第9話 濁るティータイム
時は数時間前にまで
――――
――
「おい、じじ――マスター……ちょっと過重労働させすぎなんじゃないの?」
乱暴に扉を開けて入るやいなや、
「……おかえりなさいませ。随分と遠出をしたようですが、目的は果たせましたか?」
雷雨がやって来る前の空のような不穏な静けさを
細く開かれた瞳が射抜いていたのは、名無が持っている大きな革製の鞄――彼が捨て損ねた報酬金であった。
どうせ時間があってもお前は有意義に使えないだろう?――そう暗に言われているようで、名無は更に不貞腐れた。
冒頭の彼が言いかけた暴言については、今さら誰も触れまい。
「……見りゃ分かんだろ、ったく……金庫に入れとくから鍵貸して」
「……どうぞ、好きに使ってくださいませ」
マスターは制服の胸ポケットから鍵を取り出すと、名無の手に向けて正確に投げ渡した。
チャリッと名無の手中で小さく金属が擦れる音がした後、鈍い金色に身を染める鍵は彼が羽織る薄手のコートの内ポケットへと消えていく。
「……さて、貴方の準備が整い次第、今回の
「嫌だね。俺の代わりはいくらでもいるだろ」
「……いいえ。貴方は唯一無二の存在ですよ――無論、貴方に限った話ではありませんが」
幼い子供のように機嫌を傾け続ける名無に、マスターは自然な口調でさらりと返答した。
そんなマスターの言葉が予想外だったのか、名無はメガネのレンズ越しに大きく目を見開いてマスターを見つめる。
そんな名無の目線は気にも留めない様子で、マスターは戸棚からティーポットとカップを取り出した。
「……いつまでもへそを曲げ続ける貴方に朗報です――貴方の好物のお茶菓子がありますので、ぜひ紅茶と一緒に頂きましょう」
「…………もしかして、果実タルト?」
「……それは、貴方が来てからのお楽しみ――と思っていたのですが、気分が乗らないようなら仕方ありませんね。今夜来店されるお客様にでもお出ししま――」
「俺が食う」
マスターの分かりやすい煽りを遮ってそれだけ言い残すと、名無は足早に2階の自室へと向かった。
(……やれやれ……まだまだ子供ですね)
内心ため息をつきながら、マスターは冷蔵庫の中で静かに眠るケーキボックスを取り出すのだった――
――
――――
「…………んまい。これ一番好き」
口いっぱいに果実タルトを詰め込み、もごもごと名無は満足そうに顔を
それは良かった、とクールに流すマスターの唇は珍しく緩やかなカーブを描いている。
「……さぁ、これで話を聞いてくれる気にはなりましたか?」
「
「……お行儀がよろしくないのでは」
「…………へい」
咀嚼中にも関わらず話し始めた名無を
茶葉が舞い鮮やかな色彩が解放されたように染み出すと、透き通ったボルドー色の液体がガラス製のポットの中で揺らめく。
ふわりと湯気が膨らむと同時に、柔らかで慎ましい香りが鼻をくすぐった。
「……どうぞ……召し上がれ」
「ありがと――珍しい匂いの紅茶だね。」
「……えぇ、先日の市場で買ってみました。南国からの輸入品だとか」
「ふぅん……これが異国の味、か」
名無は物珍しそうに紅茶を見つめる。
彼は自国を出たことが無く、己がどれほど狭い世界で生きているのかをひしひしと痛感していた。
南国と聞いて、ふと先日の渡り鳥たちが彼の脳裏に浮かび上がる。彼らは今、どんな景色を瞳に映しているのだろう――
「…………さっきは悪かったよ、あと……昨日と今朝も」
「……えぇ、私は気にしておりませんよ。……それでは、この後の任務も期待して良いのですね?」
「誠意は態度で見せろって、
水に抽出された茶葉の色が濃くなる頃、日は徐々に沈みかけていた。
もうすぐ、闇に紛れ死を生み出す
マスターは一通の手紙をカウンターに置き、名無が自分で確認するよう静かに促した。
小雨が降ってきたようですね――とマスターが店の看板を軒下に移している間に、名無は糊が厳重に塗られた封筒をペーパーナイフで開封する。
『
「随分と難易度の割に報酬が少ないね――依頼主は公的機関か?」
「……これ以上お金は要らないと仰っていませんでしたか?」
質問に質問で返しお茶を濁すマスターに、名無はむっとしてカウンターから身を乗り出す。
「金に興味はねぇ。俺が知りたいのはこの件についてる
「……正直に白状しましょう。今回の依頼主は、貴方にとって厄介にもなり得る人物です」
「――らしくないね、マスター。俺を誰だと思ってんの」
そう言って不敵に笑って見せる名無。マスターは神妙な面持ちで口を開く。
「…………
「うわぁ……それは面倒な事になりそうだ」
名無は思い切り顔を
「昼間に暗殺ってのが一番分からねぇ……奴らの意図は何だ…………?」
――
――――
チリン、と湿気で曇ったドアベルの音が控えめに鳴り、何事も無かったかのように雨上がりの闇夜に溶けた。
「もう……いくら幽霊とはいえ、何時間も外で待たせるなんて! おまけに雨まで降ってきましたし……!!」
「おいおい――好きにしろとは言ったが、
暗がりからフラネーヴェの不満そうな声が聞こえると、名無は呆れながら平然と突き放すように歩き出す。
「……そうね、私が好きにした結果だからアナタに非は無いわ」
「やけに素直だな。何か企んでるならさっさと言えよ……回りくどいのは嫌いだね」
「……じゃあ単刀直入に言わせてもらうわ――私を連れて行って欲しいの」
「はぁ?! そんなこと許可出来るわけねぇだろ……!」
思わず感情的になり怒鳴りかけた名無は、路地裏とはいえ無闇に大声を出してはまずいと踏みとどまった。
「もちろん、アナタにとっての利点が十分にあると踏んでの提案よ」
「へぇーそれはスゴいデスネ」
「まだ何も言ってないんですけど」
ふざけないでもらえる? と不機嫌になるフラネーヴェ。名無は流石にからかい過ぎたかと黙って彼女の言葉を待った。
「私は聖オリンポス学園の元生徒なの」
「――――!」
「だからアナタの役に立つと思う――いえ、必ず役に立ってみせる」
強い意志を宿した彼女の言葉に、名無は何も反論しなかった――が。
「――おい、なんで任務先を知ってんだ」
「…………幽霊テレパシーよ」
妙に歯切れの悪い返答に、彼の
「お前、手紙を見たな? いつからあの場にいた??」
「…………『さっきは悪かったよ、マスター』」
フラネーヴェは名無の声を真似てしおらしく再現してみせると、声を押し殺して笑いを堪えていた。
「……お前、良い性格してんな」
「褒めてる? ありがと!――それにしても、アナタが謝るなんて意外だったわ。惚れ直しちゃったかも……♡」
「〜〜ッ! 殺す!!」
「あは、死んでるよーだ!」
皮肉をたっぷりと交えたフラネーヴェの冗談は、名無の腸を煮るのに十分な火力だった。
怒りを鎮めるためにズボンのポケットへ手を突っ込むと、グシャリと紙が押し潰される感覚がして彼の背中に冷や汗が出る。
「――やべぇ、寝台列車に遅れる!」
「あはは〜」
「何笑ってんだお前!!」
町全体が夜に酔いしれている中、一人の死神は次の
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