一ノ章 孤寄島 ①

      1


 夏美が室内を覗いてみると、畳の上で友人ふたりが横になっていた。ひとりは両手で頭をかかえ、もうひとりは腕を顔の上に乗せている。顔色が優れない。

「真季も杏梨も、気分はどう? 大丈夫?」

 声をかけると真季が、「いま話しかけないで」と、不機嫌そうに答えた。たしかにふたりの様子を見れば訊くまでもないことだった。

「ごめんごめん」

 夏美は申し訳なさそうに告げて、これ以上なにもいわずに部屋から出た。

 談話スペースにもどり、いままで座っていた場所に向かう。テーブルを挟んだ反対側の椅子で、涼湖がカップラーメンを啜っていた。もう十二時を過ぎているので、昼食として購入したようだ。傍にある自動販売機で売られていた。

 涼湖は夏美に気づくと、「あ、夏美、あいつらどう?」

 夏美は座ってから、「だめ。ふたりとも、きつそう」と答えた。

「まあ、しかたがないか。夏美は平気?」

「寝込むほどじゃないけど、すこし頭痛いかな」と苦笑する。「涼湖は平気そうだね」

「そんなことない。やせ我慢してんだよ」

 とはいうものの、平然とラーメンを啜る姿はどう見ても平気そうだった。

「わたし、ちょっと風にあたってくる」

 立ち上がると、いってらっしゃい、と涼湖がいった。

 外へと続く重い扉を開くと、風が勢いよく吹きつけた。潮の香りがする。

 甲板に出ると、視界一面に広がるのは大海原だった。

 現在、海の上にいる。船に乗っているのだ。乗っているのはフェリー「みしま」。鹿児島県の鹿児島港から離島『三島村』へ渡るために運航している村営フェリーで、全長八五・五メートル、二百人ほどが乗船できる。

 朝、九時半に出港して、もう十二時。二時間半が経過している。しかし目的の島までは、まだ一時間以上かかるらしい。こんなに長く船に乗るのは初めてのことだった。

 夏美は甲板の柵に両手をかけて景色を眺める。

 きっといい思い出になる、と思った。

 今年は高校生活最後の夏休みなので、学生だけで旅行することを両親が許してくれた。親の了解を得やすくするためにも宿題を片付けてからにしようということで、夏休み後半で計画を進め、本日、八月二十日に計画した。夏休みはあと五日で終わる。予定通り宿題も片付いたし、いいタイミングだったと思う。

 それにしても海を渡り、絶海の孤島へ行くことになるとは考えてもいなかった。それも九州、鹿児島までやって来たのだ。島に宿泊するのは一泊だけだが、東京の高校に通う四人からすれば未知な世界が広がっているだろう。貴重な思い出になるはずだ。

 しかし旅の幸先はよいとはいえなかった。海はどこまでも広く、解放感があって気持がいい景色だが、残念なことに曇っていて青空はちらりとも見えない。風もやや強い。八月だというのに、肌寒かった。

 船が波で大きく上下する。真季と杏梨が三十分もしないうちに船酔いをしてしまったのもわかる。夏美の頭痛も一向に鎮まらなかった。もっと賑やかな船旅を想像していたが、天候ばかりは抗いようがない。晴れていたなら、どれほど爽快だったろう……

 しばらく呆然と計景色を眺めていたが、ふと気がつくと、船の進行方向に島が浮かんでいることがわかった。起伏が少なく、平たい島だ。みるみる近づいている。

 じきに港が見えてきたので、船が減速をはじめた。停船体制にはいったようだ。夏美は甲板から談話スペースにもどった。

 涼湖は持参してきたらしい携帯ゲーム機で遊んでいた。涼湖の隣に、もうひとり座っている。それは真季でも杏梨でもなく、小さな女の子だった。ゲーム機に顔を寄せて、液晶を覗きこんでいる。

 席にもどってから、「誰?」と涼湖に訊いた。

「知らない」どうやらゲームをやっていたら近づいてきたらしい。「おい気が散るだろ。あっち行けって」

 女の子は眉の端を下げた。「だってえ、これ欲しかったやつなんだもん」

「買ってもらえばいいだろ」

「無理だよお、高いもん」

「だったら誕生日とかクリスマスにでもねだるんだな」

「まだまだ先なんだもん」女の子はくちを尖らせた。

 そこへ、母親らしき女性がやってくる。女性の傍には、女の子の姉だろうか、中学生くらいの女子もいた。

「なにやってるのリカ。人様の邪魔をしないの」母親らしい女性が女の子を叱った。涼湖が迷惑そうにしていることはわかったらしく、申し訳なさそうに頭を下げてくる。旅行客だろうか。

