第30話 招かれざる客

 草木も眠る深夜、歓楽街の喧騒も静まり、テルミッツの街は闇に包まれる。わずかな月明かりと所々に立っている常夜灯の明かりがぼぉっと街路と近くの家々の外壁を照らしているだけだ。宿屋が立ち並ぶ通りの一画にある「青い鳥の止まり木亭」では、宿の下働きも宿泊客も寝静まり、暗闇と静寂が支配している。


「カチャリ」勝手口の扉の錠前が小さな音を立てた。静かな宿の中では思いのほか大きく響いたが気付く者は誰もいない。

 中からの反応を伺っていたのだろうか、しばらく静寂が支配した後、キィと小さく軋む音をさせながら分厚い木の板でできた扉が少しだけ開き、3体の影が宿の調理場に忍び込んだ。


「おい、本当にここに泊まっているのか?」

「ああ。用心してまっすぐこの宿には帰らなかったが、所詮は素人の浅知恵。跡を付けられていたとも知らずに入っていったよ。」

「それにしても本当に貴族のお嬢様がお供を一人連れただけで旅をしてるのか?」

「あの育ちの良さ、着ている服も上質の素材を使っていたところを見ると、貴族でなくとも裕福な商家か何かの娘だ。それに厄介事を何とか避けようとしていたから訳ありなんだろう。上手くやれば、身代金をがっぽりもらえるし、それが無理でもあれだけの上玉だ。高く売れる。」

 忍び込んだ影はひそひそと話しながら足音を忍ばせて、厨房から客室の方へと進む。


「でもよ、兄貴。しくじったらやばいんじゃねえか?」

「だからこそ、この街に知り合いがいない旅人を狙うのさ。」

「それに、俺たちは街を魔物から守っている冒険者様。捜索の依頼こそされ、疑われることはないさ。」


**********


「先生、デルマ先生。」窓からほんのりと月明かりが入る客室の中、ヒルデガルトは隣の寝台で眠るデルマの肩をそっと揺すった。

「デルマ先生、目をお覚ましくださいませ。」酒の影響か、宿屋に泊まった安心感か、デルマがなかなか目を覚まさないので、ヒルデガルトは前屈みになり、デルマの耳許に顔を寄せて囁いた。


 デルマがまだ目を覚まさないので、ヒルデガルトがもう一度デルマの肩を揺さぶろうとした時、不意にデルマが抱きついてきて、ヒルデガルトは寝台の上に引き倒される格好になってしまった。


 デルマはむにゃむにゃと寝惚けた声を出しながら、ヒルデガルトの胸から腰を抱えるように腕を廻して頰ずりをする。


「あんっ!いけませんわ、デルマ先生。」寝惚けたデルマの不意討ちに、ヒルデガルトは堪らず声を上げた。

 その声で意識を取り戻したのか、デルマはがばっと上半身を起こすと自分の腕の中に可憐な美少女を抱き締めているのに気が付いて、慌てて手を離すと弾かれたように壁の方に後ずさった。


「ヒ、ヒ、ヒルダ!だめ!私、そんな趣味無いから!」顔を朱に染めながら右腕を突きだし、掌をヒルデガルトに向けながら首をぶんぶんと横に振るデルマ。

 寝惚けて自分の寝台にヒルデガルトを引き倒した自覚もなく、狼狽えるデルマに、ヒルデガルトは人差し指を唇に当てて、静かに、という仕草をして、囁きかけた。

「デルマ先生、悪い人たちがこの部屋にやってくるみたいですわ。」

「へっ?悪い人?何で?」

 まだ状況が掴めていないデルマは間抜けな質問をした。


「私を誘拐して身代金を取ろうと企んでいるみたいですの。」形の良い眉を曇らせてヒルデガルトが囁く。

「テオ様が揉めていらした冒険者の人たちみたいです。先生を巻き込んでしまい申し訳ありません。」


「ふうん。人攫いねえ。揉め事はできるだけ避けたいけど、降りかかる火の粉は払わないとね。で、相手は何人?」ようやく事態が飲み込めたデルマはそう尋ねながら荷物袋を引き寄せ、中から白く濁った液体が入った小瓶を取り出した。

