第5話 屍の上

「……だとしたら、何でしょう?」



 名無は振り返らずに――否、振り返ることが、声の主に背を向けたまま言葉を返した。



(くそ……さっきフェイスマスクを外したせいで迂闊に動けねぇ……素顔を見られちゃまずいしな)



 油断大敵だと酒場のマスターが言っていたことを思い出し苛立ちが再燃するも、冷静になれと僅かに残された理性が抑え込む。



「私はフラネーヴェ・アインザムカイト……貴方が殺した政治家の娘」


「……もちろん存じ上げておりますよ、お嬢様――先程はよくお眠りになられていたご様子でしたが……もうお目覚めで?」



――そう、彼女は名無によって巧妙に睡眠薬を飲まされ眠っていたはずだった。


 濃度からして明日の明け方までは余裕で深い眠りに落ちているはずの彼女が何故、今起きているのか……名無の背に一筋の冷や汗が流れる。



(濃度を間違えたか? それとも実は娘が二人いて、双子なのか?……いや、顔を見られなきゃどちみち問題ねぇ……このまま生かしてやればいい――)



「――――!!」


「……あの、少しはこちらを見て話されたらどうでしょうか……!」



 フラネーヴェは名無の肩を掴み、彼の顔を覗き込んでいた。


 さらさらとしたモスグリーンの髪、色白な肌と最も印象的なのは――



(綺麗な瞳…………)



 まるで地球を閉じ込めたような、美しい瞳。


 もし仮に彼を取り巻く環境が違えば、間違いなく彼の容姿は世間から脚光を浴び、賞賛されることになったであろう。


 しかし、異常なまでに珍しく美しいその容姿は殺し屋である名無にとって、命取りとなる重大なコンプレックスでしか無かった。


 そしてこの行動は、フラネーヴェにとってもまた命取りとなる――



「……覗きは感心しないな、お嬢様。人は選択肢を間違えた時、それ相応のペナルティを負わなきゃならない」


「……えぇ、そうでしょうね……覚悟の上です。殺して頂いて構いません。その代わり――――」



――パァン……!



 話が途中なのは分かっていた。


 しかし、彼にはこれ以上暗殺現場に滞在できるほど悠長な時間は残されていない。


 自分が非情なのは理解していた。


 しかし、今さら彼女に何らかの施しをしたところで彼の人生が好転する訳ではない。



(俺は既に何百人ものしかばねの上に立ってる……散々踏みつけにしてきた命を差し置いて、あの嬢ちゃんだけ特別扱いは出来ねぇ)



 ほんの少しだけ彼の中に留まる人間味が、密かに痛みを訴える。


 汚い世界に住み、穢れた影をまとう自分は幸せなど望んではいけないと。


 何度も見てきたはずの横たわる死体。


 土の上に無残な様子で散りゆく命に、何を今さら後悔できよう?


 脳裏にこびり付いて離れないと無意識に重ねている自分に気付いた彼は、力ない舌打ちを一つ残してアインザムカイト邸を立ち去った。


――

――――


 カラン、と軽快なベルの音を立てて、名無はツークフォーゲルにある酒場『リトルノ』に帰ってきた。


 もう客は一人もおらず、とっくに店じまいを終えた後であった。



「……“お帰りなさいませ”」



 マスターは名無を出迎え、水と煙草を隅のテーブルに置いた。


 名無は乱雑に椅子を引き、机に足を乗せて背もたれに身を預ける。



「……お行儀がよろしくないのでは」


「へいへい、……」



 いつになく虚ろな目をしている名無を見て、マスターはそれ以上咎めることはしなかった。



「――俺さぁ、いつになったら……あとどれくらい生きたら……名前を思い出せるのかなぁ」



 天井を一点に見つめて、彼は小さくぼやく。           

 か細い声で吐露された不安は、彼の小さな悲鳴だった。



 “名無ナナシ”という名は、当然ながら彼の本名ではない。

 また、それは彼の組織的なコードネームでもない。


 

 『仮名』という表現が一番正確かもしれない。


 名前という大切な個性を失った彼を、人間として繋ぎとめてくれる補助器具のような役割を担う『仮名』。


 それは名無にとって手放せない重要なものでありながら、非常に無機質で冷たいものでもあった。



「……何があったのか、私には分かりかねますが」



 マスターが静かに口を開いた。



「……貴方がという個人的な呪縛から逃れるために、数多の犠牲を生み出したのは事実です」


「…………」



 名無は何も言わない。

 マスターは淡々と話し続ける。



「貴方という人間は今、大勢の死があることでようやく成り立っている――自らを否定し過去に懺悔するような気持ちがあるのは、時として亡き者達への冒涜になるでしょう」


 

 ですから……とマスターは一旦口をつぐむと、名無の目を射抜くようにしっかりと見つめた。



「……貴方は生涯、残酷で在り続けなければなりません――他人にも、己にも」



 いつの間にか土砂降りの雨が降っていたようで、激しく酒場の扉に風が吹きつける音がしていた。


 これ以降、二人のどちらも口を開くことはなく、夜が明けていった――

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