第15話
「どうしたのですか、クルト?」
忘れもしない。優しい声だ。
鳥の囀りが絶えない森の中で、森小屋の前に少しいびつなデスクと椅子があり、クルトを優しく見る女性は微笑みながら、髪を触る。
「なんかわるいゆめを見てた」
六、七歳の子供に見える彼はデスクに伏せながら、大層疲れている様子だ。そんなだらしない彼を見ると、女性はくすくすと笑った。
「デスクの上に眠るクルトが悪いのですよ」
「なんだよ、おかあさんだってよく寝てたじゃん」
ぶつぶつしながら、いつまでたってもデスクから起きないクルトを見ると、女性は空で飛ぶ鳥を指差した。鳥は女性のことを見ると、すこし戸惑いながらも彼女の肩に止まる。
「ほら、鳥さんに怒られますよ」
「鳥なんてしらない」
クルトはデスク伏せながら、上目遣いで女性を見た。
「それより、おかあさん、ほんとうに王都へ行くの」
「あら、王都という言葉を知っているのですか、えらいです」
「なんだよ、もう子どもじゃない」
クルトは拗ねた。もう女性のことを見ようとしない。女性は目を細め、遠くを見つめるように。
「お母さんはね、王都へ行って、白の巫女の任を受けることになるのですよ。人を沢山助けるお仕事で、凄いことなんですよ」
「でも。もう森で歌いたり、鳥さんと遊ぶのもできなくなるよ、おかあさんは好きでしょ。できなくでもいいの」
「いいのですよ」女性は優しく何度もクルトの頭を撫でた。その顔に翳が射す。「この力で人を助けることができればいいのですよ」
クルトは細い声で。「じゃぼくがおかあさんを助けるよ」
「あら、勇ましいこと」
「うそじゃない、ぼくはおとうさんみたいに剣をとって、ばんばんばんとおかあさんを助けるのだ」
クルトは起き上がり、剣を握る姿勢で、何度も空気を振った。そのぎこちない動きに、女性はつられて笑みをこぼした。
馬車が森小屋の前で緩やかに止まる。女性は速やかに馬車の隣にいる護衛達と何やら難しい話をした。もちろん、クルトは半分もわからないが、大事な話だと、うすうすと感じた。
女性は少ない荷物を持って、クルトと共に馬車に乗た。馬車は緩やかだが、子供のクルトにとっては揺れが強く、なぜ他の大人がこんなものを乗りたがるのか、疑問を感じた。
だけど、風は気持ちよかった。風の中に、母の鼻歌が聞こえた。まるで楽しい旅へ出かけるように、クルトも鼻歌を聞いて、嬉しい気持ちで胸いっぱいだ。
「クルト、王都へ行ったら、買い物をしましょうか」
「ええっ、いいの」
女性の話を聞くと、クルトは驚く。短い足が何度も馬車の座席を叩いた。
「もちろん、ふふっ、たくさんお金貰いましたよ」
女性は笑顔を見せた。そんなに笑う母のことは久しぶりに見たと、クルトは思った。
馬車は長く走った。昼と夜、何度も昼と夜を見た。ついに王都の城壁が見えた。クルトの目に収めないほどに長い、長い壁だった。
「もうそろそろ王都ですよ」
「ううっ、ばしゃはもういやだ」
クルトがだらしない様子で馬車で伏せ、女性はまたそれを楽しそうに眺めた。
「男の子なんでしょ、もう少ししっかりしなさい。女の子に嫌われますよ」
「いいもん、おんなのこなんて知らないし」
ふたりが言い合いをしている時、突然に馬の高い悲鳴が響いた。馬車が激しい回転をし、中身すべてを投げ出すように、石や木にぶつかる音がした。
「敵襲だ!」
前にいる護衛は剣を取り出す、激しい剣戟だ。剣の切り合う音、狂ったかのような叫び、血の飛び散る匂い。すべてが、一瞬で赤に染まる。
「クルト、大丈夫、大丈夫ですよ」
クルトを抱える女性の手も僅かに震えた。
「ぼ、ぼくはおかあさんを守る、から」
「いた、いたぞ!」
傾げる馬車の扉を乱暴に剥がす音がした。クルトは思わずにその人と目が合う。まともじゃない、目が、獣のように肉を貪り食う目だ。
「死ね! なにがエディミア教だ――! なにが白の巫女だ、王の犬が!」
女性は咄嗟にクルトを逆方向へ押し出す。
何度も、何度も、剣が女性の腹に貫く音がした。肉を切り裂き、血を流れ出し、その優しい声さえ無情に奪う剣戟だ。
「か、かあさん」
なにが守るんだ。見ることしかできなかった。
何度刺したのか。何回母の悲しそうな目を見たのか。全ては霧の中のような気がした。血だけを感じた。生暖かい血が。血が、全身を覆った気がした。
「失せろ、ガキ!」
男はクルトを見て、その剣でとどめを刺すが。クルトは頭突きで男を攻撃し、少しバランスを失った男は不覚にも剣を握る手を緩めた。
クルトは狂ったかのように剣を奪い取った。
