第8話

 ――歌が聞こえた。


 暗い闇に彼がただ一人、ぽつりと立っていた。気づくと、目の前に銀色の猫がいた。


 猫は彼をじっと見つめる。暗闇の中でも光り輝く瞳は、よく見ると澄んだ青空色にも見えた。


 猫に手を伸ばすと、すぐに逃げられた。


 なぜか、その猫を追わないといけない、そんな気がした。しかし猫は彼より素早く、どうやって追いかけでも追いつけない。


 走り続けると、周りは闇だけじゃなくなり、光も彼の瞳に差し込んだ。目を開くと、リアスの城外に立っていた。


 目の前に少女の姿がある。いや、少女じゃない。名前はすでに知っていた。シャーロット。

 シャーロットだ。


「リアスに来るなんて、初めてです!」


 その金色の髪は太陽の下では銀色のようにも見える。空も彼女を歓迎するように、一面の青だ。身につけている白い帽子も、水色のドレスも花弁のように風の中にたゆたう。


 彼女は太陽の下でぐるぐるとまわり、眩しくて見えないくらいに笑っていた。


「気持ちはわからなくもないが、まだふらふらと歩いたら――」


 クルトの口から勝手に言葉が浮かべた。


「どこも獣がいませんよ?」


 シャーロットは振り向いて、クルトを見た。帽子で目がよく見えないが、とろけそうなほど甘い笑顔だ。


「迷子になったら、クルトさんなら見つけてくれるはずです」

「おい、ここをなんだと思う」

「リアスですっ」


 シャーロットはもうわくわくして、話を半分しか聞いていないようだ。


 リアスだけでも魔城の五、六個分の大きさだ。市場も河もあり、人も盛りたくさんだ。


 ここで一人だけを探すと、夜になっても見つからなさそう。たとえクルトがどれだけリアスのことを熟知しても無理な話だ。


「クルトさんはリアスの騎士ですから、大丈夫ですよ」


 どうやらこのリアスで働く人なら皆それくらいはできる、簡単な仕事と思ったみたいだ。


「行きたい所はあるか?」

 彼女は急に黙り込んだ。「……なにかおすすめありますか?」


「じゃ正門の噴水にいけばいいか、近いし」


 近いだけで決めるとか、もっとマシな言い分はないのか、彼は思った。


 水の都リアスはこの国の五つある都の一つ。その中でも特に水資源が豊富であり、さらにエディミア教の白の巫女リーアが最後に訪れた、由緒正しい聖地の一つだ。どこも彼女を記念する彫刻があり、噴水もそのひとつだ。


