ろしてからいった。
「なんか、怖くて……」なにが? と涼湖にいわれて。「女将さんと旦那さんが、あの面、泪瘡ノ面……被ってた」
「やだあ」杏梨は自分の腕をさする。
「どこまで不気味な島なのよ」真季はうんざりした顔をした。「どうしてだって?」
「魔除けの面だから、体調が優れないときには被ったりするって」
涼湖は、「まあ、そんなこともあるんじゃないのか」と、とくに気にしていないようだ。
真季も少し考えてから、「たしかに島のひとたちって、迷信とか信じてそうだもんね。独特な風習とかあるよ絶対」
夏美もそう思う。しかし例えようがない不安を感じた。かといってなにか起こったわけではないので闇雲に不安を煽るわけにもいかず、「そうだよね」とその場をおさめる。「楽しい話しよう」と笑った。
ふたたび雑談にふけっていると。あっという間に十一時をまわっていた。長旅で疲れたし、四人はあくびばかりしている。
「もう寝よっか」と夏美はいった。みんなの眠そうな目は同意を示していた。
布団を敷き横になる。部屋の入口から、夏美、涼湖、杏梨、真季の順だ。
「不気味で退屈、もう最高の島だったね」真季がそんな皮肉をいう。「はあ……なにしに来たんだろ」
「またそんなこといって」夏美はしかたなさそうにいった。
「だってこの島でしたことは、変なお面買って捨てただけだよ」これに関してはそのとおりだ。ちなみに真季以外の三人は帰ってくる途中に見かけたゴミ箱に捨てた。「せめて、この島に渡らずにさ、最初に降りた、えっと硫黄島だっけ? あの島に泊まればよかったじゃん。いま考えれば、いい島だったよ。ほら商店もあったから、お菓子とか買えたし」
孤寄島には飲料の自動販売機すらないのだ。商店など、もちろんない。小さかったとはいえ、お店がふたつもある硫黄島は、孤寄島からすればとても便利だった。
「この島はなんてゆうか、もっとマニアむきだよ。花も恥じらう女子高生が来るところじゃない」
「それでも来てしまったんだから、しかたがない」と涼湖がいった。「決めたのは自分たちだからな」
そうだよと夏美はいって、「どんなことでも思い出だよ。四人で来られてよかったじゃない」
「うん」と杏梨も続く。「ちょっと下調べ足りなかったみたいだけど……」
「……だね」と真季はあきらめたようにいった。
杏梨が立ちあがって、電気を消した。「おやすみ」
おやすみ、とそれぞれ返した。
眠いはずなのに、なかなか寝つけなかった。だから夏美は暗闇のなかで携帯をいじっていた。寝つけないのは他の三人も同じらしい。真季と杏梨は寝息を立てず、何度も寝返りを繰り返しているし、涼湖は夏美と同じように携帯を操作していた。
もしかしたら真季だけでなく、涼湖も杏梨も心のどこかではもの足りない旅行だと感じているのではないだろうか、と夏美は思った。――いい思い出になる、だけでは割り切れていないのではないだろうか。
眠ればすぐに朝が来る……。正直、夏美だってそれが勿体なく感じている。
それからまたしばらくした頃。いまだに止まない風が、窓を揺らしたときだった。
「やっぱりこれじゃあだめだ」
突然声がした。真季だった。彼女は布団から勢いよく起き上がった。
「なあに?」杏梨も起き上がる。夏美と涼湖も身体を起こした。
「みんなさ、ほんとうにこれでいいわけ? ほんとうに?」
「なんの話だよ」と涼湖はいった。
「このまま朝を迎えていいのかって話だよ。ねえ夏美、何時にこの島を出るんだっけ」
「ええっと、定期船が七時四十分発だったね」
「何時に起きるの?」
「ここの朝食が六時半だから……まあ、六時には起きて、身支度しなきゃ」
「ああー……嫌になる」真季は頭を抱えた。「これでいいと思う? 高校生最後の夏休み旅行だよ? 朝六時に起きて、朝ごはん食べてすぐ島を出て、また船酔いしながら帰る。来週から学校スタート。そして受験勉強の日々。ああー嫌だ嫌だ」
夏美は苦笑する。気持はわからなくもない。だからといってどうしようもないのだが。
「だったらどうしたいんだよ」と涼湖が真季に訊ねた。
「真希、なにか思いついたの?」期待を込めたように杏梨もいう。
全員が旅行に満足していない……。この予想は正しいようだ。
