第十七章
「問題はここからどっちの道を選んだか、だよな」
そう健介が呟いた時だった。
「いやあああ!」
甲高い悲鳴がこだました。
「これって……!」
「黄仮面の人の声……?」
明美と健介は顔を見合わせる。その間も悲鳴は断続的に響いていた。
「とにかく行くぞ!」
健介に促されて明美も走り出す。その瞬間に眩暈を覚えたが、明美は足を必死に動かした。
黄仮面が歩いて行った道路を走る。悲鳴がぴたりと止むが、二人は速度を緩めなかった。
「こっちだ!」
健介が途中で左に折れる。
その道の先では、三体のゾンビが何かに群がっていた。一番右側のゾンビは服を着ておりそこから覗く肌もより人間に近いものになっているが、明美はそれよりもゾンビの身体の隙間から覗く黄色から目が離せなかった。
「っ畜生!」異口同音に叫んだ。
明美の隣では、健介が既に走り始めている。しかし、唯一服を着ている異色のゾンビの横顔が見えた瞬間、明美の身体は硬直してしまった。
「えっ……?」
木刀が足元に落ちるが、そんな事を気にしている余裕は明美にはなかった。
そのゾンビがこちらを振り返る。目が合った瞬間、明美の身体から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
「嘘だ……」
その鮮血にまみれた顔は、間違いなく彼のものだった。
視界がぼやけ、思考が鈍る。
「明美! どうした⁉」
健介の声が遠くから聞こえるが、身体が動かない。目の前にゾンビの爪が迫ってくる。
自分は、死ぬのだろうか。
「――明美!」
身体に衝撃を感じ、視界が回る。何か暖かいものに包まれている感覚がした。
「おい、明美!」
耳元で健介の声が聞こえ、明美に思考能力が戻る。そうだ、今は固まっている場合ではない――。
しかし、身体はまだ思うように動かなかった。このままでは健介までやられてしまう。
「健介、俺は良いから逃げ――」
「ふざけんな!」
明美の言葉を健介の怒鳴り声が遮る。明美はその迫力に身を縮こませた。
「お前を見殺しにするなら、死んだ方がましだ!」
「……えっ?」
明美の身体が健介により持ち上げられる。
健介はそのまま走り始めたが、その状態で初期タイプののろまではないゾンビに足の速さで勝てる筈もなく、その差はみるみる縮まっていた。
「くそっ!」
健介が木刀を構えてゾンビと対峙する。
明美は健介の背中から降りようとした。しかし、記憶の中にある服が視界に入った瞬間、明美の身体は再び硬直してしまった。
二体の裸のゾンビの爪が、もう目の前にあった。
「いやだ……!」明美は反射的に目を瞑った。
その時、一つの女性の声が空から聞こえた。
「ナイス漢気だ、少年!」
反射的に、瞑っていた目を開けて斜め上を見る。
何やら長い物を手にした女性が屋根の上から降ってきて、持っていた物を片方の裸のゾンビの上に叩き付けた。
女性の手に握られていたのは日本刀だった。素早く体勢を整えた女性は、目にも止まらぬ速さでもう一体の裸のゾンビの背後に回り、日本刀を叩き付ける。
しかし、その後ろには服を着たゾンビが迫っていた。健介が叫ぶ。
「後ろ!」
女性が振り返ってゾンビの爪を日本刀で受け止める。
「明美、一旦下ろすぞ」
健介が腰を落とす。加勢するつもりなのだろう。
明美は制止しようとした。しかし、その時目の前で信じられないような事が起こり、開きかけていた明美の口も、明美を地面に下ろそうとしていた健介の身体も硬直してしまった。
「なっ⁉」健介が驚愕の声を出す。
女性と組み合った瞬間、ゾンビが踵を返して逃走したのだ。
どういう事だ。ゾンビが逃げるなんて有り得ない。
――いや、有り得るかもしれない。
不意に一つの仮説が頭の中を駆け巡る。明美は再び身体が震え出すのを抑えられなかった。
健介が近付いてくる女性に話しかける。
「助けていただいたところに無礼を承知で伺いますが、貴女は何者ですか?」
――お願いだから違っていて。
女性の返答は、そんな明美の願いを無情にも打ち砕いた。
「私は武田早紀。今のゾンビの元になった人物、武田輝人の妻よ」
「ひでえな……」一真が呟く。
悠馬の右の脇腹の部分は、真っ赤に染まっていた。一真は悠馬を横向きに寝かせて傷口を心臓よりも高くすると、服をめくった。
「痛えだろうが耐えろ」
一真が傷口に水を掛ける。そう言う一真の腕も赤く染まっていたが、友梨奈は敢えて何も言わなかった。
「うひゃっ⁉」
悠馬が素っ頓狂な声を上げ、友梨奈は不謹慎ながら笑い声を上げてしまった。
「みゆきより女の子っぽいな、お前」
そう言う一真の声にも僅かに笑いの成分が含まれている。
「まりな。ハンカチを貸せ」
目の前に掌が差し出される。友梨奈はポケットから取り出したハンカチをその上に置いた。
それを傷口に当て、一真は近くにあった服を被せて押し当てた。