 普通の噴水と違い、周りにエディミア教の教義が刻まれた。


 また、噴水の後ろに巨大な彫刻がある。少し荒々しい作りだが、白の巫女リーアと聖獣の友情を謳う作品だ。


 シャーロットは彫刻を見ると、思わず祈りを捧げた。


「初めて見る彫刻ですが、リーア様の優しい表情も、聖獣様の凛々しさも上手く表現しています。きっとリーア様をよくご存知の人ですね。作者さんはどなたでしょうか」


「知らない、誰も作者のこと気にしてないからな」

「そうですか……残念です」

「ところで、クルトさんは聖獣様のこと、見たことがあるんですか」

「いや、俺は――」


 そもそも、なぜシャーロットと一緒にリアスにいたんだ。もともとはあの――あれ、どこにいったっけ。どうしても思い出さなかった。


 聖獣なんて、騎士でも、たとえ礼拝堂の神父でも稀に見る存在だ。見たわけがない。


「どうかしましたか?」


 シャーロットは首をかしげるまま、クルトを見た。


「聖獣なんて、俺みたいにエディミア教を信じない人に姿を見せるわけ無いだろう」

「そんなことはないです。聖獣様は優しいですから、クルトさんのこと嫌うわけがないですよ」

「じゃ会ったら聞くよ」


 その時は教えて下さいね、と彼女は笑って言った。


「あとは、クルトさんの仕事場の見に行きたいですね」


 シャーロットは左の道を指し、目を光らせた。


「騎士団はこっちだ」


 クルトは逆に右を指すと、シャーロットはすぐに右の道へ歩き出す。


「騎士団はつまらない所だ、見どころなんてないぞ」


 クルトとシャーロットは市場通りを巡った。街沿いの店は皆見知った店ばかりだ、彼は思った。


 奇しくも、店主はシャーロットを見ると、すぐに猛烈に声を掛け始めた。彼だって一応得意先なのに、誰も話しかけてくれない。シャーロットのほうが貴族に見えるからか。


「クルトさんは騎士団のことが嫌いですか?」

「そうじゃないが、ただ……」

「ただ?」


 ただ――ただなんだろう。クルトは言葉に詰まる。騎士団のことが好きか。嫌いか。


 ガキの頃からずっと騎士団にいた。剣すら上手く握れないガキから、騎士団に一員にまでなった。


 騎士団の一員になった後、戦績は芳しく、ワイズも良くしてくれた。人助けもした。それも一人だけじゃない、たくさんだ。報酬も、普通の人よりも何倍もマシだ。


 うまく言葉にできず、そのまま、まるでなにかに喉を詰まらせる感じだ。


「知るか。そんな事考える時間なんてないよ」

「あっ、クルトさん! 今日は休日じゃないですか」


 急に誰かがクルトの肩を捕まった。シャーロットは慌てて立ち止まって、ちょっと困った顔をした。


「あの……?」

「す、すみません、クルトさんの後輩です! お嬢さんをびっくりさせてごめんなさい」


 このお人好しの顔。いつも笑顔で、騎士らしくないやつ。考えなくでもわかる――名前。あれ、名前はなんだっけ。なぜこいつの名前だけ思い出さない。クルトは心の中で唸った。


