第34話 進撃の官軍『軍神の誓い』

永禄8(1565)年12月中旬 越後春日山城

上杉輝虎



 儂はは不正義こそが悪の根源と思うている。

 武田信玄が隣国に攻め入る訳も知っていた。甲斐は貧し土地なのだ。領国の民が飢えぬために、肥えた土地を欲っし、産物や交易の得られる海を欲した。

 しかし、奪われる土地に住む者には、悪の所業以外の何者でもない。しかして、儂は、武田から信濃を取り戻し、関東諸豪族の領地を北条から取り返すことを繰り返した。


 そんな最中に上野で、諱をいただいた将軍義輝様と武略の天才児風間小太郎殿とお会いした。

 そして問われた。輝虎殿の正義とは、誰を守るための正義かと。

 秩序を守る者の領地。しかし、それは既に下剋上で無きに等しい。武田信玄が甲斐の民が飢えぬために戦うことを不正義と決めつけられるのかと。

 そして諭された。民のためというのは正しいが、その民とはこの国の民の全てであり、信濃や関東で、乱取りをして民を虐げる儂の所業は、まさしく悪であるとな。


 儂はその言葉に目が覚めたわ。そうか儂は真の正義を知らずに戦って来たのかと。

 そして、義輝様と小太郎殿に乱取りをせずこの国の民を救う、真の正義の戦いをすることを誓ったのだ。



 儂はそれから越後へ帰り、家臣を一人一人呼んで、ただ小太郎殿の言われた全ての民が日の本の民ではないのか。そして戦乱を起こす者に正義はあると考えるかと尋ねた。

 それを黙って聞き続けた。一族、家臣、半臣従の当主387人と話し終わるのに半年掛かったが、それが終わると皆を一同に集め言い渡した。


「先だって以来、皆の考えを聞いたが、これから名を呼ぶ者は左右に並べ。

 新発田長敦、北条高広、温井景隆、· · · · · · · · · · · · 。

 今は名を呼び左右に座る者は、儂とは考えの違う者だ。従って、今日ここ限りにで俺の臣下ではない。

 近々儂は帝の元へ参る。越後に戻る時はそなたら民の敵を滅ぼすす時だ。」


「殿っ、それはあまりに無責任ではござらぬか。」


「誰に無責任なのだ。お前らか、お前らは、儂の越後の民を戦で戦わせて殺し、帝の民を敵と言って殺すことしかできぬ、民を救うための正義の戦いができぬ者ではないか。」


「お前達を生かしておけば、いずれ日の本の民が死に絶えるであろうよ。違うか。」


「しかし、しかし、我らは、、。」


「源之進、そちからも良く聞いたはずだ。

同じことを繰り返し言うでない。

 皆に言うておく。人を殺して、言うことを聞かせる下剋上は正義ではない。誰からも尊敬されぬ。死後を誰も弔わぬ。

 家臣で無い者は立去れっ。」


「殿っ、某が、間違うておりました。お許しを、お許しをくだされ。」


「嘘を申すな、間違いないかと尋ねたはずじゃ。あれが嘘なら、お前は全く信用できぬ。いつ裏切るかわからぬでな。去れっ。」


「殿、分かりましてございます。殿が我らと二人切りで話してくだされたこと。この久次郎、生涯の幸せにございました。

