第36話 進撃の官軍『分福茶釜』

永禄12(1569)年2月下旬 薩摩国黒島

松平家康



「おおっ、ここが黒島か。暖かくて良いところではないか。しかし、南の島とはずいぶん木々も三河とは違うものだなぁ。」


 黒島の拠点は、驚くべき要塞じゃった。地下一階地上二階建てのコの字型の建物中央は船の修理施設ドックがある。

 建物は、高い椰子の木々で覆われて見つけ難い。

 入江から少し奥にある村の手前には、びわ、蜜柑、梨、葡萄などの果樹畑があった。


 黒島の村は、元は5家族15人ばかりだったが、今は60人余りになっているという。

 九州の戦で乱取りに会い、奴隷として南蛮に売られるところを助けられた者らが住み着いて増えたという。 

 聞くと小太郎殿が、畑の開墾をして小麦、蕎麦、大豆、かぼちゃ、大根、ほうれん草、白菜、長ネギなどをもたらし、ずいぶん豊かになったという。

 今では、拠点の兵士100人余りと、農作業や兵士達の食事洗濯の世話などの共存生活で、すっかり馴染んでいるそうだ。



「これは、これは殿様。遠いところ遥々お越しくださりましたなぁ。この島の村長の長兵衛と申します。」


「おお、小太郎殿から聞いて参ったぞ。少しの間、厄介になる。よろしく頼む。

 そうじゃ、佳奈と申す娘御はおるかな。

小太郎殿の母御殿から土産を預かって来た。

 皆には儂も土産を持参したぞ。」


「おおっ、佳奈が参りました。」


「はぁ、はぁ、はぁ、佳奈でございます。」


「おお、そなたが佳奈殿か。小太郎殿の母御からそなたに土産を預かって来た。何かは知らぬ。この行李こおりに入っておる。」


【後程行李を開けると、そこには南の島には似つかわしくない、厚地の着物などが入っていた。添えられた文には、これを着て都に出ておいでなさいとあった。佳奈はよくわからず、首をかしげるばかりであった。】




「さてと、勝之進。薩摩に忍ばせた者達からの報せを聞こう。」


「薩摩の島津義久は、現在、薩摩北部の大口をめぐり、相良氏と菱刈氏と争うております。形勢は圧倒的に島津が優勢で、東郷氏、入来院氏が降伏するのも時間の問題かと。

 これにより、島津による薩摩統一がなされることになりませする。」


「なるほど、島津は領国拡大の勢いにあり、帝の詔など眼中にないか。

 我らの南蛮海賊襲撃の影響はないのか。」


「海賊の襲撃は、海賊船1隻で湊の一部を壊し、奴隷交易を迫る程度ですからなぁ。

 国を攻められるなどとは、思うてないのでしょう、舐めておりますな。」


「それでは、島津の軍勢が北部に出ておるうちに、予定どおり島津の居城 鶴丸城を攻め落とす。攻撃は明後日早朝、手配を致せ。」


「はっ、畏まりました。」




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永禄12(1569)年2月下旬 薩摩国志布志村

村長 藤次郎


 

 ここ数年、薩摩島津家の戦で、村の若者が多勢亡き者となった。戦乱で荒れた田畑は、ようやくなんとか回復させたが、村の者は年寄りと女子供ばかりになってしもうた。

 なんで戦がなくならないのであろうか。

 いつまでも戦を続けておれば、田畑も人も疲弊し、やがては国が滅びるであろうに。


 先年、帝がこのような世を憂いて、世直しの詔を布告されたというが、儂らの領主島津公には寝耳に水じゃ。

 近隣の村の衆も良く思うておらぬが、儂らには戦う力がない。


「おい、藤次郎どん。また年貢が増えるぞ。

今年の秋には8公2民になるそうじゃ。」


「なんだってぇ、それじゃ儂らに死ねと言うもんじゃぞっ。」


「役人の野郎、戦で村々の人が減っておるから、構うまいじゃと抜かしおった。」


「それは戦で儂らがお家のために、尽くしておるからであろ女がっ。くそったれめっ。」


「藤次郎どん、俺はもう我慢ならん。長谷寺に来られたお公家様から話を聞いたが、もうこの国で戦乱が続いておるのは、中国と九州だけじゃと言うとった。

 四国など一条様の差配で、見違える豊かな暮らしになっとるらしぞ。

 それでな、我らも帝に従い蜂起せよともうされたのじゃ。若い者がおらんで戦う力がないと言うたら、おなごに武器を与えると申された。十分に戦えるし、間もなく帝の軍勢が来られるそうだ。

 藤次郎どん、俺達はやることに決めたぞ。

手始めに、威張り散らした役人どもに思い知らせてやる。」


「そうか、甚七達がやるなら、儂も村人達に話すわい。村の衆は度重なる武士の横暴に、とっくに愛想を尽かしとる。しかし女と年寄りで本当に戦えるのか。」



 それから数日後、大隅の海岸に公家の手引きで、大量の武器が届いていた。その大半は老人や女でも容易に使える機械弓と、焙烙玉の投擲機であった。

 武器を手に入れた村々は、日頃横暴の限りを尽くす役人達を血祭りに上げ、領主に対し反旗を翻した。だが島津家では、これをまだ軽く見ていた。薩摩湾に戦艦がその姿を現すまでは。




