第13話
咄嗟に、葉音が聞こえた。葉っぱすら見えないのに。甘い香りが鼻を刺激する。まるで彼がかつて見たリアスの夢だ。
クルトが振り返ると、急に周りが一変した。
少女は寝床に伏せていた。暗闇から陽光が差す寝室に。少女だけじゃなく、さっき肖像画で見た城の主の姿もあった。
「シャーロット! いい加減その猫を捨てろ、汚らわしい」
城の主の罵声が聞こえる。彼は上質な服を着てるが、その怒りに満ちた顔も、荒々しい罵声も太鼓腹も貴族らしさの片鱗すらなかった。
「ですが、お父様……」
少女が弱々しく、猫を抱えながら返事した。
「この子は家を失い、とても寂しいそうです。このまま捨てることができません……お可哀そうです」
その白銀の猫は少女と同じ目の色を持つ。普通なら、主が喜べそうな愛嬌たっぷりの芸当が一つや二つしそうだが、猫はただじっと座るまま城の主を見つめた。まるで並以上の知性がある目だ。
「こんな薄汚い生き物などいらん」
「そんな、お父様。私からのお願いです、どうか、どうか……わ、私が面倒を見ます。お父様の手を煩わせません」
「ダメだ、さっさと捨てろ」
城の主は顔を顰める。
「わかりました。お父様がそういうのでしたら……ですが、お別れを言う時間だけをお願いしてもよろしいでしょうか?」
頭を垂れながら、袖を絞る少女。
「わしが次に来るまでに終わらせろ! わかるかね、シャーロット、おまえは近いうちに公爵家に嫁ぐ身だぞ、もう汚らわしい猫などを触るな」
少女が頷く。それで満足したのか、城の主はあのまま寝室を去った。広い部屋に少女と猫だけが残した。
少女は苦笑いを浮かべ、猫を見ながら話した。
「こんな病に冒された身で、公爵家へ行けるのかしら。どう思います」
猫はにゃんと鳴くと、少女は笑みを浮かぶ。
「あなたは私と似ています。一人ぼっちで、いつも寂しそうで、目も同じ色。でももう限界のようですね。賢いあなたならわかるでしょう」
少女は猫を見ずに、ただ窓を見続けた。空は一面の青だ。眩しすぎて、見えないほどに青かった。
「私の名前をあなたにあげるわ。私に代わって、どこへでもお行きなさい」
どうかあなたに幸せが訪れますように、と彼女はそのまま猫を押し、逃がすように離した。
「シャーロット――」
クルトはその猫を見て、思わず名前で呼んだ。逆に寝床にいる彼女が返事をした。
「あ、あの……どなたでしょうか」
「そ、それは」
クルトは少女の驚きそうな顔を見て、焦った。言い訳を考えるのは得意じゃない。ここにノランがいれば、なにかうまい言い訳が思いつきそうだが。
「猫が」
「――ああっ、猫が好きなんですか?」
突然にやってくる謎の男なのに、少女はクルトを見て、微笑んてくれた。どこか、人が恋しい様子だ。クルトはシャーロットと同じ顔を持つ少女のことを、どう接すればいいのか迷う。
「そう、ですね、嫌いじゃないです」
ここもあの大樹が見せる幻に違いない。ここでシャーロットを助け出し、説得できれば。
しかし、そんな簡単にできるのか。さっき彼が必死に説得しても、全然心を変わる様子を見せなかった。
目の前にこのシャーロットという名の少女も、なにかの罠か。さっき彼が見た夢のように。
「では、この猫を譲りたいのですか?」
「そうです、譲ってください」
「まぁ、猫がこんなに好きなお方は初めてです」
彼女は鈴が鳴るような声で、微笑みを浮かぶ。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「クルトです」
「クルト様、彼女は私のお友達です。譲れるものではありませんよ」
「これは大変失礼しました」
「――しかし、あなたが彼女と仲良くできれば問題ないです」
「おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「あなたは騎士だとお見受けします。その力で、私をここから、出してくれますか?」
彼女は真剣な目でクルトを見る。
「それは」
クルトはあまりこの城を詳しくない。もちろん地形は知っているが、護衛の数と見回りする時間が知らない。
「大丈夫です、護衛には私が既に話をつけています。道中で私を守るだけです」
「なら、他の護衛を任せしてもよろしいのでは」
彼女が少し拗ねて、頬を小さく膨らませる。「嫌です。あなたがこの子がほしいって言いましたから、その人柄を見極めるのも友達の務めです」
「なるほど、わかりました」
シャーロットは猫を抱えて、すんなりクルトと馬車に乗れた。護衛の人も何も聞かず、馬車を発進する。