 女の子は渋々と席を離れ、姉と見られる女子の手を握って三人で歩いて行った。

 涼湖はゲームのスイッチを切ってから、「船、止まったね」といった。ちょうど停船したようだ。下船する客を促すアナウンスが流れはじめる。

 背後から、「着いたのー?」という真季の声がしたので振り返ると、真季と杏梨が立っていた。顔色がまだ悪い。杏梨はおでこに手をあてている。

「まだだよ」と夏美はいう。「ここは竹島」

 三島村は、みっつの島によって構成されている。フェリー『みしま』はまず、三時間をかけて竹島に到着する。海岸沿線、九・七キロ。人口は百人もいないらしい。三島村三島のなかでは一番小さな島だ。

 次に停まるのは硫黄島、そして黒島という順序で進む。四人が下船する島は、ふたつめの硫黄島だった。

「甲板から見て来れば? きれいな島だよ」

 夏美がいうと、杏梨は首を振った。「……陸を見ると降りたくなっちゃうから」

「あとどれくらい?」と真季がいう。

「四十分くらいみたい」と答えると、まだ何時間もかかると思っていたのか、真季と杏梨はほっとしたようだった。

 竹島を出港すると、約四十分で硫黄島に着く。さらにつぎなる島、みっつめの黒島へ行くにはそこからまた一時間以上かかるらしい。

「計画してるとき、夏美がちゃんと説明しただろ」涼湖が呆れたようにいう。「ほとんど夏美がひとりで計画組んでくれたんだから、説明くらい聞いておけよ」

 真季は、「細かいことは任せておけばいいと思ってさあ」といいながら椅子に座った。「ねえ杏梨?」

「あ……うん」杏梨はいわれるがままうなずいてから、同じく椅子に腰をかけた。

「夏美はガイドさんじゃねえって」涼湖は再び呆れたようにいった。

「だってそのほうがさあ、新鮮な気持ちで楽しめるじゃん。ねえ杏梨?」

「あ……うん」

 涼湖はやれやれと首をふった。「これだからお嬢さまはいやだね」

 夏美たちが通う麗女高等学院は、ちょっとしたお嬢さま学校として知られる。とはいっても世間を代表するような立ち位置ではなく、「ごきげんよう」なんて挨拶を日常でつかうような格式ではない。お嬢さまという言葉が似合う資産家の娘もいれば、わりと普通の家庭で育った生徒も少なくはなかった。

 夏美は後者だった。父が中堅企業の幹部をしているので、一般的な家庭とは少し違った生活と扱いをされてきたと認識しているが、学院のなかでは至って平均的な生徒だ。杏梨も、夏美が住んでいる地域では名前を耳にしたことがある部品メーカー会社のひとり娘だが、学院のなかにおいてはお嬢さまというくくりには入っていないだろう。一方、涼湖はというと、お嬢さまという言葉が似合い始める。両親が不動産を手広くやっていて、成功を収めていると耳にしていた。そして真季になると、さらに格式があがる。父親が貿易会社の社長で、そこの娘だった。真季においてはきっと、しっかりしたお嬢さま学校に入学するべきだったと思う。それでも行けなかった理由は、成績の問題らしかった。お嬢さま学校の名門となれば適当な学力は必要であり、競争率も高いのだ。それに、彼女の場合は品格の問題もあったかもしれない。明け透けな性格は長所でもあるのだが、裏返せば我儘で、幼いお姫さまのようだといえる。教師からの評判も良いとはいえない。

