第十六章

 一真と悠馬は警戒を最優先し、主に二人の間にいる友梨奈が洋服のポケットなどを探すも、収穫はなかった。

 そして三人はとうとう店の最奥、試着スペースまで辿り着いた。レジのすぐそばを通り抜けるて左に折れると、『コ』の字に試着室が並んでいる。つまり、一番奥の試着室は三方が壁に囲まれており、ここに居る時にゾンビの集団に襲われでもしたら間違いなく全滅するだろう。

「これは三人で調べるべきではないっすね」悠馬が顔を引きつらせる。「ここだけは保留にしないっすか?」

「ああ、そうだな」

 悠馬の言葉に頷いて引き返そうとしたが、友梨奈がその場に立ち止まっている事に気付く。その視線は試着室ではなく、レジに向けられていた。

「まりな。どうした?」

「……あれ、何か見え覚えあると思わない?」

 友梨奈が指差したのは、レジの裏側だった。目を凝らせば、そこに洋服が掛かっているのが分かる。

「あっ、これ」悠馬が駆け足で近寄った。「俺らが最初のオリジナル曲のミュージックビデオの衣装っす」

 一真も周囲を警戒しつつも更に顔を近づけてみれば、それは確かに『ヨナス』最初のオリジナル曲『涙のキセキ』のミュージックビデオを撮った際に、メンバーがそれぞれ身に着けていた六種類の衣装だった。

 悠馬が徐に手を伸ばす。

「俺が着てたのはこれだった――」

 しかし、悠馬が衣装を引っ張った瞬間、その奥でプチっと何かが切れる音がした。

 続いて前方からガラスの割れるような音、後方から扉の軋むような音が鳴り響く。

「嘘……」

 友梨奈が呆然として呟く。

 一真も咄嗟に口から言葉が出なかった。

 前方から聞こえたのは店内の壁に備え付けられていた四つの鏡が割れる音。後方から聞こえたのは、五つの試着室の扉が開く音だった。

 その全てから、それぞれ二体の新種のゾンビが姿を現した。

 真っ先に我に返った一真は、あまりの絶望的な状況に瞬きをしたが、ゾンビが視界から消える事はなかった。知らずの内に詰めていた息をそっと吐き出す。

 鏡は店内に均等に配置されている。ゾンビの素早さを考えれば、十字路のようになっている通路の分かれ道を駆使しても、一体とも遭遇せずに店内から脱出するのはほとんど不可能だ。それでも、今この場に留まってはいけない事だけは分かった。

「お前ら、取りあえずここから離れろ!」

 一真の叫び声で二人も身体の硬直状態を解いた。

「でもしんや君、この状況をどうやって脱出するの⁉」

「固まっていたらそれこそ袋の鼠だ。三人が別々の通路を通り、脱出を図る。棚やハンガーラックも使って、何とか脱出してくれ。武器だけを持って、リュックは置いて行って良い」

 それは、もはや作戦と呼べるものではなかった。それでも二人は頷いてくれた。

 ――済まない。

 勇敢に歩みを進める仲間の背中に詫びを入れてから、一真は中央の通路を進んだ。前後からの挟み撃ちの可能性を少しでも減らすために、近くにあったハンガーラックを通路に横倒しにして、更に棚にあった服を床に散乱させる。その作業を終える頃には、鏡から出てきたゾンビが目の前に迫っていた。

 通路は挟み撃ちにされ易く攻撃を避けづらいというデメリットがあるが、逆に必ず一対一で勝負出来るというメリットもある。今はそれが有難かった。更地でこの数のゾンビと遭遇していたら、それこそ僅かな生存の可能性もなかっただろう。

 一真はゾンビの頭に服を被せた。爪が伸びてくるが、それを身体を逸らせる事で回避し、その足を木刀で払う。曝け出された頭に踵を振り下ろせば、ゾンビは動かなくなった。

 続くゾンビは、最初に倒したゾンビを蹴飛ばしてその足元にぶつけてバランスを崩させ、前のめりになって露わになった頭部に木刀を叩き付けた。

 腕に鋭い痛みを感じる。見れば、二体目の頭に振り下ろした右腕に三体目の爪が刺さっていた。

「くそがっ……!」

 一真は左手で腕に刺さっている爪をゾンビの腕ごと上に引っ張って自分の腕から引き抜くと、そのまま自分の方へ引き寄せた。流れのまま顔に伸ばされた腕の先の爪が頬をかすめるが、構わず木刀を振り下ろす。三体目の頭部に木刀が当たった瞬間、ゾンビの爪が刺さっていた箇所に鋭い痛みが走るが、一真は動きを緩めなかった。

