一ノ章 孤寄島 ②

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 老女の話を忘れるためにくだらない雑談をしていると、ようやく五時が近づいていた。

「――あれだ」と涼湖が海を指さす。

 湾に入ってくる一隻の船があった。定期船で間違いないだろう。一般的な漁船より少し大きい程度だ。黒く塗られている塗装が剥げ落ちている部分が目立つ。古そうな船体だ。

 四人は立ち上がり、乗り場まで急ぐ。定期船が着いた場所まで行くと、制服を着た男女が三人集まっていた。中学生くらいの女子がひとり、小学校だと思われる小さい男女がひとりずつだった。

 夏美はなるほどと思う。孤寄島には学校がないのだろう。ここ硫黄島には三島村小中学校という合同学校があるようなので、定期船は通学の足になっているわけだ。観光客は少ないということだし、船は子供たちの通学用に運航していると考えていいかもしれない。現在は夏休みの時期だから、登校日だったのだろうか。

 夏美がこんにちはと挨拶をすると、上目遣いで見られたあとに、こんにちはと真顔で返事が返ってくる。そのあとは三人で、観光客だね、と小声で話していた。

 定期船から港に橋が渡されたので、ぞろぞろと乗りこむ。運賃は五百円だった。乗船時に、船員の中年男性に現金で支払う。

 船に乗ったのは子供たち三人と、夏美たち四人。それだけかと思ったが、あとから一台のワンボックスカーが入ってきた。乗用車が一台なら積めるスペースがある。

 ややあって定期船は出港した。五時十分。ごうごうと音を立てながら赤い海を切って進むと、じきに湾から外海へと出る。そこからは海岸に沿って走りはじめた。

 きょうは波があるので船は何度も上下する。「また気分悪くなりそう」と真季がいった。

 船上には風が吹きつけ、時間をかけて整えてきた夏美たちの髪はすぐにぼさぼさになった。それに日中よりも気温が下がってきたので、ますます寒い。耐えかねた四人は、小さな客室に入る。なかには十人ほど座れる長椅子が置いてあった。島の学生たち三人もなかに座っていた。もう海は見飽きているのか、目もくれず談笑している。

 定期船は硫黄島の反対側までぐるりとまわると、島を背にして走行をはじめ、海岸から離れていく。

 定期船は波に揺らされ、若干跳ねるようにして進む。正面にはもう孤寄島が浮かんでいるのが見えていた。

「孤寄島……」夏美はなにげなく呟いた。

 山がみっつ確認できる。島の右端、船は北へ向かっているので、つまり東側にある山が一番高い。島の中央あたりにあるものが二番目に大きかった。そして、ふたつのあいだに小さな山が少しだけ顔を出している。

 反対側である西の大地は、平たいとはいえないものの、目立った起伏はない。船がそちらのほうに向かっていることから、人々は西側で暮らしているのだろう。

 硫黄島まで四時間近くの船旅を体験したばかりなので、片道二十分はすぐだった。定期船は小さな湾に入っていくと、停船場所へむかう。船を止めたのは十メートルほどしかない埠頭だった。だいぶ波で削られている。鉄筋が剥き出しになり錆びているのころもあった。

 橋が渡されると島の学生たちはすぐに降りていく。そのあとに夏美たちも下船した。運転手の男にありがとうございましたと告げたが、よそをむいたまま小さく頭を下げられただけで、返事はない。硫黄島の港で打ち鳴らされていたジャンベを思い出すと、歓迎されかたがまったく違うことは明白だった。

「……これって」埠頭に降りた杏梨がおびえた声を出した。

 夏美もぎょっとした。涼湖と真季もそうだろう。

 お面である。見渡してみると埠頭に散らばっている。百個は越えていると思う。

 面、面、面……

「なんなんだろ」真季がひとつ拾いあげた。「やめときなよ」と杏梨がいう。

 真希は手放さずに、面をじっと見ている。夏美たちも寄り添って観察した。

 木製の面だった。

「気味が悪い」と杏梨は怯えた声を出す。

 ひとの顔を模っている。表情は喜怒哀楽でいえば『哀』を表現していると予想され、眉と唇の端は垂れ下がっている。しかし、それだけなら気味が悪いとまではいわない。奇妙にしているのは目の部分だ。ふたつの眼球からは、打ち上げ花火が上空ではじけたみたいに、とげとげしいものが飛び出してきている。それでも両目の位置にはちゃんと穴があり、裏から見てみると表を覗くことができた。視界がやや狭い。