 某は隠居致しまする。嫡男は元服前ゆえ、殿のお考えをご教授くだされ。嫡男がだめなら廃嫡し、次男を。それもだめなら三男を、どうか我らをお捨てくださいますな。」




「 · · · 許す。· · 隠居を許す。」


「 · · 殿、某も隠居致しまするので、

どうかお許しを。」


「「「殿っ、某もっ、(某もっ。) 」」」


「 · · 皆の気持ち、嬉しく思う。次世代の上杉家は尊王ぞっ。そち達の息子は帝の直臣に致す。この輝虎が後見してな。」


 こうして、越後上杉家は帝の軍に生まれ変わった。儂はまた、次代の子らを集めて話すと同時に、一人一人とも話し、帝の描く世に導くことを始めた。

 それから2年経って、関東や甲斐の武田と戦うたが、上杉軍に乱取りをする者は皆無となっていた。




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永禄12(1569)年2月中旬 越後春日山城

上杉輝虎



 いよいよ、帝の描く国造りのために、全国を平定する戦いが始まる時が来た。

 儂は第一軍を預かり、越前に残る朝倉を倒し、山陰道を進む。


 この4年、越後や甲斐、関東は目に見えるほど、民の暮らしは豊かに変っている。

 国境に関所はあるが、それは怪しき者を改めるためで関税はない。道と水路が整備され警備のされた中を人と物が行きかい、豊富な品々が出回っている。

 甲斐も関東も飢える民などいない。土地に合った作物が豊穣をもたらし、普請の銭が人々を助けた。


 軍備も変った。伊豆から贈られた大きな悍馬は、越後でも増やされ今では最強の騎馬隊を形作っている。

 雨天でも使える鉄砲が軍の主体となり、支援の大砲や戦艦が控えている。

 儂の愛馬は『毘天』、旗艦の戦艦の名は、『毘沙門天』。これだけは譲れなかった。



 越後の春日山を出て、北陸道を進む。越中までは新政がなされて道が良い。

 一乗谷城は、一乗谷川沿いの谷あいにある山城で、周囲を山と川に囲まれた天然の要害である。

 当主 朝倉義景の武威は聞かれず、公家の文化を好む慎重派と聞く。

 そんな義景に野戦はあるまい。籠城だな。


 小太郎殿からの指示は、一乗谷城の破却と重臣の切腹、当主の朝倉義景は生かして京に住まわせて構わないとのことだ。

 一乗谷に着陣するとすぐに、東西南の山の尾根の城壁近くまでの林道を切り開き、北の足羽川を挟む搦手門側に砲兵部隊を配置して砲撃を開始した。

 三方に林道を開いたのは、城内から伏兵を出さないためであり、林道の伐採は臭水を原料とする機械鋸で一刻余りで準備が整った。


 そして、砲撃である。本丸に対しては警告の単発射撃を行い、二の丸、三の丸には容赦なく打ち込む。半刻のちには、あちこち崩れ掛けた本丸と城壁だけが残り、逃げ出すことも打って出ることもできずに、降伏の使者がやって来た。

 

 当主一族は助命退去、重臣は切腹。武士達は越前を追放で決着が着いた。

 しかし、3日の猶予を与え、退去、追放を見届けねばならなかった。

 摂津石山の義輝様が、丹波、播磨、但馬の連合軍に攻め寄せられると言うのに、遅参してしまうなあ。

 

