第11話
嫌な男の声が聞こえた。いつの間にか城の主の部屋に戻ってきたようだ。前は葉っぱだらけだが、いまはその影すら見えない。あの地下室への扉も消えた。
まだあの大樹の幻に飲み込まれたのか。隣のノランも同じく驚いた顔で見回す。
「――彼女のほうが怪しいじゃないか」
アイヴァンはまるで王を気取るかように、城の主のデスクの上に座っていた。まさしく大胆不敵だ。
アイヴァンの目を追うと、扉の向こうにシャーロットとシモンがいた。シモンは懐疑の目でアイヴァンを見たが。シャーロットは逆にアイヴァンと目を合わせないように避けた。
「どういう意味だ」
クルトはアイヴァンの目の前に飛び出す。
「彼女をかばうか? やはり獣は獣をかばうのか」
アイヴァンは蔑む目でクルトを見る。デスクの上に一冊の本を彼へ投げ出した。
「私からの贈り物だ」
本が顔面に直撃する前に受け止めた。さらっと見ると、それは城の主の日記だ。
なにも脳に留めないが、一言だけ。
――シャーロット。あのシャーロットが生まれ変わった、あのヤブ医者の言った通りだ! それで公爵家に嫁ぐことができるぞ!
「なに、読む必要もない。なぜなら、俺は既に暗記しているからな」
アイヴァンは言い続けた。
「これは可憐なシャーロット・フォクゾン嬢の話だ。病に冒され、公爵家に嫁ぐ務めさえ果たせない出がらし女。冬が来ると病気はさらに悪化し、いかにも死にそうだ」
彼はシャーロットを刺さしい視線で見続けた。
「ある日、別の医師が来た。なんと彼女が飼っている猫はエディミア教の聖獣そのもので、医師は聖獣と彼女の
いかにも皮肉が込められている言い方だ。シャーロットへの悪意を隠す素振りさえ見せなかった。
「なっ、なんと、何という罰当たりな」
シモンは話を聞いて、思わずクルトから日記を奪い、そのまま読みはじめた。
「百年前の話だが、なのにこの女はここにいる。なぜなのか。彼女は失敗作だからだ! フォクゾン嬢の意思は消え、その獣の意思だけが残った、失敗作だ」
シャーロットの手は小刻みに震えながら、アイヴァンの目を避け続けた。
クルトはシャーロットを庇い、言い放った。「それがどうかした、むしろ怪しいのは貴様じゃないか」
アイヴァンは薄笑みを浮かべながら、デスクの上からクルトを見つめた。まるでなにかの芸を見せるのが楽しむかのように。
「またそれを言うつもりか。お前だって薄々気づいただろう。私とノランとシモンとお前も偵察隊の者だ――急にどこから現れた女がひとり。そして、我々は謎の現象に巻き込まれた。その理由は? それほどわかりやすい謎掛けもないな」
悪意まみれの言い方だが、筋は通ってる。しかし、彼はどうしてもさっき見た衰弱しきった彼女のことを忘れなかった。彼女がすべてを仕組んだと思えない。
「彼女だけを貶める言い方はやめろ」
「色に溺れると、真実さえも目をそらすのか? よくも騎士でいられるよね」
「おまえもよくホロン家で生き残れたな」
二人が睨み合ってる間に、ノランは恐る恐ると反論した。
「ま、待ってください、この現象は
「あくまで被害者だと言い張るのか。よく思い出してみろ、獣が彼女だけを襲うのはおかしいよね。全ては彼女の都合よく進んだんじゃないか? 可憐なヒロイン気取りじゃないか? わたくしは可哀想なヒロインです、どうか助けてくださいと――媚を売ることしか能がない化け物が」
アイヴァンは大掛かりな芝居を演じながら、ずっと彼女に軽蔑な視線を投げた。獣め、人ですらない、人でなしと囁くように。
シャーロットは涙を我慢しながら話を零した。
「ち、違います、そんな、じゃありません……」
アイヴァンはシャーロットに指差して、罵った。
「彼女こそ全ての元凶、今すぐ殺すべきだ」
「おい、いい加減にしろ! シャーロット、こいつの話を聞く必要はない」
クルトは我慢できずに、シャーロットの手を引いて、その場から出ようとした。
「おっと、逃げないでくれよ」
アイヴァンは一瞬デスクから降りて、シャーロットの左手を引っ張る。それだけじゃなく、その長い袖を肘のあたりまで巻き上げた。
荒々しい手術の痕があった。
つぎはぎの服のように、色んなものが混じり合った傷だ。人の皮膚だけじゃなく、聖獣のように
光を纏いし獣。エディミア教の教義にある、聖獣そのものだ。
「っ……見ないで」
シャーロットは縋るように細い声で懇願した。しかし、どう足掻いてもアイヴァンからの手を解けない。
「そんな、バカな、聖獣様が、シャーロットさんが」
シモンはその場を見て言葉を失った。
「わ、私を見ないで――わ、私は」
彼女の悲しみに溢れる顔を見て、一瞬だけ、一瞬だけ、思わず手を握る力を緩めた。
その刹那に見た彼女の表情は、まるで見捨てられた子猫のような、不安、驚き、悲しみと絶望の表情が浮かんだ。
「クルト、さん……」
そのはずじゃなかった。なぜ手を緩めた。クルトは悔やんだ。
アイヴァンはクルトに勝ち誇った顔をし、そのままシャーロットを捕らえる。
「獣が人と同じく歩めるはずがない。これはよくわかっただろ? 化け物が」
シャーロットの顔にはもはや表情と言えるものはなかった。淡白な、血の色が失せた顔だ。瞳は青空色。その煌く目だけが、いまはどうしようもなく異物に思えた。