 真季は涼湖を見てにやにやする。「そうかなあ。お嬢さまも悪くはないよ。アルバイトとかしなくていいし」

 涼湖が手を伸ばし、彼女の頬をつねる。「失礼なこというな」

「ごめんごめんっ。痛いってばっ」

 杏梨はくすくす笑った。

「やめてあげて」と夏美がくちを挟む。「わたし計画するのとか好きだし、楽しかったからいいよ。真季のいうとおり、色々知りすぎないほうが楽しめるよね」

「だよねっ。さすが夏美」真季が親指を立てる。

「涼湖も気を遣ってくれてありがとう。そうそう計画のときも、たくさん力になってくれたよね」

 フェリー『みしま』の運航日程は複雑で、鹿児島港と三島村を往復するのは、週に二、三回。しかも曜日は定まっていない不定期船である。旅行をするためにはしっかりした運航日程の把握と、船に乗り遅れないための時間計算が必要だっが、これに関しては涼湖がひとりで考えてくれた。

「べつに、あたしはアドバイスしただけだし」涼湖はやや照れた声を出した。「具体的なスケジュールを組んでくれた夏美のほうが何倍も大変だったに決まってるだろ。それに鹿児島のホテルの予約、島の民宿の予約、飛行機の手配、ほかにも色々」

 たしかに、はじめてのことだったので大変だった。ちなみに島の民宿のほかにホテルの予約が必要だったのは、現在乗っているフェリー『みしま』の出港が朝九時半のため、当日に東京を出発するわけにもいかず、前日のうちに鹿児島まで来て一泊することになっていたからだ。なので正確にいえば、二泊三日の旅行になる。もっとも昨日は、出発当日だというのにまだ宿題を終えていなかった真季のせいで午後の便の飛行機に乗ったので、鹿児島空港に着いたときには夕方になっていた。ホテルにチェックインしたのは七時過ぎ。せっかく繁華街ど真ん中のシティーホテルだったのに、寝坊するわけにもいかなかったので、ほとんど街を見て回ることもしないまま休むことになってしまった。

「とにかく夏美がいなきゃ旅行どころじゃなかったよ」と涼湖がいった。「ありがとな」

「こちらこそ。その気持がうれしい」

 夏美が笑いかけると、涼湖はまた照れたような顔をする。

「あんたたち、できてんじゃないの?」と真季がからかってきた。

 涼湖はまた真季の頬をつねった。


 船が竹島を出港して四十分。ようやく硫黄島を目前にした。

 フェリー『みしま』は停船するために港がある湾に入っていく。夏美たち四人は甲板に出て、近づいてくる島を眺めていた。

「赤い海……」杏梨が呟いた。

 たしかに赤い。眩しいような赤ではなく、赤褐色といった風だ。港付近の海はくっきりと色が違う。

 硫黄島の港から、軽快な音が響いてきた。十人ほどが集まり、地面に置いた様々な大きさの太鼓を手で叩いて鳴らしているのが見える。ラテン系のリズムだった。

「ジャンベだよ」と涼湖が教えてくれた。「西アフリカの太鼓。硫黄島にはジャンベスクールってのがあるの。パンフレットに載ってた。船が着くたびに、こうやって演奏してくれるんだって」

 へえ、と真季はうなずいた。「なんか秘境に来たっていう実感がわくね」

「歓迎されてる感じ」と杏梨はうれしそうだった。

 海岸沿線が十四キロの硫黄島は、竹島よりも少しだけ大きい。人口もやや多いが、それでも百三十人ほどのようだ。

 島には高い山がそびえている。硫黄岳というらしい。山肌が何ヶ所か山脈のように波打っていて、巨大な蛸のようにも見えた。沢山の硫黄が取れたことから、過去には採掘が盛んにおこなわれていたようだ。活火山なので、もくもくと噴煙を昇らせている。硫黄が所々から噴き出しているため、立ち入りが禁止されているところもあるとのことだった。港付近の海の色が赤いのは、硫黄が流れ出しているかららしい。