その風景はクルトが魔城へ行く山道と似ている。風が吹き、暑さの中に、ほんの少し涼しさが滲む。花の香りが鼻を優しく包み込む。
馬車で揺れながら、少女は好奇心を隠しきれず、質問してきた。
「なぜこの子なんですか?」
「昔、あの猫に会ったことがあります。その時伝えたいことがあるのに、うまく伝えなくて」
やはりちょっと強引な言い訳、しかし半分は本当だ。それを言いながら猫を見るが、猫はまったく彼を見ていなかった。
「伝えたいこと、ですか。この子が賢そうだもの、ね?」
少女は猫を聞いたが、猫はじっと窓の外を見ているだけ。
「今ここで言ってもいいじゃないんですか?」
「いや、それは、ちょっと」
そう言いながら、少女は笑みをこぼした。「冗談ですっ。私はクルトさんの事情には干渉しません。きっと、海よりもまだ深い事情がおありでしょう」
彼女は少し大けさな芝居を始める。すると、猫はニャンと鳴いた。まるで、いい加減にしろと言っているようだ。
馬車は城下町にたどり着くと、速度を下がった。
「買いたい本があります。クルトさんは少し付き合ってくれませんか」
クルトが頷くと、彼女は笑みを見せ、そのまま共に馬車を降りた。よく笑う人だ。護衛はそのことも熟知しているようで、本屋の前に馬車を止まった。
本屋へ行くと、沢山の本が並んでいる。クルトガ読まない本だらけで。そして猫は少女の頭の上に乗ってた、とっても奇妙な画面だ。
「あっ、ありました」
彼女が手にするのは一冊の恋愛小説でした。きらめく星空の下で、というタイトル。
「星は好きなのですか」
「わわっ、本を見つめないでくださいっ。殿方に見せるのは少し恥ずかしいです」
彼女は本の背面だけをクルトに見せ、本の半分で自分の顔を隠し、上目遣いでクルトを見た。
「星は好きですよ、でも城ではあまり見かけないもので、残念です」
ほかにいくつかの本を選んで、少女は満足げの顔で本屋を出た。もちろんクルトは荷物持ちだ。
「なぜ侍女に頼まないのですか、本だけなら侍女でも」
すると、彼女は当たり前のように返事をした。
「自分で本を選ぶ方が好きで、私はあまり部屋を離れないんです。病気で体はいつも弱くて……少しでも機会があれば、見逃しません」
「それに、侍女に恋愛小説を読むなんて知られたくありませんっ」
小声で更に説明した。
侍女はあなたの部屋を掃除するから、すぐに見つけると思いますよ、とクルトは言おうと思ったが。彼女の嬉しいそうな顔を見ると、突っ込むのをやめた。
本を馬車の中に置き、二人は街巡りに。宝石や首飾りや食べ物、様々なものを試した。
時々その頭の上に座る猫にも飾りをつけようとしたが、もちろん拒否された。そのことも楽しそうに猫を見つめる少女であった。
「こんなに嬉しいのは初めてです」
少女は夕焼けの下で歩く。その影は長く伸びて、まるでその日の終わりを告げる合図。
その影に急に別の影が覆った。
「――危ない!」
乱暴そうなごろつきが急に彼女の首の上にナイフを掛ける。少女は怯える目でクルトを見た。
「く、クルト様」
「金を出しな、さもないとこのお嬢さんは」そう言いながら、ごろつきは陰険そうな顔をした。
クルトは剣を抜き、ごろつきへ攻撃を仕掛けようとしたが、彼は少女の盾に使い、攻撃を卑怯な真似で防いだ。
「残念ながら、お前にくれる金なんでいない」
クルトは剣を繰り出す、その狙いはごろつき、じゃなく、少女の上に乗る猫だ。
猫はクルトを睨み、素早くごろつきの顔を爪で引っかかる。思わぬところからの攻撃を受け、ごろつきは呻いた。
その隙に少女の手を引いて、遠くまで逃げる。
「走るぞ!」
「はい!」
少女はまだ驚きを隠せない様子で、クルトの言う通りに走るしかできなかった。
ふたりの影は夕焼けの下で長く伸びる。曲がった道を通り、長い長い坂道を越える。追っ手がないのを確認すると、クルトはようやく走るのをやめた。
息が切れ、立っているだけでも辛いそうな彼女を見る。
「大丈夫ですか」
「は、はい……走るのは久しぶりで……大丈夫です」
知らない内に猫もなぜか彼女の頭の上に乗っていた。大丈夫ですかと、彼女は猫に聞いた。猫はにゃんと答えるだけだったが。いつもと違って、嬉しそうだ。
「さっきは危なかったですね」
「そうですけど、あの子に剣を向けるなんて、酷いです……」
「いや、あいつは賢いから、わかるかと思いまして。咄嗟にこれしか思いつかなくで、申し訳ないんです」
「もういいんです、あの子は譲りませんっ」
