第十八章

 背中で明美が震えている。

 健介は混乱していた。輝人が元になったとはどういう事だ。目の前の女性はその妻と言ったのか。頭がパンクしそうである。

 それでも、今はそれを考える時ではない。

「あそこの家に入りましょう!」

 周囲を見回し、一番大きな家を指差せば、武田早紀と名乗った女性も頷く。健介が明美を背負ったまま、三人は移動した。

 広間に入ると、周囲を家具などで固めて一応の防壁を作る。その作業が終わるや否や、健介は明美を自分に寄り掛からせるようにして腰を下ろし、早紀に質問をした。

「さっきの話、詳しく聞かせてもらえますか?」

「それは勿論だけど、時間がないからまずは一通り、私の話を聞いてくれない? 質問なら終わった後に出来るだけ答えるから」

 女性の真剣な表情に、輝人の面影が重なる。健介は深呼吸を一つすると、頷いた。

「……分かりました」

「有難う。じゃあ早速本題に入るけど、その反応だと、夫とは既に会っているのよね?」

「はい。病院で別れたと聞きましたが……」

「オーケー。じゃあその後からね。私は運動は得意だったから、家の中とかを通って奴らを撒こうとしたんだけど、最後の一体が撒けなかった。でも偶々入った家にこれがあって」早紀が手元の日本刀を示す。「部屋の角に追い詰められた時に無我夢中で奴の頭に叩き付けたら動かなくなった。その後も二回奴らと遭遇して、その過程で頭を攻撃しないと倒せない事が分かった。それ以降は遭遇もせず、夫を探していたんだけど……」

 早紀が一度言葉を切り、腰に差してあったペットボトルを口に含む。輝人も初期アイテムは健介達と同じだと言っていたから、早紀のもそうなのだろう。

「道を歩いていたら、いきなり四方から白い仮面の人達が現れて、夫がお待ちかねですって言って、目隠しをさせられて連行された」

 白い仮面は健介達も見た事がない。うっかりその正体を問いそうになるが、先程の早紀との約束を思い出して開きかけた口を閉じた。

 早紀が淡い笑みを浮かべ、すぐに真剣な表情に戻って話を続ける。

「後で分かったんだけど、私が連行されたのは時計塔の内部だった。目隠しが外されると、そこには黒い仮面を被った人間と、様々なチューブに繋がれた夫が目の前にいたわ。その時には既にさっきの感じになっていたよ」

 淡々とした口調で早紀は続ける。

「夫の状況を説明してから、黒仮面は私にこう尋ねてきた。今からお前の夫と戦って、完全に機能停止にすれば娘を解放してやる、と。私は即答する事が出来なかった。すると、周囲から赤仮面が一人と白仮面が何人も現れて、私を拘束した。もう駄目かと思ったよ。でもその時、目の前にいた赤仮面が、傍に置かれていた私の日本刀を奪って白い仮面に切りつけた。突然の出来事に現場は混乱していたよ。その間に赤仮面は私の手に日本刀を握らせて、下へと繋がる階段まで誘導してくれたの。私はその後、細道から細道へと移動した。そしたら、貴方達の声が聞こえてきた。屋根の上に上ってみれば、二人の若者が夫とかに襲われてるじゃない。びっくりしたわ」

 早紀が水を一口含む。

「貴方達が『ボス』って奴の言うユーチューバーの子達だろうはという事すぐに見当が付いたけど、助けるかは正直迷っていた。それは夫と戦う事を意味するからね。けど、男の子、けんせい君と言ったかしら。君の言葉を聞いて、迷いは吹っ切れたわ」早紀が小さく息を吐いて続ける。「貴方達を助けたいし、夫もそんな貴方達を殺してしまうのは本望ではないだろうって思った。だから私は躊躇いなく日本刀を振った。けど、彼の意識はまだ完全には支配されていないのかもしれないね」