 三体目の頭部から木刀を離し、顔の前で構えて四体目の爪を受け止めると、その腹を足で蹴飛ばした。

 このまま流れで押し切れる。

 しかし、一真が十字路を突っ切って四体目を仕留めにかかった時、左から悲鳴が響いた。

「友梨奈⁉」

 一真は動きを止めて首を左に向けた。服と服の間から、友梨奈の上にゾンビが覆い被さっているのが見えた。友梨奈も必死に抵抗しているが、その爪と牙は今にも肌に触れそうな位置まで来ている。

 一真が取れる行動は、もう一つしかなかった。

 一真は狙いを定めて木刀を投げた。木刀は狙い通りに飛んでいき、ゾンビの首に当たって友梨奈の手元に転がる。ゾンビがバランスを崩している間に友梨奈は木刀を持って立ち上がった。

「一真君、これっ……!」

「良いから使え!」

 一真は怒鳴るように言うと、自分のゾンビに意識を戻した。

 起き上がったゾンビと素手で組み合う。再び右腕に鋭い痛みが走るが、ここで力を緩めたら確実に重傷を負う。組み合ったまま両足を浮かせると、ドロップキックの要領でゾンビを蹴飛ばし、その反動で自らも後方に着地をした。着地の際の衝撃で再び右腕が痛む。その僅かな隙が命取りとなった。

 背後の気配を察知して振り向いた時には、既に一対の爪が目の前まで迫っていた。慌てて飛び退けようとするが、それが無駄な足搔きである事を、どこか冷静に判断している自分がいた。

 刹那、思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

 メンバーとの出会い。『FiveOREVER』の結成。義和を中心としたチームの広がり。友葉の加入と『YONATH』への改名。旅行。それぞれの誕生日会。撮影。他愛のない日常。駆け巡った殆どの思い出に、今の仲間がいた。

 ――これだけ思い出があるなら、まあ、良いか。

 一真は迫ってくる爪に、静かに目を閉じた。

「――かずさん!」


「一真君、これっ……!」

「良いから使え!」

 悠馬が十字路に到達した時、隣から声が聞こえてくる。視線を左斜め前方に向ければ、服と服の間から手ぶらの一真が見えた。一真は木刀を友梨奈に向かって投げたのだ。

 やっぱり。

 悠馬は内心で溜息を吐いた。目の前のゾンビに体当たりをすると、十字路を左に向かって走り出す。その際に身体を爪で引っ掛かれたが、そんな痛みはどうでも良かった。

 三人が別々の通路を進むと言った時の一真の目は、覚悟を決めた漢のそれだった。その姿は、言葉では言い表せないほど格好良い。しかし、悠馬としては一真を格好良いままにしておく訳にはいかなかった。

 視線の先で一真が地面に着地をして、僅かに顔を顰める。その後ろには既にゾンビが迫っていた。慌てて飛び退こうとするが、今の体勢からでは間に合わないだろう。

「――かずさん!」

 その愛称を叫びながら、尊敬すべき先輩の元に飛び込み、その身体ごと通路に転がる。

 脇腹に激痛が走った。


 誰かに抱きかかえられる感触があった瞬間、一真の身体は暖かさに包まれながら通路を転がっていた。

 何が起きたのか分からない。

 目を開ければ、そこには顔を顰めながらも気丈に笑ってみせる後輩の姿があった。

「悠馬……?」

「かずさん、無事で良かったっす……」悠馬の声は擦れていた。

「っおい!」起き上がった一真は悠馬の脇腹が赤く染まっている事に気付いた。「しっかりしろ!」

「かずさん……。俺の事は良いんで……あんただけでも、逃げて……」

「そんな事出来るか!」

 そう勢い込んだものの、しかし、この危機的状況を脱する策は浮かんでこなかった。起死回生の策を打たない限り、間違いなく二人とも死ぬ。それならば悠馬の努力を無駄にしない方が彼にとっては良いのではないか。そんな考えも浮かんだ。

 一真は唇を噛んで悠馬を見た。

 彼の顔には、笑顔が浮かんでいた。

 その笑顔を見た瞬間、一真の頭からこの健気な後輩を見捨てるという選択肢は消え去った。代わりに病院を出る時の健介との会話が思い出された。


『……俺達は生かされている? どういう事だ』

『根拠は二つある。まずは一つ目』健介が人差し指を立てた。『どんな危険でも、俺達が上手くやれば誰も死なずに済む手段が用意されているという事。かなり薄めなセーフティーネットのようなものと言えばいいか。図書館も、さっきも、行き当たりばったりじゃない。向こうが用意した環境をフル活用した結果、負傷者は出たものの、死者は出ていない』