彼女はうんといって、「この島にあるのは気味悪さだけ。これを楽しむ方法はひとつ。夏だしさ、外を歩いて涼んでこようよ」
「肝試し……みたいなことか」と涼湖がいった。
「そうそう。べつにただの散歩でもいいけど、とにかくなにか理由をつけて、なんでもいいからしたいんだよっ。たしかこの宿は門限なかったよね」
「そうらしいな。出入りは自由らしい」
夏美はいう。「だけど、なるべく外出しないでほしいって女将さんがいってた。街灯とかほとんどないらしいの。危ないよ。ほら、まだ風もあるみたいだし」
杏梨が控えめな声で、「わたし、怖いのはいやだな」といった。
「とはいっても」涼湖は両手で伸びをした。「真季はいいだしたら聞かないしな」
真季はなぜか偉そうに腕を組む。「そういうこと」
「どうする夏美、杏梨。一緒に来る?」意外にも涼湖はすでに行くつもりらしい。よっぽど退屈していたのかもしれない。
「ふたりだけで残るのも、怖いよね」と杏梨がいった。
それもそうかもしれない、と夏美は思った。たとえばホラー映画なら、こんなふうにグループが分裂すると、どちらかになにかが起こる。「そうだね。……うん。外を歩くなら、四人のほうが安全かも。ふたりに怪我なんてされたら嫌だし、宿にも迷惑がかかる」
「決まりっ」といって真季が立ち上がった。
四人は私服に着替えて、玄関にむかった。もう零時をまわっているが、宿の夫婦は休んでいないらしく、台所の戸の隙間からは光が漏れている。なかを覗いてみれば、まだふたりは面を被っているのだろうか。想像したくなかった。
門限がないとはいえ、こんな時間に外出となればなにかいわれるかもしれないので、そっと民宿を出た。
民宿の入口にはひとを感知して灯る玄関灯があったが、少し離れれば人工の光はなく真っ暗だった。孤寄島の夜は暗闇しかない。集落を見渡してみても明かりがある民家はなかった。
風はまだ止んでいない。少しだけ弱まったような気もするが、みんなTシャツ一枚なので、やや肌寒くもあった。
「出てきたのはいいけど、どこに行くの」夏美は誰にでもなく訊ねた。
涼湖がいった。「夏美、携帯で島の地図撮影してたろ。見せてよ」
「ああ……うん」画像を開いて涼湖に渡す。
「……そうだな。じゃあ、こうやって一周しようか」画面を指でなぞる。
宿がある舟止地区から北東へと伸びている細道を進み、沼がある三叉路まで行く。ここから東へ続く道の先は私有地になっているため進めないので、もう一本の小道で北西に向かい、面の販売所があった海背地区へとまわる。海背地区と舟止地区は一本道でつながっているので、その道で帰ってくる。
「一時間ちょっとくらいだろうね。遅くなりすぎてもいけないし、散歩にしろ肝試しにしろ、これくらいでちょうどいいんじゃないか」
「うん……そうだね」夏美はこの暗闇のなかを歩くことに気が進まないが、渋々うなずいた。「涼湖、じつは肝試しとか好きでしょ」
「ん、ばれた?」
「ばればれ」いくら退屈だったとはいえ、真季の我儘にここまで素直に乗っかるはずがない。「もう、いまじゃなくたって、東京に帰ってから遊園地のお化け屋敷にでも行けばいいのに」
真季が背中を叩いてくる。「思い出作りなんだから、それじゃあ意味ないでしょうが」
「そうそう。じゃあ行こうか」涼湖が歩きはじめたのでみんな続いた。
三叉路の地点へとむかう細道は舗装されておらず、車一台が通れる程度の幅だった。登りになっていて、深い森の奥へと伸びている。集落では使えていた携帯も、登り始めてすぐに圏外になっていた。
空は見えずに、天を塞いだ木々たちがやや強い風によって騒めいている。集落を染めていた暗闇よりもますます深い黒で、足元がおぼつかない。四人は携帯のライト機能を使って明かりを灯し、微々たる光で足元を照らしながら進んでいた。
ぽつぽつと泪瘡ノ面が落ちているが、埠頭や集落ほどではない。こんな場所まで足を運び、面を捨てる観光客はなかなかいないからだろう。夜になると、面はさらに不気味さを増していた。数は少ないものの、ふとした瞬間に視界に入ってくるのでぞっとする。
登っていくにつれて道の左右が谷のようになっているところもあり、足を滑らせれば危険だと思った。さっそく真季が踏み外しそうになり、ひやひやした。こんな道を二十分かけて登り、また同じ時間をかけて海背地区まで下ることになる。夏美はうんざりした。ここまで暗くて危なっかしい悪路を歩くことになるならば、宿から出ることをもっと強く反対すればよかったと後悔してみる。
