第二章

「あっ」

 友葉が切符を落とした。

「なくしたら面倒だ」一真がそれを拾い、友葉に渡した。「ポケットに入れておけ」

「うん」

 やっぱり異常だ、と健介は思った。いくら何でも最近、物を落としたり指先が上手く使えてなかったりする事が多すぎる。

 その日が終わり、健介はメンバーやマネージャーとも相談して、友葉に二日の休息を与えた。

 しかし、それからも友葉の異変は続いた。物を落とす事に加え、つまずいたりする事も増えた。一度アスファルトで転びかけた事もあった。一真が察して瞬時に助けなかったら、大怪我になっていてもおかしくはなかった。

「病院に行こう、友葉」

 全員でのミーティングを開き、健介は言った。

「えっ?」

 友葉がこちらを振り向く。その膝には絆創膏が張られていた。

「俺もそれが良いと思う」

「俺も」

 一真と明美が同意し、悠馬と友梨奈も頷く。

「えっ、全然大丈夫だよ! ちょっと疲れてるだけだって。ほら、私元々おっちょこちょいだし」

「お前が頑張っているのは知ってるし、おっちょこちょいなのもそうだ。けど、自分でも気付いているだろう。今の友葉は、そんな一言で済ませられるような状況じゃない」

「……うん」

 友葉が小さく頷くが、その様子は明らかに検査に賛成はしていなかった。

 肩に手が置かれる。振り返れば、明美が小さく頷く。健介も頷き返せば、彼女は友葉に近付き、その肩に手を置いた。

「友葉」

 友葉と明美の視線が交わる。

「俺らは別に友葉の為を想って、とか押し付けている訳じゃない。これはただのお願いだ。俺らは友葉に病院に行って欲しい」

「明美ちゃん……」

「ふらつきや転倒は冗談抜きで危険だ」一真が言った。「何もなければ俺らも安心出来る。何かあるなら早期発見が望ましい」

「そうね」友梨奈も頷く。「心配性なくらいが丁度良いと思う」

「……そうだよね」友葉はゆっくりと頷いた。「分かった。私、検査受ける」

「マジ? サンキュー!」

 今まで黙っていた悠馬が大声を出した。

「あのうっさいのは放っておくとして」明美が友葉の頭に手を乗せる。「ありがとな、友葉」

「有難うね」

 友梨奈にも頭を撫でられ、友葉は笑いながら首を振った。

「ううん、有難う。私もちょっと不安だったから、勇気を出させてくれて」

「いえいえ」

 その光景を微笑ましく思っていると、けんせい、と横から声が掛かる。

「何?」

 振り向けば、一真が眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。

「お前、有事の際に本名呼びに戻るの何とかしろ。俺までつられちまったじゃねえか」

「人のせいにすんな……って言いたいところだけど、確かに毎回俺が最初に言っちゃうんだよな」

「ったく。仕事のトラブルとかは冷静なくせに身内に何かあるとすぐに慌てる。お前の悪い癖だ」

「そうだな。努力する」

 健介は頷いて、視線を前に戻した。

 明美が友葉の髪で遊び、友梨奈と悠馬がそれを見ながら笑っている。

「……仲間に恵まれたな、俺達」

 健介がそう言えば、一真が僅かに口元を綻ばせた。


「子供じゃないんだから、皆してついてこなくて大丈夫だよ」

 その友葉の言葉に従い、ついていくのは身元保証人の健介のみという事になった。普段は甘えん坊な友葉だが、その実は大人にも引けを取らない落ち着いた対応が出来るしっかり者なのだ。

