第31話 北へ

 夜が白々と明けると、早々に出発する隊商もあって、馬の嘶く声や朝食を売り歩く声がテルミッツの街に響く。


 昨夜、ヒルデガルトを狙った人攫いの襲撃ですっかり夜更かしする羽目になったデルマは眠そうな目を擦りながら寝台の上で大きく伸びをした。

「あーっ。招かれざる客のせいで睡眠時間がすっかり短くなってしまったわ。」

 ちらりと隣の寝台に目をやるとヒルデガルトが可愛い寝息を立てている。


(アルテンシュタット辺境伯のご令嬢・・・世間知らずのお嬢様。水と光の魔法の使い手。でもそれだけじゃなさそうね。)そんなことを考えながら、ヒルデガルトの寝顔を眺めていた。


「う、うん。」寝返りを打ったヒルデガルトがうっすらと目を開くと目の前にデルマの顔があった。

「あっ、デ、デルマ先生。お、おはようございます。」

 自身の顔を覗き込むデルマにヒルデガルトが動揺する。無防備な寝起きの顔に少し寝乱れた髪。それらをデルマの美しい瞳に見つめられていたかと思うと恥ずかしさでヒルデガルトの頬が朱に染まった。

「い、いやですわ、先生。こんな顔を見られてお恥ずかしいですわ。起こしてくださればよろしかったのに。」


「いや、あんまりにも可愛い寝顔だったから、つい見とれちゃって。」動揺するヒルデガルトを微笑ましく思いながら、デルマが右の手でヒルデガルトの白金色の髪を掬い上げる。

「お、お戯れを。」ヒルデガルトは消え入りそうな声でそう言うとますます顔を赤くして、両手で頬を挟むようにしてうつむいてしまった。昨夜は昨夜で寝惚けたデルマに寝台に引き倒され、今朝は今朝で寝顔を見られて、からかわれているのだから動揺するなという方が無理だろう。


 あまりからかい過ぎるのも良くないと思ったのか、その場の雰囲気を変えるようにデルマは立ち上がり、窓を開ける。宿を発つ商人や旅行者など外は人の往来が増えてきた。


 二人はいつものように手桶に魔法で水を満たし、顔を洗い、口を漱いで化粧水をつけると、夜着を脱いで旅装に着替える。

 白くゆったりとした夜着を脱ぐとデルマの豊かな胸と肉付き良く張った腰が露になった。女性から見ても溜め息が出るような肢体にヒルデガルトは目を奪われる。

(私もデルマ先生のように美しくなれるかしら?)自身のまだ発育途上の体と比べて、ヒルデガルトはちょっぴり嫉妬と羨望を覚えた。


「さあさあ、朝食を食べて、準備をしたら出発よ。駅馬車も早い時刻のものに乗りたいから。」

「は、はい、先生。」

 デルマに見とれて一瞬ぼーっとしていたヒルデガルトは、デルマの声で我に返り、慌てて服装を整えた。


**********


「さてと。」

宿の一階にある食堂で軽く朝食を取り、出発の準備が整うとデルマは紙を取り出し、「深夜に淑女の寝室に忍び込もうとした不埒冒険者」と大書きした。

「さすがに理由も分からず納戸に大の男が3人も転がっていたら宿の人も困るでしょ。」そう嘯きながらデルマは納戸の扉の裏にその紙を貼り付けてから階下へと降りていった。

 客がみんな出発し、部屋の掃除に入った宿の使用人が納戸の男たちに気付くのは、ヒルデガルトとデルマはテルミッツの街を後にした頃だろう。

 被害者とはいえ警備隊の事情聴取などは御免こうむりたい。また、「誘拐」と書くには証拠も無いし、何より「誘拐する価値がある人間がいた」ことを街を治める代官に知らせる必要もない。

 痺れて床に転がっている男たちを見つけた宿の人間が冒険者ギルドに届けて、ギルドが処罰してくれれば、それで十分だろう。


**********


 陽がまだ高くならないうちにテルミッツの街を出発した馬車はヒルデガルトたちを乗せて一路北へと向かう。ここからは整備された街道を進むので、天候が荒れたりせず、順調に行けば、霊峰シュピッツェの麓の街シュネーベルクまで10日の道程だ。


 馬車にはヒルデガルトとデルマのほかに22、3歳くらいの子連れの女性、身なりの良い老人とその従者らしい中年の男性の合計6人が乗っていた。

 街道を進むということで、荒野を通る馬車と異なり護衛の冒険者は付いていない。


 周りは一面の小麦畑と点在する林が広がり、のどかで牧歌的な風景が広がり、石畳できれいに舗装された道では馬車が大きく揺れることもなく、馬の歩調に合わせた軽い揺れが眠気を誘ってくる。

 先ほどまで外の景色を見てはしゃいでいた男の子も今は母親の膝枕で眠りにつき、その子と同じように熱心に外を眺めていたヒルデガルトも単調な景色に飽きたのか、馬車の壁に頭を預けて目を閉じている。