しかし同時に、あべこべだが、現状を考えてみるとなんだか愉快でもあった。夏美はふっと笑いをこぼす。
「ん、夏美、笑った?」涼湖が顔を覗いてきた。
「ああ、うん。だってさあ、この四人で周囲六キロの絶海の孤島まで旅行に来て、真夜中に、真っ暗な山道を散策することになるなんて。ふふふ」
「そうだよねえ」真季がしみじみといった。「出会ってまだ、ひと月くらいなのに」
杏梨が続いた。「先月、はじめて話したときには想像もしてなかったね」
四人は先月、七月の半ばに親しくなった。夏美たちが通う麗女高等学院は三学期制なのだが、各学期の期末テストが終わったあとはいつも、採点結果が一定の基準に満たなかった生徒を放課後に集めて学年合同補習が行われる。四人はこの合同補習で教室が一緒になり、面識をもつことになったのだ。
夏美は三人のうち誰とも話したことがなかった。涼湖もそうだ。ちなみに真季と杏梨のふたりは一年生のときに同じクラスだったらしく、いまでもたまに言葉を交わす程度の面識はあったようだった。
補習の時、夏美は窓側の一番後ろの席で、隣が涼湖、正面が杏梨、斜め前が真季だった。ある日の補習終了後、隣に座る涼湖が夏美に、「なにか飲んで帰らない?」と声をかけ、「うんいいよ」と返事をした。その声が聞こえたらしい真季が、「あ、わたしも」と、のっかってきて、「杏梨も来るでしょ?」と、彼女も誘ったのだ。
「旅行が実現したのは、いろいろと偶然が重なったからだよね」と真季がいった。「わたしはいっつも補習組だったわけだけど、みんなはそうじゃないでしょ。杏梨は二回目っていってたっけ。夏美と涼湖にいたっては、補習受けるのはじめてだったんでしょ」
「いままで運がよかっただけだ」涼湖は苦笑して、「いつもぎっりぎりだった」
「わたしも同じ」と夏美はいう。「そもそもうちの基準って高すぎない?」
「それはともかくさ、つまりみんなが同時に補習に参加していなくてもおかしくなかったってことでしょ」
真季にいわれて、だよね、と夏美は頷く。たしかに毎回ぎりぎりだったとはいえ、その調子で今学期も乗り切れるつもりだった。だが、テスト前日になって熱を出してしまい、なんとか登校はしたものの集中できず、平均点が大きく下がってしまったのだ。
補習は夏休みに入ってから二週間も続いた。日中は補習、帰ってからは夏休みの宿題と受験勉強……
この自由がない毎日にうんざりした真季が、あるとき、
「これが最後の夏休みなんて信じられないっ。ねえみんな、補習が終わったら旅行に行こう。同じ苦労を共有した仲間なんだしさっ」
と、いいだしたのだった。
「受験勉強あるけど、最後の夏休みなんだし親も納得してくれるって」
そういわれて、たしかにこのまま夏を終えたくないな……と夏美も思った。涼湖も杏梨も同じ気持ちのようだった。
もっとも突然すぎて、この場では決定には至らなかったが、一週間ほど流れた頃、補習の休憩時間に孤島特集が組まれた雑誌を涼湖が読んでいるのを真季が見つけ、彼女が孤島に興味をもち、ふたたび旅行の計画話が持ち上がり、正式に決まったのだ。
「補習の苦労を忘れるつもりが、さらに大変なところに来ちゃったね」
夏美の言葉に三人は笑う。
――そのとき。
「ん?」と杏梨がいった。「なにか聞こえた。ひとの……」
夏美も聞こえていた。道の先からひとの声が聞こえたのだ。
「――やめてくれっ、放せっ」
今度ははっきりきこえた。男の声だ。
「なになに」と真季は驚いた声を出した。
「やめろやめろやめろっ」
また同じひとの声。切迫していることがわかる、なにごとだろうか。
「行ってみよう」ただことではないと判断したのだろう、涼湖が走り出した。夏美たちも追う。
夏美たちは沼がある三叉路のすぐ近くまで来ていたようであり、正面にはみっつに分かれた道が確認できた。そこにはひとつ小さな電灯があり、淡く照らしていた。
だからこそ見えたのだが、三叉路には複数のひとの姿がある。そっと近づいていくと全員男で、計六人だとわかった。