 下船すると全員、荷物を放り出して一息ついた。真季は、「陸だあっ」といって両手を空にむかって伸す。

「さてみんな、休憩しよう」涼湖が歩き出す。「あっちに、観光案内所みたいなところがあるみたい。なかで休めると思う。つぎ船が来るまで何時間もあるからな。座ろう」

「そっかあ」と真季は肩を落とす。「まだ到着じゃあないんだっけ……」

「もう、この島でいい」と杏梨が呟いた。

「そういわないで」夏美は真季と杏梨の背中を押す。「ほらほら、あんなに楽しみにしてたじゃない」


 向かった施設は三島村開発センターという名前で、港からは見えるほど近く、歩いて五分もかからなかった。けっこう大きい。二階建ての立派な建物だ。

 玄関で靴を脱ぎ、スリッパを履いて入館する。ロビーは広くてきれいだ。

 ひとは誰も見当たらず、とても静かだった。テーブルと椅子がいくつも置かれていたので、一角に腰をかける。

 真季が吐息をつく。安堵の息ではなく、うんざりしたような風だった。

 まだ目的の島に到着したわけではない。硫黄島に下船したのは「ひとまず」に過ぎない。四人はこの島に宿泊するわけではないのだ。

 ここから定期船に乗り、二十分ほど走ったところに浮かぶ『孤寄島』。

 目的の島は、そこだった。

 海岸沿線、六キロの小さな島。人口は四十人しかいない孤島中の孤島。

「定期船、いつ来るんだっけ」

 真季は背もたれに身体をあずけ、だらしなくずり下がった姿勢で訊いてきた。

「それも説明しただろ」と涼湖がいうと、「忘れたから訊いてるんじゃん」と彼女はいった。

 涼湖は教える気がない様子なので、夏美が代わりに、「五時だよ」と伝えた。

「げ、五時ぃ? じゃあえっと……杏梨、あとどれくらい?」

「うーんと、三時間半くらい?」

 ますます真季はずり下がった。

「うえー、漫画喫茶もカラオケもないここで三時間以上も時間潰すわけぇ?」

「文句いうな」じれったそうに涼湖がいう。「しかたがないだろ、定期船は朝と夕方の二往復しか運航してないんだから」

 孤寄島が管理している定期船は、朝、七時四十分に孤寄島を出港し、八時に硫黄島へ到着。そして折り返す。夕方は四時四十分に孤寄島を出港し、五時に硫黄島へ。そのあと同じく折り返す。孤寄島へ渡るためには、どちらかの便に乗船するしかない。

 杏梨が、「我慢しようよ、ね?」と続いた。「計画が決まったときのこと、思い出そう。真季、すごく喜んでたよ。孤島なんて最高の思い出だって」

 突然、真季が島に行きたいといいだしたので、夏美は東京からもアクセスしやすい八丈島や初島などを提案したが、真季は拒み、せっかく島に行くならとことん秘境にしよう、といって東京から遠くて小さな島を提案したのだ。

「なによ杏梨、文句あんの?」

 杏梨は肩幅を狭めた。「そうじゃなくて……ごめん」

「そもそもさ、あのときは涼湖が学校に持ってきてた孤島特集の雑誌読んでテンションあがっちゃってたからだし」孤寄島はその雑誌に掲載されていたものだ。特集されていたなかで一番、小さく遠い島だった。「それに、じゃあ行ってみようか、とかいって煽ってきたのは涼湖じゃん」

「あたしのせいにするなよ」

「まあまあ」と夏美はなだめて。「もっと前向きに考えようよ。本土から船で何時間もかかる絶海の孤島に旅行なんて、貴重な体験だよ。いい思い出になる。いまは船酔いとかして疲れてるかもしれないけど、着いてみればきっと楽しいって。漫画喫茶とかカラオケなんかあったら、東京にいるのと一緒じゃない」

 杏梨が、「そうだね」とうなずいた。

 真季は吐息をひとつついて、「……わかったよ。まあ、そうかもね。ごめんごめん」

 気を取り直して、硫黄島を見てまわることにした。観光案内所の二階は資料館のようになっていたので見学してみる。硫黄島は二年前、ジオパークに認定されたらしい。

 じっくり見学したものの、それでも時間はまだまだあったので、荷物も置いたまま外に出た。港に沿って歩き出す。硫黄島は港の付近に集落が密集しているようだ。とはいっても、百三十人ほどしかいない島なので、ひとの姿は見かけなかった。フェリーが到着したときこそ、島人や旅行客で賑わっていたが、もう誰もいなかった。

 変わりに見かけたのは鳥だった。しかも雀や鴉などではく、なんと孔雀なのだ。道端を平然と歩いている。真季は、「なんでなんで」といいながら携帯で写真を撮っていた。夏美も実際に見て驚いたが、孔雀が生息するという情報はネットで見かけたので知っていた。

 その後、ようやくひととすれ違った。高齢の女性だ。すれ違いざまに、「こんにちは」と挨拶をしてくれた。東京では通行人と挨拶を交わすことなんてまずないので、なんだかうれしい。