 早紀が目を閉じて、深呼吸をする。健介は、敢えて何も言わずに早紀が話を再開するのを待った。

「ごめんね。もう大丈夫」

 そう言って気丈に笑う姿が自身に体重を預けている幼馴染と重なり、健介は小さく息を吐いた。

「黒仮面の話によれば、夫は身体にウイルスを注射されていて、その素早さも力も人間の頃と殆ど変わらないらしいし、他の機械仕掛けのゾンビとは違って少しは知性が残っているらしくて、回避行動なども取れるそうよ。そして、ここからが重要だから聞いて」早紀が人差し指を立てる。「ウイルスは人間の中枢神経を乗っ取るから、首を折るか切り落とせば行動不能に出来ると、赤仮面が教えてくれたんだ」

「首を……」

 この人はなんて強い人間なのだろうと思う。たった数十分しか一緒に過ごしていない健介でも、想像するだけで胸に鋭い痛みが走るのだ。妻である早紀の痛みなど、健介が想像出来るものではない。それなのに、私の話は以上ね、と言う早紀の表情は寧ろ穏やかといって良いものだ。

「さっき……」

 明美がこの家に入ってから初めて声を発した。同時に身体の左側に感じていた熱が離れていく。

「ん?」早紀が聞き返す。

「さっき、時間がないって言ってましたよね。あれ、どういう意味なんですか?」

「……悪いけど、それを答えるのは最後で良いかな?」

 早紀は何故か、すぐにはその質問には答えたがらなかった。

 特に強く否定する材料もないため、健介も明美も首を縦に振る。

「ごめんね」早紀が小さく手を挙げる。「先に他に質問しておきたい事はある?」

 健介は考えを巡らせた。どうやら立ち直ったらしい明美も隣で首を捻る。

「……じゃあ、二つお聞きします」健介は言った。「一つは、黒仮面に何か特徴的なものはなかったか。そして二つ目は、赤仮面はその後どうしているのか、を知りたいです」

「黒仮面はマントを羽織っていて声も変えていたから、特徴は何も掴めなかったよ。背は高かったけど、女性の可能性も捨てきれない。赤仮面についても、階段で別れたきり見ていないかな」早紀が小さく頭を下げる。「お役に立てなくてごめんなさいね」

「いえ」健介は首を振った。「助けていただいた上にこれだけ情報提供して下さっているんです。感謝してもしきれません」

 有難うございます、と頭を下げれば、早紀は小さく笑った。

 明美が肩をつついてくる。

「健ちゃんはもう良い?」

「ああ。明美は?」

「大丈夫」

 健介と明美は、改めて早紀と向き合った。

「では早紀さん、お教えいただけますか? 時間がないとは、どういう意味なのか」

「……これを見てくれれば分かるよ」

 早紀が後ろを向き、ゆっくりとした動作で着ていたTシャツをたくし上げる。

「……えっ?」

 健介と明美は同時に声を上げた。何もその見事なウエストに驚いたわけではない。

 早紀の背中の一部が、赤紫色に変色していたのだ。

「そ、それって……」

 身体が震える。

「さっきの話で私は敢えて一つ嘘を言ったんだ。赤仮面が助けてくれたのは本当。でも、タイミングは違うの」

 早紀がシャツを元に戻し、健介と明美と正面から向かい合う。

「赤仮面は白仮面と一緒には来なかった。赤仮面が来たのは、私が注射をされている途中だったんだ。全ての注射がされている訳ではないから、ウイルスに支配されるのは比較的ゆっくりなんだけど、もう身体を自由に動かすのは難しいね」