『確かに、ガキのおもちゃも役に立っているしな』

『そう。そして二つ目』健介が中指を立てる。『向こうはこれを対戦や試合ではなく、実験と言っている事。これは単に俺らが生き残れるかどうかの勝負じゃない。奴が見たいものはその先にある筈なんだ』

『その先? お前はそれが何か分かってるのか?』

『いや、まだだ』健介は首を振った。『それはその時になれば分かるさ。それよりも俺が言いたいのは、どんなに絶望的な状況でも、必ず解決策は用意されてるって事だ』


 そうだ。ここで三人が全員死ぬしか選択肢がないのだとしたら、それは実験ではない。ただの殺戮だ。もし仮に健介の言う『セーフティーネット』がなかったとしても、それを探す事自体は無駄な事じゃない筈だ。

 洋服屋に入ってからの行動を思い出す。それぞれの服を調べていき、試着室に入る事は諦めて、そして――。

「……これだ」

 一真の脳裏に、今の仕掛けが作動した時の情景が鮮やかによみがえる。何かあるとすれば、このシーンだ。

 悠馬が彼自身の服を引っ張った瞬間、鏡の裏と試着室からゾンビは現れた。中に二体ずつ隠れていたのにも関わらず、三人の誰一人としてその気配に気付かなかった事から、あの仕掛けは扉や鏡ではなくゾンビの動き自体に連結していた事になる。悠馬が服を引っ張った事で仕掛けが作動し、ゾンビ達が活動を開始したのだ。

 この仕掛けが作動するのは、悠馬の服だけなのだろうか、

 いや、違うな。一真は自らの考えを打ち消した。そんな限定的な仕掛けなど有り得ない。他のメンバーの服でも何らかの仕掛けが発動する可能性が高い。

 しかし、『セーフティーネット』が発動する可能性が高い場所もまた、レジの裏側だっだ。他の場所は一通り見ており、怪しげなボタンも仕掛けもなかったからだ。割れた鏡や試着室の中という事も考えられるが、一真の頭にはもっと可能性の高い物が浮かんでいた。

 この読みが外れていれば、悠馬はまず間違いなく死ぬ。それでも、何もしなくても死ぬのは一緒だ。ならば少しでも可能性のある方に賭けるしかない。

「ゆうた! 少しの間だけで良いから、何としてでも逃げ回れ!」

 一真は叫ぶと、悠馬の返事も聞かないまま、一気にレジに向かって走り出した。目の前に三体のゾンビが一列になって立ち塞がる。一真は先頭のゾンビの爪が自分に届く直前にスライディングをして、一気に二体を転ばせた。肩や腕に痛みを感じるが、そのままの勢いで立ち上がると三体目に突進する。ここでも爪が皮膚の至る所をかすめ、その牙に首元を裂かれそうになるが、寸でのところで横に突き飛ばす。途中で友梨奈の声が聞こえたが、そのまま店内を駆け抜ける。レジの裏側に到着すると、一真は躊躇う事なく一番奥に掛けられていた衣装を引っ張った。

 悠馬が衣装を引っ張った時と同じ音が鳴る。

 直後、背中に重みを感じて一真は咄嗟にそれを振り払った。

 重みの正体は、背後まで迫っていたゾンビの身体だった。


「しんや君⁉」

 突如、レジや試着室のある方へ駆けていく副リーダーに友梨奈は声を掛けたが、彼の足は止まる事はなかった。

 襲い掛かってきたゾンビを何とか弾き返して首を右に向ければ、悠馬が必死に床を這っており、今にもゾンビに襲われそうだった。

「ゆうた君!」

 友梨奈は手にしていた木刀を、悠馬に一番近いゾンビに投げつけた。狙いは的中し、悠馬に迫っていたゾンビがバランスを崩す。

 ホッとしたのも束の間、今度は自分にゾンビが迫っていた。伸ばされてきた腕を両手で抑えるが、病院で切った傷が痛み、一気に差を詰められる。

 もう、ゾンビの牙が目の前に迫っていた。

 このままでは喉を裂かれる――!

 しかし、咄嗟に目を瞑った友梨奈が感じた衝撃は、予想していたものとは程遠かった。掴んでいたゾンビの腕から力が抜け、その身体ごと倒れ込んでくる。

「きゃっ⁉」

 咄嗟に手を放して身体を逸らせれば、ゾンビはそのまま地面に倒れ込んだ。周囲を見回せば、全てのゾンビが同じように動かなくなっている。

「嘘……どういう事?」

 呆然として座り込む友梨奈の耳に一真の声が届く。

「お前ら、無事か⁉」

 レジ裏から一真が走ってくるのが見える。それを見て、ようやく自分達は助かったんだという安心感が沸いてくる。

「助かった……」

 友梨奈は全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。

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