 馬車の中にはまったりとした空気が流れ、ヒルデガルトの向かいの席に座っているデルマも睡魔と戦うのに必死だった。

(いけない、いけない。街道を走る駅馬車とはいえ油断は禁物・・・)デルマはそう気を引き締めるが、眠いものは眠い。つい、うつらうつらと舟を漕いでしまう。


**********


 のどかな旅が続き、陽が一番高くなる頃、駅馬車は街道沿いに設けられた駅亭に到着した。


「ここでしばらく休憩しますんで。」御者が6人の乗客に告げながら、馬を馬車から外し、水飲み場に連れていく。そこには飼い葉も用意されており、残りの道程に備えて、馬を休ませるのだ。


 馬車から降りたヒルデガルトとデルマは大きく伸びをして、座りっぱなしで凝った体をほぐす。

「馬車での長旅のためにこのような施設が整備されているのですね!」ヒルデガルトは初めて見る街道の駅亭を興味深そうに見回した。


 街道の途中に設けられた駅亭は主に馬の休憩や給餌を行う場所となっており、街中にあるものと違って基本的に他方面への乗り換えなどは行っていない。また、早馬による交代用の馬も用意されていて、王族や貴族が王都と領地の間で急ぎの報せや荷物を届けるために使われている。

 馬を中心にした施設ではあるが、御者や乗客が休憩したり、食事を取るための簡易な食堂も備え付けらていて、軽食を食べることもできる。


「ヒルダ、お昼はどうする?テルミッツで買ってきた物を食べても良いし、ここの食堂を試してみるのもありよ。」

「デルマ先生がよろしければ、こちらの食堂で昼食を頂きたいです。」きょろきょろと周りを見回していたヒルデガルトは、好奇心で瞳を輝かせながらデルマを振り返った。

「分かったわ。周りに街もない小さな駅亭だから簡素な物しか置いてないと思うけど、こちらでお昼にしましょう。」


 食堂の中は2人掛けの食卓が3卓とカウンター席が4席のこぢんまりとした造りで、ヒルデガルトたちと同じ馬車に乗ってきた親子連れが先に入っていた。


 ヒルデガルトとデルマは奥の窓際の食卓で向かい合って座る。木を組み合わせただけの簡素な食卓と椅子で、少しがたついているが、造り自体はかなり頑丈そうだ。


「今日は干し肉と野菜が入った麦粥か、干し肉と野菜のスープと固パンだよ。どちらも銅貨8枚だよ。」カウンター席の向こう側の調理場から食堂の女将さんが声を掛けてきた。

「銅貨8枚は高いわね。6枚にならないかしら?」さらりと値切りにかかるデルマ。確かに街中だと麦粥やスープは銅貨5枚が良いところで、輸送に手間がかかる駅亭でも手間賃を含めて銅貨6枚と小銅貨5枚が相場だろう。

「だめだめ。うちは負けないことにしてるんだ。」

「じゃあ、何かオマケはないの?麦粥だけだと寂しいでしょ?」

「しょうがないねぇ。干した赤木苺の実を3粒ずつ付けてあげるよ。」

「ありがとう。私は麦粥をお願いするわ。ヒルダは?」

「・・・私も麦粥を頂けますでしょうか?」

デルマと女将のやり取りを呆気に取られながら眺めていたヒルデガルトは、はっとした様子で注文した。


**********


「さてと。」昼食の注文を終えたデルマは椅子に座り直し、ヒルデガルトを正面から見つめた。


「昨夜は不届き者の侵入を未然に教えてくれて助かったわ。」

「いえ。あの人たちは私を拐おうと企んでいたのにデルマ先生が退治してくださって、本当に感謝しておりますわ。」

「で、その時、ヒルダは言ったわよね、お友達が教えてくれたって。誰かご実家から着いてきているのかしら?」

 デルマは笑顔で尋ねるが、その眼光は鋭かった。


「あっ、あの。」突然の質問に口ごもるヒルデガルトを見て、デルマがほんの一瞬だけ真顔になったがすぐに笑顔を取り戻した。


「家は黙って出てまいりましたので、誰も着いてきてはいないと思います。」

「ふーん。じゃあ、使い魔でも連れているの?まさか私たちが着替えているところとかお風呂に入っているところとか、覗いてないわよね?」

 デルマは冗談めかして尋ねるが、その瞳は笑ってはいない。そもそもヒルデガルトの素性は何となく知ってはいるものの、付き合いも短く、分からないことも多い。

 デルマとしては、伯爵令嬢の隠密旅のような厄介事に自ら飛び込んでいった自覚はあるが、だからこそ自らの置かれた状況と旅の道連れであるヒルデガルトの能力や状態は把握しておきたい。


「つ、使い魔だなんてとんでもありませんわ。」

 明らかにうろたえているのが分かる口調と表情で否定するヒルデガルトをデルマはじっと見つめる。


「エオストレはお友達、そう、私の大切なお友達ですわ。」ヒルデガルトは気を取り直したように「友達」という言葉を強調する。


「友達ねぇ。で、そのエオストレとやらはどこにいるの?」そう言ってデルマはキョロキョロと辺りを見回した。わざとらしいこと、この上無いがヒルデガルトはあたふたしてしまって、それに気付く余裕も無い。