 5日後、船で公家衆と代官衆が続々と到着して来た。家臣達が忙しく、朝倉家の村々領地の引き継ぎを行っておる。

 そんな中、石山の合戦の報せが届いた。

 第二軍の水軍の掩護で大勝とのこと。

 野戦であれば、我らの得意とするところであったものを。間に合わず残念至極である。

 一つ情報を得た。義輝様の呼び名が司令官と言うようだ。

 今度お会いしたら、そう呼ばなければ。




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永禄12(1569)年3月中旬 備中高松城外

上杉輝虎



 越前の後は若狭、丹後、丹波、但馬、因幡美作と平定し、いよいよ、中国の実力者毛利とぶつかることになった。



【毛利元就の戦は、謀略、騙し討ち、そして忍従である。徳川家康と似ているかも知れない。家康も幼少期の人質や長男を信長に自害させられるなど悲惨な忍従を強いられた。

 もっと言えば、騙し討ち、暗殺、なんでもありの日本武尊がいる。神風特攻隊やら日本人の気質には、そんなものが眠っているのであろうか。


 筆者は思うのだが、常識、良識に囚われた人間は戦国時代には通用しなかったろうと。

 卑怯と言われようが、戦国時代に限らないが勝った者が正義なのである。

 だから小太郎は、禍根を断つ。残酷、非道と言われようとも、戦乱の要因は断たなければならないのだ。

 上杉謙信公なら分かっていることだろう。

戦国の中で正義を求めた人だから。

 正義の目的のためには、犠牲も手段を選ばないことも必要だと。


 毛利元就の戦法は、巧みであったと言われるが、これと言って決まった形はなかったように伝わる。

 上杉謙信の車掛かり戦法、島津の釣り野伏明智光秀の十面埋伏、織田信長の鉄砲三段撃などのように形に見える戦法ではなかった。


 しかし、奇襲と包囲、臨機応変が毛利元就の戦法だと言える。元就の元には、臨機応変独断で動ける次男の吉川元春と三男の小早川隆景がいたのです。

 普通、攻撃の好機であれ、撤退の判断であれ、本陣の許可なく動けませんが、現場に決定できる指揮官がいれば、迅速な軍の行動がとれるのです。疾きこと風の如しです。】



 備前まで落された毛利元就は、決戦を決意し、備中高松城を最前線として8万の大軍を自ら率いて進軍して来た。

 うち、吉川元春が率いる3万は第二軍を警戒し、瀬戸内海岸線の防備にさき、小早川隆景率いる2万は我ら第一軍の背後を狙い北方へ回っている。


 此度は、毛利本軍との決戦に我ら第一軍が当たり、第二軍は毛利水軍との決戦及びその後、毛利軍の背後に上陸し撤退を遮断するという合同作戦である。


 毛利本軍は、我らが高松城に攻め掛かるタイミングで、我らに襲い掛かるのを狙っている。

 おそらく、その機を逃さず小早川隆景率いる別働隊も襲い掛かって来るだろう。

 


 儂は、今回用いる新たな戦法を越後で訓練していた。それは小太郎殿から聞いた話が基になっている。

 南蛮で大砲や鉄砲のない時代、歩兵の戦法に密集して盾で上横を囲い、槍を揃えて進軍した『ファランクス』という戦法だそうだ。

 その陣形も方形から楔形まで、様々あるという。

 今回儂は、この楔形陣形を用いることにしている。もちろん、この謙信流の方法でだ。



 備中高松城が望まれる平野の東西に、毛利の本軍と我が第一軍が同時に姿を現した。

 中央部は平坦地が広がっているが、北東部と南西部は丘陵地である。

 上杉謙信の第一軍は、その平野部の入口で隊列を組み直すと、方形の3列の隊列ですぐに進行を始めた。

 対して、毛利元就はすぐに鶴翼の陣を取るように指示をした。敵を誘い込み包囲殲滅を図る意図である。


 上杉軍は前進を続け、もうじき毛利軍の弓の射程に入ると思われた頃合いで、急に隊列の形を変え3組の楔形陣形に変った。

 そればかりではなく、人をすっぽり隠す程の大盾で、その陣形を覆ってしまったのだ。

 初めて見る盾で覆れた楔形陣形に、唖然とした毛利陣営だったが、弓矢の射程に入ると一斉に射撃を開始した。もちろん、その弓矢に効力はなく、上杉軍は進行を続ける。

 

 そして、更に距離が詰まると毛利軍は3方から足軽に突撃を命じた。


『うおー、わぁー、掛かれっ、掛かれっ。』


 ところがその瞬間、上杉軍の側面の盾が横向きの膝の高さに変り、その隙間からは鉄砲が顔を出して撃ち出された。


『ドキューン、ドキューン、ドキューン。』


 たちまち、3方の毛利軍に射撃の嵐が吹き荒れる。弓矢は効かぬ、足軽も鉄砲で近づけぬ。元就はすぐに騎馬での突撃を命じた。

 ところが、楔形陣形の中から簡易な三角の馬防柵が運び出されて陣形の前方に置かれ、それを遮蔽物として鉄砲の連射がなされる。


 その頃、迂回してこの戦場に辿り着いた、小早川隆景は毛利本軍の窮地を見ると、即座に背後からの騎馬隊の突撃を命じた。

 だがそれは叶わなった。側面の丘から、上杉軍の騎馬隊が現れ、隆景の放った騎馬隊を急襲したからだ。勝負にならなかった。

 隆景の騎馬隊と上杉の騎馬隊では、馬の大きさが親子ぼとも違うのだ。その隆景の騎馬隊の馬達は、自分より大きな馬体に怯え立ち向かうことを拒み、暴れて勝手に逃げようとするなど、もはや戦力とはならなかった。


 そしてさらに、隆景の別働隊には側面の丘の上から砲撃の嵐が降り注いだ。

 固まっている2万の軍勢など、格好の砲撃目標である。次々と降り注ぐ砲弾の嵐の中をただ恐怖に駆られ逃げ惑う兵達に退却の指示もできず、唖然として立ち竦むことしかできなかった。

 

 毛利元就は、退却を試みたが、背後に現れた騎馬隊の大部隊にそれを断念せざるを得なかった。

 毛利軍の背後から現れた騎馬軍団は、毛利軍の兵站の始末を終えた第二軍の騎馬軍団だった。横一線に広がり、毛利軍の背後を完全に塞いでいた。



 この戦場で毛利元就は、自刃して果てた。

 隆景も砲弾の嵐の中に姿を消して、二度とその姿を見た者はいなかった。

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