「もう捨てたほうがいいよ」と杏梨がいい、真季は手放した。いま手にしていた面はまだ新しかったようだが、なかには黒ずんでいて傷んでいるものもある。

 夏美は面が散乱する光景に驚いたものの、面のことは知っていた。インターネットで検索したときにわかった、孤寄島の伝統工芸品だ。

「泪瘡ノ面」と夏美はいった。

「るいそうのめん?」真季が復唱する。

「孤寄島で古くから作られてる、手彫りのお面みたい」

「……なんにつかうの?」

「さあ」くわしい説明はなかったし、お面というものに興味があるわけではないので、わざわざ調べることもしなかった。

「早く行こうよ」杏梨が埠頭を見渡しながらいう。「もうやだ」

 背後からクラクションを鳴らされる。一台だけ乗っていたワンボックスカーが下船してきたようだ。幅が狭い埠頭をゆっくりと走行していく。車を避けるために端のほうへ身を寄せた夏美たちは、海に落ちそうだった。

 車は散らばっている面を踏みながら進んでいくので、ばりばりと割れる音がする。面とはいえ、ひとの顔を踏み砕いていく光景は嫌なものだった。

 夏美たちは島に入る。正面には一本の細い土道が敷かれていた。やや上り坂になっており、うっそうと木々が生えた林のなかに続いていく。先に下船した島の学生たちの声はとっくに道の奥へと消えていき、もう聞こえない。辺りには波と風の音だけが残っていた。

 わきに立て札があり、島の地図が載っていた。潮風のせいか錆びついているが、図が見れないことはない。孤寄島は東西に長い、横長の島だ。もちろん綺麗な長四角ではなく歪んでいて、小さな子供が簡易に描いた雲のような風だった。

 地理はわかりやすいものだ。四人が下船した埠頭は南西、地図の左下にあたる。正面の土道を進めば、舟止地区という集落に出る。西側にはふたつの集落があって、もうひとつは真反対側、北の海岸沿いにある海背地区だ。ふたつの集落は一本道でつながっていて、徒歩で十五分と記されていた。

 舟止地区からは別に二本の道が伸びていて、ひとつは島の東に蛇行しながら進み、一番高かった山まで続いているようだ。山の名前は泪岳。次に大きいのが緑山、一番小さいやつが打山とある。

 もう一本の道は、北東へと斜めに伸びている細道だ。この道は、海背地区から南東に伸びている道と、徒歩二十分と書かれているところで合流していた。その地点に沼があるらしい。

 合流した道は東へと続いて行くようだが、その先は『私有地』と書かれていて、地図は記されていなかった。私有地の範囲は赤い線で囲われているのだが、とても広い。島全体の四分の一くらいありそうだった。夏美は一応、携帯で地図の写真を撮影した。

「民宿は……っと」涼湖が地図を指さす。「ここか」

 舟止地区に『民宿つれづれ』と記されている赤い点があった。

「うん。近いらしいよ」と夏美は答えた。宿の予約は電話でおこなったのだが、そのときに船着き場から十分もかからないといわれていた。

 行こうか、という涼湖の声で歩きだす。埠頭に散らばっていた面は土道にも数多く落ちている。どんな理由があるのだろうか。

 木々に囲まれた暗い土道を抜けると、民家がぽつぽつと並んでいる一帯に出たが、ひとの姿はない。硫黄島とはまた違う、沈みこんだような静けさ……。この島には誰も住んでいないのではないか、とすら考えさせるほどだ。空間に、家々に、生活臭が漂っていないような気がする。

 民家の間を進んで行く。集落まで来ても、やはり面が所々に散らばっている。なんだか落ち着かない。おそらく、観光客が少ないのはアクセスが悪いだけではないだろう。

 奇妙な面が散らばる島……

 オカルト好きでもないかぎり、わざわざ何時間も船に乗り、この島まで訪れる者はいない。火花が散ったような目で見られているような気がして、背筋が冷える。

 面のほかには猫一匹見かけない。島の学生たちはどこに行ってしまったのだろう。静けさのなかに霞み、溶けていってしまったのではないだろうか……

 この虚無感は、現地に行かずして空想することができないと思った。

 孤島の雰囲気や、ゆったりとした時間の流れをイメージしてはいたものの、想像力では及ばないものがある。

 ――突然、音が響いた。

「きゃっ」と杏梨が肩を跳ねさせる。

 音は頭上から聞こえるので、四人とも立ち止まって見上げてみると、電信柱の上のほうにはスピーカーがあり、そこから音が流れているようだった。

 聞き覚えがあるメロディー……

「夕焼け小焼け、だよね……?」杏梨がいった。

 同意を求めるのにはわけがある。確信がもてないのだ。

 雨風にさらされ続けたスピーカーは劣化しているのだろう。音が割れている。音が高くなったり、いきなり低くなったりして、歪みとうねりがひどい。小さな子供が適当に鍵盤を鳴らしているようだ。