「その通りです、アイヴァンさん。もう……私を殺してください」
すべての希望が失った顔。
「シャーロット! よせっ!」
クルトは咄嗟に彼女に近づけるが、すぐに見えない壁に阻まれる。あの大樹で見た同じものだ。どう叩いても破れない。
「生意気な騎士だ、そこで見ていろ」
「――ほ、ホロン様、彼女はせ、聖獣様です。殺すことは。どうか、それだけはおやめください」
シモンはついにショックから立ち直ったのか、アイヴァンを制した。
「エディミア教風情が。あの女が聖獣に見えるか? 教義にある姿と同じように見えるか? むしろエディミア教への冒涜そのものじゃないか。キミは信心深い人だ。エディミア教を逆らうのか、シモン」
「そ、それは――俺は――」
シモンは苦い顔でそれっきり沈黙した。
「おっと、後ろは動かないでくれ」
アイヴァンはノランを見て、言い捨てた。
次の瞬間に、アイヴァンの懐にある施術用のいくつかのナイフが空を舞い上げた。まるで意志を持つ生き物のように。
ノランは咄嗟に構える。隣の本を金色な光で包囲し、盾代わりに使った。防いだ。しかしナイフは素早い。
幸い、ノランはデスクに近い。羽根ペンを取って、炎を纏い、まるで矢のようにアイヴァンに撃った。
――当たらなかった。
アイヴァンは速やかにナイフを目の前に広げて、矢の炎を阻み、そのままノランに跳ね返す。ノランは自分の攻撃を本で防ぐしかできない。
「軽い、アダラン家っていうはこんなものか」
ダメだ、自分は致命的に攻撃に向いていない。いや、そうじゃない、発想が足りないんだ。ノランは全然戦闘に慣れていない。
――
兄弟と違って、弱かった。アダラン家の出がらしだ。でも、そんな自分に、彼女は先生と呼んでくれた。クルトだって、仲間って呼んでくれた。どうしても、二人を守りたい。
彼はアイヴァンを見て、後ろにいる無表情なシャーロットを見て。さらに、壁に阻われ、何かを叫んているクルトを見た。
クルトならどうする。彼なら、どう戦う。
「クルト――今がっ、チャンスだ!」
ノランは必死にクルトの名を叫んた。クルトは壁に阻われ、動けるはずがない。しかし、アイヴァンはどうしようもなくクルトの方に振り向く。なぜなら、彼は一番警戒しているのはクルトだ。
その隙を突く――
デスクそのものが風と共に浮いた。いや、そのまま加速し、アイヴァンに直撃する。
そのはずだった。
「ふん、デスクを使って籠城するとか貧相な発想じゃなく、攻撃に使うその潔さに讃えよう」
無傷だった。デスクはいつの間にか彼の制御下に置き、そのまま空を浮かんでいた。
強い。彼の
「ノランっ!」
遠くにかろうじてクルトの叫び声が聞こえた。
「避けろ――!」
咄嗟に、避けきれなかった。
数本のナイフは金色の光を纏ってデスクを穿ち、そのままノランのところへ飛翔した。
何本を厚い本で躱したが、一本だけ、一本だけ、腹のあたりに刺した。
「……ご、ごめん、クルト、僕、しくじった」
クルトならまだ大丈夫かもしれない。だが彼は学士だ。打たれ強くない。痛みが広ける。息も荒くなる。立つことすら苦痛だ。
「これで邪魔者は全部消えた」
アイヴァンはクルトを見た。
「生意気な騎士はその特等席で見ろ、この幻が崩れる瞬間を」
「貴様、よくもノランを」
「負け犬は今吠えていけ。これからは嫌でもわかるだろう、私の方が正しいだと」
「それでも医師か貴様!」
「医師なんてただのアイデンティティ、呼び名だ。私がなりたいからなったんじゃない。私はアイヴァン・ホロンだ。何も私を阻めない、やりたいことだけをやる。なにしろ、私はこれから君臨する、人と獣の頂点に」
アイヴァンは目を閉じ、両手を開き、自分の言葉に陶酔した。
狂ってる。王者気取りか。
アイヴァンはシャーロットを見て、話した。
「こいつは失敗作だが、私はすぐにこれを超える。人は獣の上に行くべきだ、獣の奴隷になってたまるものか、なにが聖獣だ」
「ここで、死ね」
クルトが叫ぶよりも早く。
ナイフはシャーロットの心臓に穿つ。一撃だけじゃない、確実に死ぬように、何本のナイフで彼女の心臓と腹と首と頭に貫く。
まるで稽古場で見た弓矢の的のようだ。彼女は無表情で倒れ、生暖かい血の海が湧き出た。
「シャーロット――!」
見えない壁が脆く崩れ去り、クルトはシャーロットの所へなだれ込む。
情けない。何もできなかった。
ただ見てるしかできなかった。彼女を守るじゃないのか。なんで見てることしかできないんだ。
「シャーロット、しっかりしろ、死ぬな!」
手のひらの温度が急速に下がった。手を握っても、返事はなかった。まるで彼女の魂はもうここにいないようで。温かみも重みも笑顔も優しさも消えていく。
「ははは、ははははっ、ついに死んだ!」
後ろに煩い声が響いた。
カッときた。このアイデンティティ野郎のせいで、シャーロットはこんな屈辱な思いをしながら死んだ。
思わず、剣を取り出した。
「貴様こそ――」
クルトが刺すよりも早く。
「あなたも私を殺せないのですね」
彼女の声がした。血の海から爪が浮かぶ。アイヴァンはもがきながら血が口から湧いて、途切れた。
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