「ゆうた、自分で押さえれるか?」
「大丈夫っす」
悠馬が左手で自分の脇腹を押さえると、一真がこちらにやってくる。
「腕、見せろ」
友梨奈は押さえていた手を離した。
「ったく、無茶しやがって。みゆきといい、お前らの高校は素手で攻撃を受けるよう教育されていたのか」
珍しく饒舌な一真が、悠馬の時と同じように手早く処置を済ませてくれる。傷は出血も殆ど止まっていたため、一真が包帯を巻いてくれた。
「有難う」
「ああ」
「じゃあ、次は君の番だね。腕を見せて」
一真が渋々といった様子で腕を前に出す。
「うわっ」その袖をまくり、友梨奈は思わず声を上げた。「ちょっと、ゆうた君の事言えないじゃん!」
想像以上に傷が深い。よくこの傷で表情一つ変えずに治療が出来たものだ。
「俺をあんな貧弱な野郎と一緒にするな」
「ちょっとしんやさん⁉ 酷いっすよ!」
悠馬が声を上げるが、それに答える声はない。一真は元々無視をするし、友梨奈は治療でそれどころではないからだ。
悠馬の事を貧弱呼ばわりするだけの事はあり、一真は治療の過程でただの一度も声を上げなかった。
一真の止血と周囲への警戒を並行して行う。
数分が経過してもゾンビは一体たりとも姿を現さず、悠馬と一真の血もほぼ止まり、無事に包帯を巻き終えた。
「そう言えば、まだあれを調べてなかったな」
独り言のように呟いた一真は徐に立ち上がると、すぐそばにあった衣装を手に取る。
「それ、ゆいのっすよね?」悠馬が衣装を眺める。
「ああ」
衣装がこちらに差し出される。
「仮にも女の子の衣装だ。何か入っていないかまりなが確認してくれ」
「分かった」
衣装を受け取り、ポケットなどを探る。内ポケットに手を入れると、固い感触がある。
「よっ……と」
入っていたのは、バッジだった。
「しんや君、ビンゴ。これで八つ目?」
「いや、九つ目だ」
「えっ?」
「病院から出る際、けんせいがあの武田っておっさんから受け取っていたのを見た」
その説明を聞いて納得する。
「ここを出るぞ」一真が立ち上がった。「あいつらと何としてでも合流する」
友梨奈はその横顔に声を掛けた。
「その腕で木刀握って大丈夫なの?」
「なんとかな。それに、それはお前らにも言える事だろう。お前は片手では自在に扱うのは難しいし、悠馬は身体を捻れねえからな」
反論は思い付かなかった。
「……そうだね」
「無理は禁物っすよ」
悠馬の注意に一真が、お前もな、と苦笑する。
「うす」悠馬が頷き、こちらに顔を向けてくる。「あと、まりちゃんも」
「えっ、私も?」
「そうっすよ」悠馬が唇を尖らせた。「あんだけしんやさんに言っておいて、自分は木刀ぶん投げたじゃないすか」
「それはしんや君を庇ったゆうた君もでしょ?」
「いや、しんやさんは今後も絶対に必要になる人っすから。でもまりちゃんが助けたのは、怪我を負った俺っす。優先度は――」
「ふざけないで!」
友梨奈は悠馬の頬を平手打ちした。
「なっ……⁉」
驚愕の目で見てくる悠馬を、友梨奈は睨みつけた。
「しんや君が私達のキーマンである事は間違いない。でも、それは貴方に関してもそうよ。怪我をしているとか、それが誰だとか関係なく、誰一人として欠けちゃいけないのよ! そんな自分を卑下するような事言わないで!」
友梨奈は目の奥が熱くなるのを感じた。
「……ごめん」
悠馬が呟いた。目が合う。
「そうっすよね」悠馬が頷いた。「俺らは誰一人として欠けちゃいけないっすよね。すんません」
「ううん」友梨奈は首を振った。「ごめんね。こちらこそ叩いちゃって」
「良いっすよ。悪いのは俺だし」悠馬が首を振った。「まあ、びっくりはしたけど」
「人をぶったのなんて初めてよ」
友梨奈は悠馬と顔を見合わせ、同時に笑った。
「もう良いか」
一真の声が聞こえ、二人は慌てて表情を引き締めた。
「悪いが時間がない。続きは無事に帰ったらやってくれ」
一真が歩き出す。
「行くぞ」
一真を先頭に、三人は洋服屋を出た。
「一真君の判断力と行動力は流石の一言だね。他の二人も光るものがあった。それと彼女もまあ、俺が見込んだだけの事はあるね。最低限はクリアしている」
「随分と偉そうなもんだな」
椅子で腕を組む黒仮面に男が吐き捨てるように言う。
「偉いさ」黒仮面は淡々と言った。「だって、今この場の全員の命を掌握しているのは俺なんだから」
「そのサイコぶりにもようやく慣れてきたよ」
「嫌だなあ。ここまで来るのは大変だったんだよ? 良い素材が見つからなくてさ」
男は反論しかけたが、結局何も言わずに黙ってモニターに視線を戻した。
「よく見ておいた方が良いよ」黒仮面がその横顔に話しかける。「まあ、最後まで見るのは厳しいと思うけど」
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