 このメロディーは心が落ち着くはずなのに、音が湾曲するたびに鳥肌が浮き立った。島全体が怖いものに包みこまれていく気がする。杏梨は耳を塞いでいた。

 二十秒ほどでようやく音が止んだ。音楽が流れた理由は四人ともわかっている。時刻を知らせるためだ。夏美が時間を確認すると、五時三十分だった。夏美たちが通う麗女学院がある地区も、夏は五時半、冬は四時半に童謡の『ふるさと』が流れる。

 しかしひどい音だった。これなら流さないほうがいいのではないか。ただでさえ歩いているだけで不気味な感じがする島なのに……

「あ」と夏美はいった。「あれかな」正面を指さす。

 道の先にある建物には、『民宿つれづれ』という看板を掲げられていた。孤寄島には宿泊できる施設はひとつだけしかない。

 宿の電話番号だけしかわからなかったので外観ははじめて見た。歩いてくる途中に見かけた家々とあまり変わらない。もともと民家だったものを民宿に改築したのだろう。

 ガラス戸を開けてなかに入ると、外の空間と同じような静けさが漂っていた。真季がすみませんと五回くらい呼んでみると、ようやく足音がして、中年の女性が現れる。女将のようだ。やっとひとの姿を見ることができて、ほっとした。

「ごめんなさいね奥で掃除していて。どうもいらっしゃい。こんなところまで大変だったでしょうに」

 言葉ではねぎらってくれてはいるものの表情は薄く、声音も平たいのでそっけなく感じられたが、気にしていない様子の真季は、「大変でしたよお」と疲れた声を出す。

「あがってくださいねえ。まずお部屋に」といわれて、靴を脱いで上がりこむ。女将に案内されたのは一番奥の部屋で、十畳の畳部屋だった。歩いている途中、廊下の壁に泪瘡ノ面が飾られていたのを見かけて小気味悪かった。

 夏美たちが案内された部屋以外に戸がみっつあったので、客間はよっつのようだ。すべて扉は開かれていたので室内が見えたのだが、荷物は見当たらなかったので宿泊客は夏美たち一組だけらしい。

 部屋に荷物を置くと、どっと疲れがでた。真季はまだ女将がいるにも関わらず、畳の上に大の字になる。女将は行儀が悪い小さな子供を見るような目をしていた。

 女将は、部屋にあったポットから急須にお湯を注ぎ、それから簡単に部屋の設備の説明をしたが、テレビとエアコンと押し入れがあるだけなのでとくに難しいことはなかった。布団は自分たちで敷くらしいので真季と杏梨は不服そうだったが、夏美は日頃からそうしているので構わない。涼湖も気にしていないようだった。

「どちらから……でしたっけ」と女将がいった。

「東京から」と夏美が答えた。

「東京……」遠い国の名前でも聞いたような反応だ。「この島に、なにか理由があって?」

「いえ、ただ島に行ってみようってことになって」

「どうしてきょうにしたの」

「なんとなく、ですけど。どうしてですか?」

「いえいえ、深い意味ではなくて」女将は短く笑って、「ここは静かでしょう。ひとも歩いてないし」

 夏美は苦笑する。「誰とも擦れ違いませんでした」

「四十人しか住んでないからねえ。民家だって空き家のほうが多いのよ」

 そういえばそうだった。家々に生活感が漂っていないはずだ。

「舟止地区に三十人、海背地区に七人、地区外れの山のほうに三人……もうひとはこれだけ。若いひとは、ほとんど島を出ていくからね。うちの息子もそう。いま福岡に住んでいてね。……じきに、ここを無人島にする計画も、あるみたいだよ。みんな硫黄島に移住させてね」