 その老女に真季が、「コンビニとかないですよね」と声をかける。日焼け止めを忘れたらしく、先ほどから買いたいと話していた。

 老女は、「こんびに」と他国の言語でも耳にしたように復唱し、そのあとに理解したのか楽しそうに笑って、「そんなもんがあるもんかね」といった。

 代わりに教えてくれたのが、島人が経営しているという商店だった。だいたいの物は揃うと説明されたが、行ってみると駄菓子屋のような大きさのお店で、真季は唖然としていた。

「お店はここだけですか?」と店員の女性に問うと、「隣にもあるけど」といわれたので外に出てみると、たしかに同じくらい小さな店舗が隣接していた。お店はこのふたつだけらしい。訊ねてみたところ、予想したとおり日焼け止めは売っていなかった。

 島にはいくつか温泉が湧いていて露天風呂になっており、無料で入浴できるらしいが、真季が、「野外で裸になるなんていやだ」というので中止した。たしかに夏美も、たとえタオルを巻いても照れくさい。ほかにも、島の所々には見てまわる観光スポットもあるようだったが、これも真季が、「歩いて汗かきたくない」というので諦めた。ひとりだけ置いて行くわけにもいかない。

 夏美たちはやることがなくなってしまい、とりあえず近くにあった神社にお参りしてから、港の一角に並んで腰かけて、自動販売機で買ったジュースを飲んでいた。天気が優れないので、風が吹くと肌寒い。

 正面に広がる赤い海を眺めたまま、四人は無言だった。

 しばらくした頃に、「定期船、どこにくるのかな」と杏梨がいった。

 涼湖が、「とにかく港で待てばいい」とくちを開く。「時間になって湾に入ってくる船がいればそれなんだろ。見てればわかる」

 それもそうだね、と杏梨はいった。

 今度は真季が、「孤寄島って、どんな島なんだっけ」と喋った。涼湖に睨まれると、「説明しただろっていわないでね」と添える。

 夏美が答えた。「島の周囲が六キロって書いてたから、ここの半分以下だね。四十人しか住んでないの」

「うひゃあ、この島でも十分に秘境なのに、とんでもないところだね。もう存在してないのと同じみたい」

 存在していない……

 あながち間違ってはいないかもしれない。孤寄島はその小ささと人口の少なさゆえに、有人島ではあるものの三島村の島数には数えられていないのだ。あくまで三島村は、竹島、硫黄島、黒島の三島だけ。孤寄島の扱いは硫黄島の一部となっているらしい。

「島にはなにがあるの?」杏梨が夏美に訊く。

 夏美が答えるまえに、「それは訊くな」と涼湖がいった。

 杏梨は苦笑して、「なにも、ないよね」

「だろうね」夏美も苦笑した。

 とはいったものの、なにもない、のかどうかすらもわからない島だった。涼湖が持ってきていた孤島雑誌での記事はあまりに小さく、島の大きさや島人の数くらいしか情報は得られなかった。インターネットで検索して三島村のホームページを見てみても、手に入る情報は似たようなものだった。時間をかけてネットサーフィンをしてみれば、観光に訪れたひとが島のことをブログにアップしてくれていたりしたのかもしれないが、なにせ初めての学生旅行がいきなり絶海の孤島なのだ。旅行が決まったのも急だったし、夏休みの宿題をやりながら計画を立てることに手いっぱいとなってしまい、ほとんど調べていないままだ。現在、まず硫黄島まで来ることができてほっとしている。

「あ」と夏美はいった。「でもネットで、孤寄島の伝統工芸品の情報は出てきたよ」

「へえ、なになに。美味しいもの?」真季が身を乗り出して訊いてきた。

 そのとき背後から、「孤寄島へ行くのかい」と声が聞こえた。

 四人で振り返りと。商店の場所を教えてくれた高齢の女性が立っていた。それぞればらばらに、「はい」と返事をする。旅行荷物を持ったまま、港で待っているものだから予想できたのだろう。