そう言って、彼女はまた前を歩き出す。
少女の背中はシャーロットのと重なり合う。その背中を見ると、クルトの口に思わずにその言葉が出た。
「待って、ふらふら行ってまた獣に襲われ――」
「猛獣、ですか? どこも、見当たりませんね」
彼女は不思議そうにクルトを見た。しかし、すぐに別のものに心を奪われた。
「クルト様、ここを見てください――!」
ここは街にある高台だ。見下ろすと、街全体が見える。夕焼けに染める街を、彼女は無邪気な顔で眺めた。
その顔も、髪も、瞳も、夕焼けになる。
「ありがとうございます、クルト様。こんなに嬉しいのは初めてです!」
「さっき襲われたのに、ですか?」
「それを、もう言わないでくださいっ、もう忘れました」
夕日を見ている彼女の横顔に、突如一抹の悲しみを感じた。
「それに、ここへ来るのはもう最後なんです――もうすぐここを離れ、公爵家に嫁ぐのですから」
クルトはいやでもあの日記に書かれることを思い出す。
「嫌なら、ここから逃げると思わないのですか」
彼女は意外そうにクルトを見た。当たり前のように頭を振る。
「それは私の務めです、逃げません……いえ、それも語弊がありますね」
間を置き、考えながら話し続けた。
「もちろん、公爵家へ嫁ぐのは好きではありません。しかし、それを口実に逃げるのは嫌です。小さい頃からずっと病気と戦っていました。公爵家へ嫁ぐのは病気より苦しいとは思いません。正々堂々と向き合うつもりです」
彼女の弱々しい体から、こんなに芯の強い言葉を聞くと思わなかった。むしろ、どの貴族よりも貴族らしい心構えじゃないかと、クルトは彼女を見ながら感心した。
「感服いたしました。さっきの言葉は忘れてください」
彼女はすべてを見通すような目でクルトを見た。
「それで、クルト様は伝えたいことが見つかりましたか? 猫だけじゃなく、誰かに伝えたいことがありますよね」
「干渉はしないじゃないんですか」
「すごく悩んでいるようですから、一言くらいは助言できると思いますっ」微笑みを浮かぶ。
クルトはしばらく沈黙した。どう説明するばいいのか迷った。この思いはどうやって言葉で説明するのか。
「昔にあっている女の子がいて、彼女は人を傷つけた罪悪感に苛まれて、死ぬのを願った。なにを言っても、話を聞いてくれない。俺が、話下手だからなのですか」
「――魔女の森って話は読んだことがありますか? クルト様の言う話と似てると思います。妹が人殺しだ、魔女だと言われて、死のうとしましたが、兄がどう阻もうと無理でした」
ここで、魔女の森の話か。クルトは因果めいたものを感じる。
「最後はどう説得したと思いますか? 兄は騎士になって、魔女討伐隊に参加した。騎士の中に紛れ込んて妹と会うために。最後に妹と聖獣様と戦って、妹の肩を握って、『お前まで亡くすのはイヤだ、魔女でも構わない、一緒にいてくれ』とまっすぐに言ったのです」
あのエンディングはこんなものだったのか。
「クルトさんもまっすぐに言ったほうがいいと思いますよ、好きだ! って」
「ま、待って、そのような」
少女は少し不満げの顔に。「人の猫を借りるまで、そんなに思う女性のことは好きじゃないのですか?」
「……嫌いじゃない、です」
「そういう言い方ですよ、クルト様。素直じゃないです。そうだ、いい言葉をお教えましょう。いいですか、『好きだ、一緒に生きてほしい』と言えばいいんですよ」
彼女は言いながら生き生きして、目を輝かせる。
「恋愛小説の受け売りですか」
「いえ、私の持論です――少しは恋愛小説から来たのですが」
彼女は髪を触り、少し恥ずかしいそうに苦笑した。
「きっとその方はずっと一人っきりで寂しいでしょう。だからいつも悪い方へ考えてしまうのです。心を込めた言葉はきっと響きますよ。クルト様、どうか頑張ってください、応援します」
「今度は持論なんですか」
「――いえ、実体験です」
そう言いながら、彼女は夕焼けの中に格段に眩しく見えた。光あるところに影もあるように、彼女の影も長く伸びた。
「しかし、あの子はもう譲りませんっ」
彼女は猫を頭の上から取ると、猫は急に彼女の手から離れ、遠くへ走っていった。
ふたりで猫を追いかける。
クルトは手を伸ばすと、周りの景色が夕焼けに滲み、そのまま色褪せる。
伸ばす手も触れることを叶わず、猫は遠く、遠く、まるで手のひらから落ちる砂のように去っていた。
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