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永禄12(1569)年2月下旬 薩摩国鹿島

松平家康



「目標、鶴丸城。砲撃開始っ。」


 知覧方面から上陸した陸上部隊は、瞬く間に鶴丸城まで進軍し、水軍艦隊が砲撃を開始する頃には、鶴丸城の背後まで迫っていた。

 鶴丸城留守居の城代家老は、砲撃の威力に驚き、抵抗を諦め降伏を選択した。


 鶴丸城に居た島津一族の女子供を捕縛した松平家康は、城代家老を降伏勧告の使者に仕立て、島津義久の下へ送った。



「殿、申し訳ありませぬ。奥の皆様を落とすこと叶いませなんだ。その責めは某が負いまする。」


「仕方なかろう、大砲で攻められてはなす術がない。しかし、降伏の条件が重臣以上の切腹とは、度を越しておるな。素直に従うとでも思うたか。このまま降伏などできるものか。帝だろうと一泡吹かせてくれるわっ。」


「殿、しかしどうなされるので。」


「儂に子はない。室には悪いが死んでもらう。帝の軍の将には降伏すると伝えよ。

 ただし、相良と菱刈から領民を守らねばならぬので、飯野城でお待ち申し上げるとな。

 帝の軍の将には、島津の釣り野伏をお目に掛けようぞ。はははっ。」




「では義久殿は降伏すると言うのだな。」


「はっ、しかし相良と菱刈との戦の最中故、今、軍を率いてこちらへ帰れば大口の民に被害が及ぶため、飯野城まで帝の軍を進めていただきたくお願い申す次第です。」


「相違ないか。その方、鶴丸城落城の攻めを負わず帰って来たのか。儂を謀るつもりならその方を寄越した義久は抜かったな。

 義久に降伏の意思なしと分かった。しからば攻め滅ぼすまで。使者の用はなし、この男の首を跳ねよ。切腹する気はないそうだ。」


「殿っ、何故そう思われまするか。降伏すると申したこと、誠かも知れませぬぞ。」


「降伏するのに条件を付ければ降伏ではないわ。それに、死後の領民の心配するくらいなら、始めから領民を虐げたりせぬものよ。

 義久は儂を見縊りおった。その対価は高うつくぞ。

 広孝、義久の降伏を信じるなら、その方に降伏の使者を命ずる。その阿呆面を晒して、死んで来い。骨くらいは拾ってやろう。」


「殿、某はその可能性もあると申したまで。他意はござらぬ。それを死ねとは無体でござる。」


「広孝、島津の得意戦法は、釣り野伏。敵を誘い込み包囲殲滅する戦法じゃ。

 それを破るには、ただひたすら前に進み、包囲される前に本陣に辿り着くこと。

 本多広孝には、騎馬隊600騎を預ける。

島津の釣り野伏を喰い破って見せよっ。」


「ははっ、承知仕りましたっ。」


「本多忠勝、鳥居元忠、両名には各々騎馬隊500騎を預ける。両翼から包囲する島津の軍勢を背後から撹乱せよ。」




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永禄12(1569)年2月下旬 薩摩国飯野城

島津義久



「殿、帝の軍勢が来ましたぞ。騎馬隊600騎ほどの一隊でございます。」


「少ないな。そんなもので、反旗を翻したらどうするのだ。」


「こちらが降伏すると申したのを信用したのでしょう。殿の渾名を知らぬと見えます。」


「なんだ儂のあだ名とは。」


「嵌め戦上手の島津きつねと、耳にしてございますが。」


「なんだ、それは褒め過ぎじゃ。はははっ。

 敵が予定の場所に着いたら、盛大に歓迎してやれっ。」




「「「わぁー、掛かれっ、掛かれっ。」」」


「来たか、全員、突撃せよっ。」


「「「おぅ、突撃っ。」」」


『ドドドドドッ。』


「な、なんだっ。突撃して来るぞっ、速い、速過ぎるぞっ。本陣を守れっ。」


「でかいっ、なんちゅうでかさだ。化け物のような大きさの馬ではないかっ。

 だめだ、だめだっ、踏み潰されるぞっ。」


「殿っ、お逃げくだされっ。あの騎馬には敵いませぬ。早う早う、お逃げくだされっ。」


 その時だ、本陣に突入した騎馬隊が一斉に鉄砲を放った。島津義久の周囲にいた馬廻りの者達が次々と倒れて行く。見る間に義久の周りには人が居なくなり、そこへ一騎が駆け込んで来た。


「松平家康が家中、本多広孝見参っ。

 島津義久公とお見受け致す。我らを謀ったその首もらい受けるっ。」


 この時、島津の本陣には1千の軍勢がいたが、本多広孝率いるわずか600騎の騎馬隊に圧倒され、本陣奥深くまで侵入を許し、馬廻りの者達を鉄砲で倒されて、本多広孝に、島津義久の首を取られたのであった。


 島津義久が嵌め上手の狐なら、松平家康はたぬきであった。その顔は少しもずる賢そうではなく、むしろ笑いを誘う外見ではあるが夜、餌を求めるその目は光っているという。

 誰が言ったかわからぬが、この地に新政の豊かさがもたらされると、松平家康を福をもたらした狸様だと、すなわち『分福茶釜』殿と、呼ばれるようになったという。


 一風説には、家康がたぬきに似た顔だったとの説がある。きっと目のまわりが落ち窪んでいたためではないか。

 家康は、幼少期から人質暮らしを送るなど苦労が絶えぬ人生だったから、目尻のしわが人一倍多かったのではないだろうか。

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