「……もしかして、さっきから動作一つ一つが小さかったりするのはそのせいですか?」

 そう質問する明美の声は僅かに震えていた。

「ええ、そうよ」

「だったらっ」健介は思わず立ち上がった。「さっさとこの『実験』を終わらせて、ウイルスの浸食を止める手立てを『ボス』に吐かせましょう!」

「いえ、それは現実的ではない……」

 早紀が咳き込む。

「早紀さん!」

「大丈夫ですか⁉」

 健介と明美は慌てて早紀に駆け寄る。

「さっきから、ウイルスの浸食のペースが、増して、いるんだ」早紀が咳き込みながら言う。「中枢を、やられたかも」

「早紀さん、もう喋らないでっ」

 早紀の顔色がどんどん悪くなる。本当にウイルスの浸食が早まったのか、心配させないために我慢していたのか。もしくは両方か。

 とにかく、時間がないのは確かだ。

「健介君、明美ちゃん……お願いがあるんだ」

 早紀に本名で呼ばれ、手を握られる。健介と明美は耳を早紀の口に近付けた。

「私と夫を……殺してほしいの」

「っ……!」

 予想はしていた言葉だった。それでも、いざ言葉という実態を伴うと、その重みは想像の比ではなかった。

「酷な事を言っているのは、分かってる……。けど、もう脳が、身体が、痺れ始めている……夫も、生きてはいないし……君達を殺すなんて……以ての外だ」

 早紀の言い分は分かる。今後も様々な困難が伴うであろうこの状況で早紀を助けられるというのは、あまりにも楽観的な考えだ。早紀が夫と同じようになってこちらを襲ってくる確率の方が高いし、それは双方にとって最も回避したい状況だ。

 理屈では理解出来ている。それでも、実際に目の前にいる女性を――。

「……分かりました」

 明美の声が聞こえた。

「明美⁉」

 健介はその横顔を見た。その目には薄っすらと涙が浮かんでいるが、視線は真っ直ぐに早紀に向けられていた。

「早紀さんはもう、十分苦しんだよ。そんな恩人の願い、俺は……叶えてあげたい」

 明美が唇を噛みしめた。

「ごめんね……」早紀が擦れた声で言う。「本当は、自殺しようと……したんだ。けど、勇気が出なくて……君達なら……」

 これまで穏やかな表情をしていた早紀の目に涙が浮かぶ。

 もう、何が正解かなんて分からない。それでも、早紀の言葉が心の底からのものである事は、健介にも伝わってきた。

 ――もう、十分苦しんだよ。

 先程の明美の言葉の真意も、今なら分かる。

 健介は覚悟を決めた。

「分かりました」

 視界がぼやける。

「俺達は、貴女を……殺します」

 一度目を見開いた早紀が、笑みを溢す。

 それは、これまでの早紀の表情で、一番綺麗なものだった。

「今はもう、身体の感覚も……なくなって、きている。私が、目を、閉じたら……日本刀で、首を……落として」

「……はいっ」

 健介は日本刀を手に取った。

 明美が椅子を持ってきて、早紀をそこに座らせる。

 健介と明美は早紀の正面に回り、その手を握り締めた。

「早紀さん、あなた方夫妻が僕らに施してくれた御恩は、一生忘れません」

「どうか、安らかな旅立ちを……」

 二人の目に涙が溜まる。

 早紀の目がゆっくりと閉じ始める。

「有難う……良い、人生だった……」

 その言葉を最後に、早紀の目が完全に閉じられた。

 健介は、狙いをしっかりと定めて、日本刀を振り下ろした。せめて、苦しまないように。楽に旅立てるように。

 日本刀の切っ先が、早紀の首をなぞる。

 早紀の首と胴体が繋がりを失った。

 横に滑る首を、明美が地面に付く前にしっかりと抱き締めた。

 明美が、早紀の頭を抱えたまま崩れ落ちる。

「早紀さんっ……」

 その丸められた背中からは嗚咽が漏れ、その両の目から落ちた雫が、大きな水溜りを作っていく。

 健介が拳を地面に叩き付けた。何度も、何度も。皮膚が破れ、血が出ようとも。

 静寂の部屋に、二人のむせび泣く音のみが響いた。

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