声を上げている者がひとり仰向けの状態で地面に倒され、四人がかりで押えつけられている。残るひとりはその様子を見守っていた。
夏美たちが立っている場所は暗いので、むこうからは見えないのだろう。こちらに気づく様子はない。それでも穏やかではない状況なのは予想がつくので、夏美たちは念のために道の脇に寄って、茂りの裏に隠れた。
なにが起こっているのだろう。ここからではまだはっきりと見えなかった。
「もう少し、近寄ってみよう」涼湖がゆっくり進みはじめる。「場合によっては通報したほうがいい」
ひどく怯えている杏梨は、「やめとこうよ」というが、涼湖は振り返り、人差し指をくちのまえに立てるだけだった。
「やめろやめろっ、なんだおまえたちはっ」
男が喚いているせいか、または風が騒めかせる木々の音が加勢してか、夏美たちの足音は消されてしまっているようだ。すでに男たちから十メートルもないところまできているが、気配を悟られた様子はない。
屈んで、草木の隙間から様子うかがう。
地面にとき伏せられている男は初老だった。髪が白く身体が細い。押さえつけている四人は背広を着ていて、三十代から四十代といった風だ。それを見下ろしている男はまだ若く、二十代だと考えられる。背広ではなく、半袖の和服を着ていた。
若い男は、「お静かに」といって、手にしていたタオルのような布を初老の男のくちに詰めこんだ。無表情で、静かな喋りかたをする。
布を噛まされた男は、んーっ、んーっ、という唸り声を上げる。
「どういうこと」という声がした。その場にいる誰の声でもなく、女性の声だった。
三叉路から伸びる道のひとつ、地図では私有地と書かれていた東方向へ続く道。この道の奥から、ひとりの少女が歩いてきたのだ。
歳は夏美たちと同じくらいに見える。腰骨を越えてしまうほど長い髪は、夜と同化してしまいそうな漆黒の髪だ。前髪はきれいに切り揃えられている。和服を着付けているため日本人形を連想させた。黒い生地に金糸で刺繍が施された、美しい着物だった。
「お嬢さま、勝手に出て来られては困ります」初老の男を見下ろしていた、若い男が少女にいった。
「だって、気になったのだもの。説明して」
男は小さな吐息をついてから、「どうやったのか、自力で拘束を解き、隙をついて外に。しかしこの三叉路からどっちに行けばいいのかわからなかったのでしょう。立ち止まっていたところに追いついて捕らえました」
「……そう。わかった」和服の少女は初老の男を見据えた。若い男と似ていて、薄い表情で静かに語る。
少女は懐からなにかを引き抜いた。電灯の光を反射してきらりと光る。小刀だった。
少女は初老の男に近づき屈んだ姿勢をとると、小刀を振り上げる。振り下ろされた刃は男の腹部に突き立った。それを何度か繰り返す。男は絶命したのか、もう声を上げないし、ぴくりとも動かない。
「死んだ」と少女はいった。小刀とそれを握っていた右手は赤黒く染まっている。刺したときに散った血が顔にも点々と模様をつくっていた。
「――いやああああっ」
叫声を発したのは杏梨だった。真季が慌てて彼女のくちを塞ぐがもう遅い。三叉路にいる全員が、夏美たちが隠れているほうをむく。
「だあれ」和服の少女がいった。
夏美は状況の整理ができず、頭が混乱して、どうしたらいいのかわからない。
「出てきてください」と若い男が続いた。
杏梨は取り乱している。「ど、どうしよう、ごめんなさい、どうしようっ」
真希は、「逃げようっ」と小声でいった。
「い、いや待て。逃げるのは、よくない」涼湖がいう。
「なんでっ」納得いかないように真季が彼女の肩を揺さぶる。
「よ、よく考えろ。逃げてもすぐに追われるだけだ。ここの道は暗くて足場が悪い。踏み外したら危ない場所だってあっただろ。だから慎重に走るしかない。逃げきれるとは、とても……」
実際に踏み外しそうになった真季はくちをつぐむ。
「いまは従うべき、だろ」涼湖は立ち上がった。
夏美たちもゆっくり腰を上げ、茂りから出ていく。少女は怪訝そうな瞳でじっと見つめてくる。
夏美たちのもとへ、五人の男たちが近づいてきた。
「来ないで」と杏梨は身体を震わせる。
「やだ、やだよ」と真季も首を振っていた。
そのとき――
「真季っ」涼湖が叫ぶ。