 本土でも過疎化は問題視されているのだから、ここまでの孤島になればますます深刻かもしれない。

 女将は四人分のお茶を淹れて、「ごゆっくり」といって立ち上がる。

「あの」と真季が起き上がって声をかける。「この島で、いまからなにかできることあります?」

 女将は一度座ってから、「まあ、この季節は海で泳いだりとかするひとがほとんどだけど、きょうは曇ってて肌寒いしねえ……波もあるし」

 たしかに、一応水着は持ってきたものの、この天候では泳ぐ気にはならない。

「ほかには?」

「この宿に泊まるのは釣り人さんが多くて長いこと海岸で釣りをしているみたいだけど、あなたたちは違うのよねえ……。観光目的で来ても、これといってなにもないからねえ。温泉もないし」

 雑誌やインターネットでの情報が乏しかったのは、ただ特筆するべきことがなかっただけかもしれない。

「なにそれえ」

 真季は肩を落としてうつむいたが、女将が、「そうそう」といったので顔を上げた。

「島の特産品に、魔除けのお面があって、買ってくるひとが多いですよ」

「お面……るいそうのめん? 魔除けなんですか」

「ええ」と女将は首肯した。廊下に面が飾ってあったのも、魔除けを期待してのことだろうか。「海背地区のほうに面の彫り師が住んでいて、庭に販売所があります。十五分もあれば行けると思いますよ。集落に入れば正面だし、案内看板も出ていますから、見るだけでも行って来たらどうです。まだ開けていると思いますよ」

 四人は顔を見合わせる。それぞれの表情から意思は汲み取りやすく、あの不気味な面をわざわざ見に行く気も、買いに行く気もないようだ。

 とはいえ、やることがないのは事実だったので、「行くだけいこっか。暇だし」と真季がいった。

「そうだな」と涼湖も同意して。「じゃあ、散策がてら行ってみます」と女将に告げた。

「夕食はどうしましょうか。いってくれれば合わせますよ。ほら、着くのがこんな時間だから、すぐに夕食だとなにもできないでしょう。だからなるべくお客さんの希望に添えるようにしていまして。多少遅くてもいいですよ」

 また四人は顔を見合わせる。

「いま六時半だから……七時半くらいでいいんじゃないか」壁の時計を見ながら涼湖が提案した。

 女将は、「七時半ね、はいはい、いってらっしゃい」といいながら部屋を出て行った。


 海背地区まではいわれたとおり、十五分だった。歩いて来る途中、孤寄島公民館と書かれた施設の前も通った。大きさは一般的な民家と同じだが、敷地は体育館の半分くらいあって広かった。建て替えてから長くは経っていないようで、まだ新しく、鉄筋コンクリートの施設だった。強い台風のときなどは避難所としても使うのだろうか。

 海背地区に入った四人が、『泪瘡ノ面 ↓』という立て札の案内に従って歩いて行くと、古い民家に辿り着いた。庭にはプレハブ小屋が建てられており、『展示・販売』という看板が掲げられていた。

 勝手に入っていいものかわからなかったが、お店なのだからいいだろうという判断で真季が小屋のガラス戸を引く。なかは八畳ほどの広さで、壁にぽつりぽつりと、泪瘡ノ面が飾られている。

 夏美は奥にある椅子に座る高齢の男と目が合った。販売所の店主とみえる。面を彫っているのはこのひとだろうか……

「おじゃまします」と、四人それぞれくちにする。

「……観光客?」と訊かれる。

 涼湖が、「はい」という。

「今夜は……この島に?」

 続けて問われたので、これにも涼湖が、「はい」と答える。

 店主は心情が読めない複雑な表情をした。この島に若い女子だけで宿泊するのがよっぽど珍しいのだろう。

「見てもいいですか」

「……どうぞ」と男はいい、手にしていた新聞に視線を落とした。

 椅子の横には小さなテーブルもあり、置いてある珈琲カップから湯気が上がっている。カップの隣にある小さめのポットに珈琲が入っているのだろう。テーブルには文庫サイズの書籍も乗っている。店主は店番をしていたわけではなく、ここを書斎代わりのように使っているのだろう。

 面を眺める。手彫りらしいので少しづつ雰囲気が違う気もするが、どれも造りは同じになっている。悲しそうな表情。ふたつの眼球には火花が咲いている。

 値札が貼ってあり、一番安いもので三千円と書かれていた。木材が違うのか、高いものは五万円もする。

「どうして、こんな形なんですか」と夏美が訊ねる。

「さあ……昔からそうだからね。わたしが生まれるずっと昔からそう。なんでかね」

「魔除けだって聞きました」

「そう。この島にいるあいだはね」

「この島? どういう意味ですか」

 男は珈琲をすすった。「民宿の奥さんから聞いていないのか」

「はい」

「……泪瘡ノ面は、島から持ち出したらいけない。島の木材で彫った面は、島に滞在しているあいだは災厄を背負ってくれるが、離れれば背負ったものが溢れ出す。いいことはない。そういう面なんだ」