「クルトさんの後輩ですか! きっといつもクルトさんの稽古を見ていたのですね」

「そうですよ、クルトさんの剣技、毎回見てもすごいです!」


 シャーロットは男の話を聞くと、目を輝かせた。


「私も、クルトさんが一気にたくさんの獣を倒すところを見ました。騎士団の皆さんは全部それくらい楽勝なんですか?」

「いや、無理ですよ!」


 クルトにお構えなく、二人は話を盛り上がった。


 あいつ昔は狩人で、母親の薬代を稼ぐために兵士を志願した。お人好しで、顔はぜんぜん騎士らしくなくで、誰に対しても親切で。クルトみたいなひねくれた人さえも。


 あいつは。あいつは。

 ――もう死んだじゃないか。


 そうだ、目の前で。獣に切り裂いて。血の一滴も残らずに。間に合わないから、あいつは死んだじゃないか。


「エモン?」


 クルトは歯切れ悪く、男の名前を呼んだ。


「どうしたのですか? あっ、僕はサボってるわけじゃないですよ!」

「どうしてここにいる」

「だって、巡回している途中にクルトさんがなんと見知らぬお嬢さんと一緒に歩いてたんですから、思わず……」


 エモンは一瞬躊躇した。


「あっ、それに、噂を聞いたんですよ。なんと、クルトさんが上級騎士へ昇進するんです!」


 シャーロットはクルトを見て。


「おめでとうございます! クルトさんが一躍有名になるんですね!」


 上級騎士なんで、そんなわけがない。貴族の後ろ盾がないと一生無理なんじゃないか。だからこそ、ハンスは一生懸命に貴族のご機嫌取りに励むんだ。


 彼の知るリアスとは違うようだ。違和感が拭えない。


「エモン、おまえは魔城で死んだじゃないか……?」


 突如、風は騒ぎ始める。クルトには、風と共にざわめく葉音しか聞こえない。深い洞窟のように、他の音をぜんぜん聞こえなかった。


 エモンは頭を振り、困惑していた。


「クルトさんはきっと悪い夢を見たんですよ。僕はここにいるんじゃないですか」

「そもそも、俺は、魔城に――」


 魔城のことを口に出すと、葉音がまるですべてを遮るように、耳障りな雑音になった。


「クルトさんは忙しい過ぎて、夢と勘違いしているだけです」


 シャーロットは笑い飛ばした。


「じゃシャーロットなぜここにいるのだ」

「なぜって、クルトさんから誘ったんじゃないですか、リアスに来ませんかって」


 違う。魔城以外にシャーロットと会うはずがない。彼女は、彼女は未だに魔城に――


 クルトはシャーロットの肩を掴み、彼女の帽子はそのまま地に落ちる。帽子の下の表情は同じだ。完璧な笑顔だ。しかし、その瞳は朱を染めた。


 それだけじゃなく、後ろにいるエモンも、周りクルトを見つめる店主の目も真っ赤に。青空もそれにつれて、黒赤に。太陽までお隠れだ。葉音と風の音しか聞こえなかった。 


「おまえは誰だ」

「シャーロットですよ、クルトさん、もうおぼえていないのですか」


 悲しみを湛える目で。


「ずっと、ずっと、一緒にいたのに、忘れるだなんで、嘘なんですよね。クルトさんは嘘つくのが得意なんですから」


 シャーロットは顔をクルトの胸に埋める。


「そうですよね?」

「私はクルトさんのことを忘れたくないんです。ずっと、ずっと一緒にいてほしいです。だって」


「だって、私はクルトさんのことを好きなんです。ずっと一緒にいたい、って思うのは当たり前なんですよね」


「クルトさんを見ても、話を聞くのも、笑うのを見るのも、嬉しくて。肩に手を置くだけでも、嬉しくて悲しくて切なくて、心の中はクルトさんのことばかりなんです」


「クルトさんはリアスに戻ると、騎士団に戻らないといけない。もう私の騎士じゃなくなります。でも、このままずっと一緒にいたいんです」


「――クルトさんだって、同じ気持ちなんですよね」


 シャーロットは頭を上げ、涙がこぼれそうだ。延々と並べる愛の言葉を聞いて、おかしくなりそうだ。


「な、なにを」


 シャーロットはこんな事を言わない。彼女はずっと彼を拒み続けた。そんな、ふざけたような事を言わない。


 それでも、聞くことを止めない。止めることができなかった。その声も、柔らかい唇も、涙こぼれそうな目さえも魅力的に感じた。吸い込まれそうになる。


「――だ、黙れ」


 ギリギリに拒絶の言葉の並べた。


「私達の心は通じ合ったんですよね」

「だ、黙れ、シャーロットの顔を使ってそんな事を言うな!」


 クルトは耐えられず、シャーロットに似たような少女を突き飛ばした。しかし、彼女は諦めず、彼にくっついた。

 甘い声で。


「そんなことって、なんのことなんですか? シャーロットだって女の子です。恋だって、しますよ」


 芳しい香りで。


「好きです。クルトさんのことが好きです。あなたに抱きしめてほしい、あなたのすべてがほしい、あなたのものになりたいです――」


 とろける瞳で。


「クルトさん、ずっと、ずっと、ここにいて、私をあなたのものにして――」


 気づくと、全てが消え、彼女と血色の背景しか残らない。葉音しか聞こえなかった。彼女の声が、まるで葉音とシンクロしたように。


 彼女の声を、仕草を、瞳を見ると、すべて、なにもかも捨てても構わなくなる。


「違う! 寄るな」

「嘘です。クルトさんもそう思ってるくせに。なぜ自分の感情を否定するのですか」


 違う、違う。確かに、そう思ったことはなくもない。そう、ふらふらして危ないから、ずっと隣にいてほしいと、思ったこともある。泣いてばかりなんだから、笑ってほしいとも。でも、それは、こんな形じゃなくて。


 こんな、シャーロットの意思を塗りつぶすような感じじゃない。彼女はそんな喋り方はしない。


 突き飛ばしたのに、シャーロットに似た少女は諦めず、クルトを追い続けた。彼は罠にはまる獣のように、どうあがいても逃げられない実感がした。


 咄嗟に、暗闇の中に走る音がした。


 いや、人じゃない。さっきの猫だ。その短い足で、遠くから彼女の顔へ飛び、素早く爪で引っ掛けた。シャーロットに似た少女は痛みで顔を歪め、後ろへ下がった。


「おのれ――おのれ――」

「なぜここに――恨めしい――」


 シャーロットに似た少女は異常な力を使って、爪から茨が生え、猫を纏って、遠く投げ飛ばした。


 猫は諦めない、たとえぼろぼろでもシャーロットに似た少女へ走る。危うくまた茨の直撃に当たる時、クルトは猫を抱えて、逃げ出した。


「おい、大丈夫か!」


 叫んだ後こそ気づく、猫は彼の言葉をわかるまい。だが、猫は彼を見て、弱々しく鳴いた。その瞳は優しい青空色だ。


 走って、走って、クルトは走り続ける。


 しかし、振り向くと、その後ろに無数な茨が彼と猫をつきまとう――

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