 それもその筈だ。医師の質問に無駄なく的確に答える友葉を見て、健介はそう思った。

 友葉は、そうしなければならない環境で生きてきたのだから。


「ゆい、着いたぞ」

「うん」

 二人がやってきたのは、事務所から車で二十分ほどかかる総合病院だった。前回の病院での検査の結果、ここの紹介状を渡されたのだ。

「行くぞ」

「うん」

 頷く友葉の表情は固い。不安なのは健介も同じだった。

 紹介先のM病院の羽田はねだ医師は、神経内科医だったのだ。

「宜しくお願いします」

 そう言って頭を下げた羽田は、若い男性の医師だった。眼鏡を掛けており、知的な雰囲気が漂う人物だ。

「紹介状をお持ちですか?」

「はい。お願いします」友葉が紹介状を差し出す。

「拝見します」

 羽田が文字を追っていく。その表情がほんの僅かだが険しくなったのは、健介の気のせいだろうか。

「なるほど。分かりました。有難うございます」

 羽田が助手の看護師に指示を出す。

「それでは、早速始めていきましょうか」


 友葉と羽田が診察室から出てくる。健介が頭を下げれば、羽田も応じてくる。

「長時間お疲れ様でした。検査は以上となります。一週間後の水曜日の午後四時に、もう一度お越し頂くという事で問題ありませんか?」

「はい」

「では、その時に検査結果をお話させて頂きます。本日はお疲れ様でした」

「有難うございました」

 健介と友葉は羽田に頭を下げ、出口に向かった。それから病院を出るまでは、二人とも無言だった。

「まあまあ掛かったな」

 外に出たところで、健介は話しかけた。

「うん」

 友葉が小さく溜息を吐く。精神的に消耗しているようだ。

「今日はこのまま家に送って行ってやるから、そのまま休め」

「えっ?」友葉が目を見開く。「でも――」

「今日だけだ」健介は友葉の言葉を遮った。「多分、自分が思った以上に疲れている筈だ。明日からまたフル稼働するためにも、今日は休んだ方が良い」

「分かった」

 友葉は存外素直に頷いた。


 撮影や編集に追われているうちに、その日はすぐにやってきた。

「失礼します」

 どうぞ、という声を聞いて扉を開ける。

「検査の結果が出ました」

 羽田が机に広げていた紙をまとめ、こちらに向き直る。

「お二人とも、よくお聞き下さい」

 隣で友葉が息を呑む気配がする。

「相川さんは、脊髄小脳変性症。通称、SCDと呼ばれる神経障害です」

「SCD……?」友葉が呟く。

「はい」羽田が頷いた。「この病気は、小脳を中心とした神経の変性による疾患の総称です。症状や進行速度に個人差はありますが、次第に歩行や発声などが困難になり、最終的には寝たきりになる病気です」

「寝たきり……?」

 健介は呟いた。突然の事に混乱し、脳の処理速度が遅くなる。羽田の言っている意味を理解するのに数秒を要した。

「それは……最悪の場合ですよね? 上手くいけば完治は、するんですよね?」

 健介は身体を乗り出すようにして尋ねた。

 しかし、羽田の首は横に振られた。

「いいえ。現在は有効な治療法はありません。対症療法や投薬は行いますが、それはあくまで進行を遅らせるもので、治すものではありません」

「……という事は、いずれは友葉は寝たきりになる、という事ですか……?」

「進行速度にもよりますが、おそらく」

 身体から力が抜け、何とか椅子に座り直した。

 悲しみ。焦り。怒り。

 様々な感情が湧き上がって脳内が混乱するが、そんな健介でも一つだけ分かる事があった。

 今一番辛い思いをしているのは、間違いなく友葉だ。

 だから、健介は隣に座っている少女の手を握った。震えが伝わってくる。

「……私」友葉が擦れた声を出した。「あとどれくらい、生きられるんですか?」

「SCDはすぐに命に関わるようなものではありません。十年や二十年、それ以上の方も多くいらっしゃいます」

「でも……寝たきり、にはなるんですよね?」

「ええ。多くの場合は」

 羽田が頷き、友葉の手の震えが大きくなる。

「友葉」

 健介はその名を呼び、その手を強く握り直した。

「状況は悲観すべきものではありません」羽田が言った。「幸いな事に、相川さんの症状はまだそれほど進行していない。対症療法により進行は遅らせる事が可能ですし、今こうしている間にも研究は進んでいます。だから、決して諦めないで下さい。我々も全力を尽くしますから、一緒に頑張りましょう」

 患者のメンタルケアも大事な事だ。だから、対症療法や研究に過度な期待は抱かない方が良いとは分かっている。しかし、全力を尽くすと言った羽田の目には、強い意志が見られた。この人は決して諦めないだろうという確信が、健介の気持ちを少しだけ軽くさせてくれた。

「……はい。有難うございます」

 震えてはいたが、その友葉の声は、先程よりは幾分はっきりしていた。


 その日は薬の処方のみで診察は終了となった。こちらの精神状態を考慮して、時間を与えてくれたのだろう。

「ゆい」

 車に乗り込み、健介は友葉に声を掛けた。

「俺は一旦事務所に戻るけど、お前はどうする? 家に送っていくか?」

「……うん」友葉が小さく頷く。「ごめんなさい。少しの間、一人にさせてほしい……かな」

「分かった」

 じゃあ行くぞ、と声を掛けて、健介はアクセルを踏み込んだ。

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