彼女が走り出したからだ。四人で歩いてきた山道を全速力で下っていく。
「逃げた」と少女がいった。
背広の男がひとり、すぐに追いかける。俊足だった。
「あのばか……」涼湖は舌打ちをした。
その場に残った夏美たち三人は、傍まで来た男たちから全身を触られる。卑猥な行為ではなく所持品を調べたらしく、ポケットのなかに入れていた携帯電話と財布を取り上げられた。すぐに通報すればよかったと後悔をしたが、そもそも圏外になっていたことを思い出す。
背後にまわった男たちから両手を背中にまわされる。縛る紐はないらしく、素手で強く腕をつかまれた。
若い男が近づいてきた。「来ないで」と杏梨がまたいった。
「島のひと……ではないですね」夏美のほうを見ていた。
「旅行、で……」夏美は声を絞りだす。「きょうは……この島の民宿に」
「また旅行客」と少女がいう。また、とはどういう意味だろう。「謝花、どういうこと」
謝花というのは若い男の名前らしく、彼が答えた。「宿泊客がいるなんて聞いてません。とくに、きょう限っては、そんなことがあるはずは……」
疑がっているような視線を受けたので、夏美は必死に訴える。「ほ、ほんとうです。きょう来たんです」
謝花という男は少女を見た。「未曾有の事態、ですね」
少女は首をひねって、「なにそれ」
「いままで一度もなかった、ということです」
「……知ってる」少女は背中を向けて歩き始めた。「もどるわ」
「お嬢さま、とりあえず死体はこのままにして、彼女たちも屋敷に連れて行きます。それからすぐに準備を」
「ええ」と返事があった。
謝花という男は夏美たちを見やり、「あなたがた、こっちへ」
背後の男たちに背中を押され、三人で歩き出す。少女の背中を追う形だ。
隣を歩く杏梨と目が合った。彼女は瞳を潤ませ、いまにも倒れてしまいそうなほど顔を青くしている。夏美自身も、とても他人に気を遣っていられる心境ではなかったが、大丈夫だよ、とうなずく。その言葉はむしろ自分を励ますためのものだった。
五分ほど歩いた。地図上に私有地と書かれていた一帯に踏みこんでいるだろう。
明かりが灯っている立派な木門が見えてきた。瓦の小屋根が被さっている腕木門で、五メートルはある。門と同じくらい高い外壁が左右に続いてたる。まだ姿形は見えないが、謝花がくちにした屋敷とはここだろう。
門の前には、地味な色合いの和服を着た女性がひとり立っていた。少女と同じくらい髪が長いその女性は、中年か、もう少し若く見えるくらいの容姿をしている。
「お母さん」と少女がいった。彼女の母親らしい。
「梢絵さま」と謝花が続く。呼び方からして、彼は家族ではないのだろう。「お騒がせしてすみません。もう殺しました」
「それはよかった。ご苦労さま」梢絵と呼ばれた少女の母親は、ひとの良さそうな穏やかな口調で喋る。そのあと、いくつか咳込んでから夏美たちを見て、「おやおや……どうしたことでしょう」と目を丸くした。
「旅行客のようです」
「また旅行客。それもこんな時間に」
少女だけでなく、梢絵というこの女性も《また》という言葉をくちにした。
「しかも今回は、殺すところを見られてしまいまして」謝花が補足する。
「ははあ、こまったねえ……」
どうしますか、と謝花がいった。
「そうだねえ……ひとまず、居間に案内しておやり。お茶でも淹れて差し上げなさい。失礼のないようにねえ。この前もいったね。状況はともかく、屋敷に招けば客人だよ」梢絵は背を向け、門のほうへ歩きだす。「さてさて、その子たちにはしばらくゆっくりしてもらっておくとして、その間に、あなたたちは今夜のオニツキサマを打たなくてはね」
「はい」と謝花は頭を下げた。「すぐに準備を」
オニツキサマ……
交わされている言葉の意味がわからない。まるで状況がつかめない。
「……どうなるんですか」夏美は勇気を振り絞って少女に訊いた。
ふと目が合った少女が、「どうって」と答える。
「わたしたち、どうなるんですか」
「……殺す、のよね?」謝花に訊ねる。
「はい」当然のように答えた。「見られてしまいましたから」
夏美のほうをむきなおした少女は、「みたい」
「そんな……」殺される……
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