「き、きっと外にいると思いますわ。ええ、外に。」

「そう?さっきは見かけなかったけど。小鳥のように小さいのかしら?それにそもそも馬車の速さについてこられるの?」

「ええ。昨夜も声を掛けてくださったので、ついて来られているのは間違いないのですけれど。」

 予想外のデルマの追求に、眉尻が下がり、困ったような表情になるヒルデガルト。実際にのところ、白銀の古龍がヒルデガルト自身の影の中に潜んでいるらしいことは理解しているものの、それがどのような原理なのか知らないし、古龍の力なのだろうと無理矢理納得している部分もあるのだ。


「ちなみに、その子は色白で、長い尻尾を持っているかしら?」

 デルマは、荒野で灰色狼に襲われた時にヒルデガルトの影の中から白い鞭のような物が飛びかかってくる狼を叩き落としたのを思い出しながら尋ねた。

 デルマがそれを目撃した時、魔法を使うことに必死で何も気付いていなかったヒルデガルトは、不意打ちを喰らった形でハッとしたようにデルマの顔を見つめる。

「デ、デルマ先生、どうしてご存知なのですか?」


「やっぱり。」デルマは一人で納得したように頷きながら、ヒルデガルトの瞳を覗き込む。

「で、そのお友達のために、龍、それも古龍の素材を探しているのね。」

「はい。先生のおっしゃるとおりです。」もう隠せないと悟ったヒルデガルトはデルマの言葉を肯定した。


「それにしても、まさかお友達が人間ではなく、魔物だか幻獣だったとはね。龍の素材を取り込んで強くしたいのかしら?」

「それは、分かりません。私はただ親友との約束を果たしたいだけなのです。その後、エオストレがどのような道を歩むかはエオストレの心のままですわ。」

「それはそれで無責任な話ね。もし、そのお友達が強大な力を得て、人類に敵対したら、ヒルデガルトはどうするつもりなのかしら?」

「エオストレは、私の親友は、そのようなことはなさいませんわ。気まぐれでいたずら好きなところはあると思いますけれど。」

「そう・・・。ヒルデガルトがそう言うのなら、それを信じましょう。で、私には紹介してくれないのかしら?」

 デルマは、明るい口調に切り替えて、興味津々といった面持ちで尋ねた。


「それが・・・私もどうやって会えば良いのか分からないのです。いつもエオストレの方から会いに来てくださいますので。」申し訳なさそうに視線を落とすヒルデガルト。

「エオストレはおそらく私のことやデルマ先生のことを観ているので、そのうち姿を見せてくれると思いますわ。」

 そう言いながら、ヒルデガルトは、白銀の古龍エオストレが自らの力を取り戻す前に一攫千金を狙う輩から命を狙われることを警戒していたことを思い出していた。


**********


 ヒルデガルトとデルマが話し込んでいるところに注文した麦粥が運ばれてきた。

一掴みの麦と二切れの干し肉、少しの乾燥野菜を入れて炊かれた麦粥が木をくりぬいて作ったお椀を満たしている。

 ほかほかと湯気が立って、干し肉と野菜の香りが漂うが、麦入りのスープと言った方がしっくりくるくらいの薄さだ。


「これが麦粥なのですね。」ヒルデガルトは、これまで食べたことのない料理を興味深そうに眺めた。


「そうよ。王都の周りの農村だと朝に食べることが多いけれど、北に来るとお昼にも食べるみたいね。」

(でも、こんなに薄いと麦粥じゃなくて、麦入りスープでしょう!これで銅貨8枚?)

 お椀に入った薄い粥に心の中で突っ込みを入れながらも、それをおくびにも出さずにデルマは解説する。


「それじゃあ、頂きましょうか。」そう言ってデルマは匙を手に取った。


「はい。デルマ先生。」ヒルデガルトはそう応えた後、麦粥に手を合わせ、「こうして無事に日々の糧を得られることに感謝します。」と小さな声で祈りを捧げた。


 麦粥は干し肉の塩気と旨味がちょうど良く、麦入りスープだと心の中で突っ込んだデルマも美味しそうに頷きながら、食べ進んでいった。


「粒のままの麦を頂くのは初めてですが、パンと違って食感も面白いですし、美味しいものですね。」ヒルデガルトも素直に感想を述べながら上品に粥を口に運ぶ。


「お友達がヒルダに声を掛けてきたら、旅の道連れのデルマが会いたがっていたと伝えてね。」麦粥を食べながら、デルマは食事前の話を続けてきた。


「もちろんお伝えしますわ。私がこんなにもデルマ先生にお世話になっているのをエオストレも観ているでしょうから、想いは伝わっていると思います。」

 とは言うものの、龍を含め、霊薬の素材を扱っているデルマに対する警戒心をエオストレがいつ解いてくれるかは、エオストレに任せるしかない。それは理解しているが、ヒルデガルトはエオストレに向けて「デルマ先生があなたにとって安心できる人物なら姿を見せてあげて。」と心の中で念じるのだった。

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