第6話 みにくいモノ

「……あ゙ー……」



 木製のシングルベッドの上に乱雑に脱ぎ捨てられた血みどろの衣服を蹴落とし、名無は気だるげに寝返りを打った。


 時計の針は午後2時を回ろうとしており、空は昨夜土砂降りであった天気が嘘のように青く澄みきっている。


 窓側に置かれた簡易的なベッドと、ローテーブルの下に無地の黒いラグが敷かれただけの殺風景な部屋で一人、名無は所謂いわゆる二日酔いとやらに悶えていた。



 徐々に覚醒してくると、テーブルの上にスープが入ったお椀がまるで孤独の沼に沈みかけているかのように、一つだけ置いてあることに気が付いた。


 おそらくマスターが、昨夜の彼の荒れた飲酒姿を見兼ねて作ったのだろう。



(……だりぃけど腹減った……食うか……)



 もそもそとベッドから起き上がり、途中何度も胃の辺りを押さえながらも、彼はベッドを背もたれにしてテーブルの前に座る。



「……いただきます」



 部屋に誰かが居るわけでも無いのだが、殺し屋が律儀に手を合わせ食物に感謝を述べるその姿は、実に異様である。


 静かに氷のような温度をまとう陶器のお椀を口元に運んで傾け、スプーンも使わずそのまま口に流し込む。


――味は悪くない。しかし、冷えきってしまっただけに美味しさは全くと言っていいほど感じられなかった。



「はぁ……別に起こしてくれたっていいじゃんか…………ん?」


『7時と11時の2回、私は貴方を起こして差し上げようと努力致しました。スープは12時に作り、その時もきちんと声は掛けました。あとは自己責任ですよ。 マスター』


「…………」



 名無にとって耳の痛いマスターの置き手紙を読み、彼は無言で再びスープをすすり始めた。


 スープよりも、陶器の茶碗よりも、一番冷たかったのはマスターの愛あるメモであったということか――



――

――――


「…………おはよう、マスター……」



 おぼつかない足取りで階段を降りてきた名無は、カウンターでグラスを磨くマスターに声を掛けた。


 客は来ておらず、店内は静寂に包まれていた。



「……おはようございます。幾つか貴方にはあるのですが、お小言は後にしましょう――報酬が届きましたよ」



 そう言って取り出されたのは、人間の透けて見える醜い欲望で膨れ上がった革製の鞄だった。


 内容物など見なくても分かる。



「……1億5000万、確かに受け取りました。いつも通り、は報酬の3割を頂きます」


「おー……。別にこれ以上金なんて要らないんだけどね。こんな薄っぺらい紙切れに、何の価値があるんだか」



 ――すなわち『紹介料』は既に自身の口座に移してあるとだけマスターは言うと、鞄ごと名無に押し付けてグラス磨きに戻ってしまった。



(はぁ……俺の戸籍はとっくの昔に消えてるから銀行口座も作れねぇし、置き場所に困るから邪魔でしかないんだよな……)



 そう、彼の戸籍は存在しない。


 戸籍が消えたのは彼が殺し屋業に就くと決意する前からだったのだが、今の彼にとって戸籍など関係の無いものだった。



(……捨てるか、この金。ちょっと離れた川にでも流せばバレねぇだろ)



 暗殺依頼の報酬で用意された金など、どうせ足のつかない出処に決まっている。


 万が一金が発見されたとして、名無に何か疑いが掛けられるわけでもない。


 ここまで思い至ってから、名無は外出用の私服に着替え、鴉の羽のようにくすみ濁ったレンズがはめられたメガネを着用する。


 この特注のメガネは決してファッションのためではなく、彼の異様に美しい瞳の色を世間の目から隠すためであった。



「――マスター、ちょっと出掛けるね。今日中に帰るから」


「……行ってらっしゃいませ」



 軽快なドアベルの音が、控えめに鳴る。


 騒がしい昼過ぎの町に溶け込んだ名無は例の鞄を抱え、大金を始末する場所を探しに歩みを進めて行くのであった。



――

――――


「ここで良いか……」



 名無は列車と市内バスを乗り継ぎ、今どき誰も乗らないであろう馬車まで使用して、酒場からかなり離れた田舎町まで来ていた。


 辺りは閑散としており人影は全く無く、名無にとって好都合な場所である。


 畑の水路と繋がっている小川に沿ってしばらく歩くと、昨晩の豪雨で濁流となり暴れ回る川の姿があった。



「……じゃ、ばいばい醜い汚物たち」



 名無が鞄ごと報酬金を荒れ狂う水流に投げ捨てようとした刹那――



「――ちょっと! アナタ正気なの?! 馬鹿みたいに捨てたりしないで、どうせなら難民支援の寄付でもしたらどうなの?!」


「――?!」



 突如聞こえてきた謎の声に、思わず名無の肩が跳ねる。

 鋭く辺りを見回すが、誰もおらず気配も感じられない。



(待て……この声、聞き覚えがある)



 明らかに自分より歳下で記憶の新しい女性の声、姿が見えず声質から漂う謎の浮遊感――これらから名無の脳内に、ある信じ難い仮説が浮かぶ。



「……お前、まさか昨日死んだアーテルの娘とか言うんじゃないだろうな」



 傍から見れば、一人の男が川の前で大きな独り言を呟いているようにしか見えないだろう。


 しかし、彼自身も目視することが出来ないの人物は、いま確実に彼の目の前で愉快そうにほくそ笑んでいるのだ。



「……ふふふっ――もしそうだと認めたとして、アナタは信じてくれる?」

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