 真季がいう。「じゃあ、買っても持って帰れないわけ?」

「そうだ」

「数万円のやつ買っても?」

「……そうだな」

「売ってる意味ないじゃんっ」

 男は面倒そうに吐息をついた。「君たちに話してもしかたがないが、そもそも面を売るつもりはなかった。この島が目立つ必要はなかった。だがね、説明しなくてもわかるだろうが孤寄島には観光客があまりに少ない。当時、十年まえだが、島興しを考えた村長がこれでは三島村全体が盛り上がらないと考えたらしくて、唯一の伝統である面を一般販売してみてはどうかと提案されたんだよ」

 島人たちは判断を渋ったらしいが、三島村に属している以上、勝手なこともできない。それにもう、ひとつの島に伝統を閉じこめておける時代ではなくなってきていた。

 そこで島から持ち出してはいけないという規律を納得してもらったうえで、販売を始めることにしたようだ。当然、持ち出しができないものが売れるはずもないという意見があがったようだが、むしろ特殊な規制があるほうがおもしろいのではないかという意見も少なくなく、採用されたという。後者の意見は間違っていなかったようであり、奇妙な因習に興味を抱き、訪れた観光客の多くが面を購入するらしい。

「まあ、面の販売をはじめたところで観光客が劇的に増えるわけもないからね、たいした島の宣伝にも収益にもならなかったよ。せいぜい硫黄島からのおこぼれ客を貰う程度さ」

 話を聞いていて夏美はぴんときた。そういうことか、と思う。

「島にお面が散らばっているのは、持って帰れないからなんですね」

「そう」男は深くうなずいた。「持ち帰れないものだから、島の道端に捨てる連中が多くいてね。とくに埠頭には帰り際に投げて帰る輩が多くて、拾うのが大変だった。面を回収する人員なんて決めてなかったから、しだいに誰も拾わなくなってね。そうなると観光客には道端や埠頭に捨てるのが正しいみたいなルールの植えつけができてしまったらしくて、ますます散乱してね。いまではこのありさまさ。面の回収場所を設置したこともあったがもう手遅れでね。誰も守りゃしない。だからいまでは年に一回、島人総出で拾い集めることにしている。全部は拾えないがね」

 理由がわかって、すっきりした。

 しかしいろいろ教えてもらったので、買わなければならないような雰囲気になってしまい、夏美は一番安いものを購入することにした。涼湖も同じ気持ちになったのか、同じ値段の物を買った。

「高いほうが魔除け効果が高いんですか」真季が訊ねると、「どれも同じだよ」という返事がある。

 どれも同じだよ、の意味は、この販売所で売られているものに、本当の意味で魔除けを期待してもしかたがない、という意味らしい。

 話によれば本来、泪瘡ノ面は『泪岳』に生える檜に彫られたもののことをいうらしく、この店で一番高いものより高価らしい。しかしそんな値段のものは売れるはずもないので、観光客用に安価な木材をつかって面を制作しているとのことだった。数千円の安い面においてはほとんど手作業をしていないらしく、レプリカのようなものなのだ。

 でも、だったらどうして、ここで売られている面さえも島から持ち出してはならないのだろうか……。夏美は不思議だった。

 真季と杏梨も一番安いものを購入して、四人で販売所を出る。歩きはじめてすぐに真季が面を放り投げた。

「もう真季ったら」杏梨が呆れた声を出す。「一応、三千円だよ」

「あんな不気味なもの、宿に持ち帰るのいやだよ。夢に出そう」それには夏美も同感だった。杏梨も、たしかに、といっている。「みんなも早いとこ捨ててね」

「それは賛成だけど、いまはやめとこうな」

 涼湖が背後を指さしていう。振り返ってみると、販売所のガラス窓越しに店主が立っており、じっとこちら眺めていた。買って早々投げ捨てたところを見られたので、真季は逃げるように急ぎ足になった。

 少し歩いてから夏美はもう一度振り返る。店主は難しそうな顔でまだこちらを見つめていた。その表情は、面をすぐに捨てたことを怒っている風ではないような気がする。

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