 女性は近くに腰を下ろした。

「若い子が四人で、なんだってあの島に。ただでさえあまりひとが渡らない島なのに」

「なんとなく、島に行ってみようってことになって」夏美が代表して答えた。

「一泊ね?」

「はい」

「それは難儀だね。着くのは夕方、五時を過ぎてる。晩ご飯を食べて、部屋で寝て、起きたら朝食。孤寄島を出る朝の定期船は七時四十分だからね。ばたばたするよ。でもそれに乗らなきゃ本土に帰れん。鹿児島行きのフェリー『みしま』は朝、十時十分にここを出るからね」

 この意見は正しいもので、旅行というには自由な時間が少なすぎる。この点に関しては涼湖と一緒に悩んだが、どうしても両親が二泊までしか許してくれなかった。フェリー『みしま』へ乗船するため鹿児島のホテルに宿泊したので、一泊しか残っていなかったのだ。

 正直、ほかの島にするべきかどうか少し迷ったが、最後は、「島に滞在する時間は短いけど、フェリーに乗ってるあいだも、硫黄島で定期船を待ってるときも自由な時間なわけだし、なによりなかなか味わえない経験なことは間違いないよ」という涼湖の言葉に背中を押されて、決行することにしたのだ。

「やっぱり二泊は必要でしたか」

「いいや」と首を振る。「見るところもない島だからね。それはそれで時間が余るよ。自然を楽しむならこの島で十分だ。温泉だってある。……孤寄島にはなにもないよ。あそこまでなにもないと、島興しどころじゃない。だからひとが渡らないのさ。まあ、この島に何泊かする客が、朝に孤寄島へ行って、夕方に帰ってくる、そんなやりかたをしていることはあるみたいだがね、宿泊までするひとは少ないようだね。とても」

 老女は、やや控えめな声で続けた。

「妙な思い出があるね。あの島には」

「どういう意味ですか」

「……死んだ爺さんがね。孤寄島のひとだったのよ。三十で結婚してから一緒にこの島で暮らしていたんだけど、九年まえに、心臓で倒れてね。この島の診療所に担ぎ込んだけど、ほとんど意識はなかったし、もう長くないといわれたよ。急患はヘリで本土の病院に運んでもらうことができるんだけど、手配するにも運ぶにも時間がかかる。本土の救急車のようにはいかない。だからヘリを呼んだところで、どのみち明日があるかわからないってことだった。……急病や大けがは孤島暮らしにとって一番厄介なことさ。でもだからこそ皆、覚悟もできている。そんなひとを何人も見てきた。それでもヘリの手配だけはしたけどね……もう駄目なことは、医者でなくてもわかったよ。……そのときなんだけど、爺さんがね、朦朧としながら、すぐに孤寄島に帰るといいだすんだ。普通は動ける身体じゃないのに、ベッドから転がり落ちて、床を這いだしてね。もちろんあたしも診療所の看護師さんも止めるんだけど、ここで腐るわけにはいかん……といって、もう頑なにきかなくて、どういうわけかと思ったよ。突然のことでねえ……苦しかっただろうに」

「……結局、帰ったのですか」

「帰ったよ。もう夜だったけど、漁師に漁船を出してもらって、診療所の看護師さんの力を借りて、三人で一緒に渡ったよ。帰るといっても、もう爺さんの家なんてなかったからね、孤寄島に公民館があるんだけど、そこに寝かしてもらった」老女は遠い目をした。「すぐに死んだね、それから」

「亡くなるときは生まれた島で、と決めていたのかもしれませんね」

「どうだか。お喋りなひとだったけど、孤寄島の話なんてするひとじゃあなかったし、故郷愛が強かったとは思えなくてね。……でも、あのときは強い意思だったね。わたしも診療所のひとも止められなかったくらいなんだ。島へ帰る……腐っちゃいかん……島へ帰る……そう繰り返して、まさに死んでも帰ろうとしていたんだよ。……なにかに憑かれたようだったね」

 想像してみると不気味で、夏美は寒くなった。妙な思い出……そのとおりだ。

 老女はゆっくりと立ち上がり、それじゃあ散歩の途中だから、といって歩いて行った。

 しばらく沈黙が流れたあとに、「い、行くの、やめとかない?」と杏梨が怯えた声を出す。

「作り話だよ」涼湖がいった。「歳寄りは若者を怖がらせようとするんだ」

 真季が、「そ、そうだよ杏梨、お、怯えすぎ」とからかったが、本人も十分に動揺している。島に渡るまえに聞きたい話ではなかった。

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