「よくも! よくも! おかあさんを!」
浅がった。クルトの剣じゃ、とても届かない。しかし、男は傷を受け、よろよろと馬車の外へ転んだ。
やがて満身創痍な護衛がその男のとどめを刺した。
よく見ると、外はもっと酷かった。護衛は何名か死んだが、男の仲間らしきものもおびただしい数で山道で伏せていた。
「まだ、生きて、いますか」
残りのただ一つの護衛は馬車の中を見る。唯一生き残る血まみれなクルトを見ると、涙を零しそうな悔しいな目で、謝罪な言葉を並べた。クルトには半分でもわからなかった。もうなにもかもわからなかった。
「かならず、王都まで、送り、いたします」
馬車をなんとか直し、王都まで突き進んだ。最初はまだ護衛の話が聞こえる、後は息絶え絶えの声だけ、最後はもうなにも聞こえなかった。馬が走る音だけが彼の耳を覆った。
「何事か!」
馬車はとっても美しい建物の前に止まった。そこは教会だと、クルトはうすうすと感じた。
「おいっ、こいつが死んでるぞ!」
凄く切羽詰った声で。建物から出た人は皆護衛を見てた。たくさんの人が見えた。彼らはお構いなく土足のまま馬車に乗り、女性の様子を見た。
「さわるな! おかあさんに、さわるな!」
「なんなんだこのガキは」
「無理だ、白の巫女様はすでに事切れに」
「どうすれば」
「白の巫女様なしじゃ、どうやって聖獣様のお怒りを鎮めるんだ」
たくさんの声が湧き出る。
「この子はどうする」
「どうでもいい、白の巫女様だけが必要だ、ガキなどいらん、どこへでも捨てろ」
――おかあさんはこんな奴らのために森を、大好きな森から出るのか。
もう金なんかいらない。なにが人を助ける仕事だ、なにがエディミア教だ。奴らの顔は、さっきの男とどこが違うんだ。獣のような、目だ。
ぼくは、ぼくは。きらいだ。
好きなものなど、もういない。
買いたいものもない、だから、おかあさん、戻って。もう一度笑って。うたを聞かせて。
ぼくは。
俺は。
目の前に亀裂が走った気がした。
「どうしたのですか、クルト?」
森の中で、あの小屋で彼女を見た。鳥の囀りが延々と続いた。まるで永遠に終わらない楽曲のように。
「なにか悲しいことでもありましたか」
「なんか悪い、夢を見てた」
女性はクルトの震える声を聞くと、なだめるように彼の手を握った。
「大丈夫、大丈夫ですよ。ずっと、ここにいてもいいですよ」
なぜだ。なぜこんなに穏やかにいられる。まるで何も起きなかったように。気がづくと、彼は元の姿に戻った。もう子供じゃない。
「母さんは、白の巫女の務めがあるんじゃないか」
「もういいのです。クルトが怖いのなら、ずっとここに残ります」笑みを綻ぶ。
「ここにいるほうが幸せでしょう」
母は絶対こんなことを言わない。クルトは知っていた。母はもう死んだ。もういない。目の前にいるのはただの幻だ。
でも、ここに残りたいのなら、いつまでもここにいられる気がした。
森の中で、自由に空を飛ぶ鳥を眺めながら、笑い合いながら、歌を聞きながら、ずっと一緒にいられる。
「母さん、俺は」
彼はひと呼吸置いて、話し続けた。
「俺は、ここを出ないといけないんだ」
「どうしてですか」
女性は不思議そうに小首を傾げる。
「会いたい人ができたんだ。どうしても伝えたいことがあるんだ、ここにはいられない」
「あら、女の子なんですか?」
幻なのに、母の笑顔に似ていた。
仕草もいつも嬉しそうな時に、あるいは照れ隠しの時のと似ていた。どうしようもなく。あの幸せな日々のことを思い出す。
クルトが頷くと、女性は微笑みながら彼を眺める。
「だったら、もっとしっかりしなさい。そんなぐちゃぐちゃな顔じゃあきられますよ」
気がつくと、顔に涙が溢れていた。
「ごめん、俺は」
「ほら、もう泣かない」
大の大人なのに、彼はどうしても涙が止まらなかった。幻だと、心の中では知っていたのに。
「そんなに悔しいのなら、今度はちゃんと剣を取って、好きなものを守りなさい」
「クルトなら、できますよ」
母は、最高な笑顔を見せた。
クルトは涙を拭き、剣を取った。剣の重さが心に沁みる。「行ってきます」
「いってらっしゃい」
森の出口へと、無我夢中に走った。
シャーロット、どこにいる。たくさん言いたいことがある。諦めるな。死なないてくれ。
待っていてくれ。これから会いに行く。
すると、目の前には星空が広がった。
「またお会いしましたね、クルト様」
星空の下で、少女がいた。
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