「3人ですわ。」

 淀みなく答えるヒルデガルトにデルマは違和感を覚えた。


「ヒルダ、あなた、どうしてその『悪い人たち』のことが分かったの?窓の外を見ていた訳でもないし、そもそも暗がりで見えないわよね?」

「それは・・・そう、お友だちが教えてくれたのですわ。」

 ヒルデガルトは一瞬言い淀みながら答えた。


「えっ?この旅に『友だち』がついてきているの?」

 デルマの問いかける眼差しにヒルデガルトは少し困ったような表情を見せたが、口にしたのは別のことだった。

「もうすぐこの階に上がって来ますわ。」

「そうなのね。話は後で聞かせてもらうわ。」

 デルマはそう言うと荷物袋から細い縄を取り出し、片方を扉の取っ手に、もう片方を寝台の脚にくくりつけた。


「ヒルダは扉の後ろに隠れていなさい。それから、扉が開いたら息を止めて霊薬の飛沫を吸い込まないように気を付けて。」

 そうして、デルマは小瓶を手にして、扉の横に立ち、男たちが扉を開けるのを待ち構える。


 ミシリ、ミシリとかすかに廊下の敷板の軋む音が近づいてくる。

 やがて、その音がヒルデガルトたちの部屋の前で止まった。

 部屋の中の様子を伺うかのように、しばらく物音一つしない状況が続いた後、カチャリと扉の鍵が開く音が小さく響いた。


(宿屋だからと油断して、『施錠』の魔法をかけていなかったのは失敗だったわね。)そんなことを考えながら、デルマは小瓶を構えて扉が開かれるのを待つ。


 キィ、と少しだけ扉が開かれ、男たちが部屋の中の様子を伺う気配がした。逸る気持ちを抑えて、デルマは小瓶に付いた噴霧器に指を添える。


 扉がさらに開かれた時、扉の取っ手と寝台の脚を結び付ける縄がピンと張り、扉の動きが急に止まった。


「罠か!」何も無いとたかを括っていた男の一人が驚いて声を上げ、その男と仲間二人が細い縄に気を取られた瞬間、デルマは息を止め、目を瞑りながら噴霧器を何度も押し、霧状になった白い霊薬を男たちの顔に振りかけた。


「うっぷ!」

「げほ、げほ。」

「な、何だ!」


 白い霊薬が目や鼻、口に入り、男たちがむせ返る。その隙にデルマは開きかけた扉を閉め、再び鍵をかけた。


「ち、畜生。気付いてやがったのか!」そう呟きながら男が扉の取っ手をガチャガチャと回そうとするが、目に入った霊薬のせいで鍵を開けられず、ただ虚しく取っ手を回す音だけが響く。


 しばらくするとその音もしなくなり、廊下が静けさを取り戻した。


  デルマがそっと扉を開け、外の様子を伺うと廊下には3人の男が寝転がっていた。

「ふん。眩み草から作った痺れ薬がてきめんに効いたようね。痺れて動けないでしょう。」

 扉の取っ手にくくりつけていた縄を解き、扉を開けて外に出ると、デルマは荒野で灰色狼を縛り上げたのと同じように、男たちを後ろ手に縛り、脚も結束して、さらに猿轡まで噛ませた。


(警備隊に突き出したいところだけど、事情を聴かれるのは嫌だし、さて、どうしたものかしら。)

 男たちが麻痺から回復しないように猿轡に白い霊薬をさらに染み込ませながら、デルマが周りを見回すと、寝台の敷布や枕などを片付けておく納戸が目に入った。


(甘いけれど納戸に閉じ込めておくか。)そう決めるとデルマは部屋の中にいたヒルデガルトにも手伝ってもらいながら、痺れて体を動かせない男たちを納戸に押し込め、敷布などで隠して扉を閉めると『施錠』の魔法をかけておく。


「さ、物音に気付いて宿の人が起き出してくる前に部屋に戻りましょう。もう一眠りするわよ。」そう言ってデルマは軽く欠伸をすると、ヒルデガルトと部屋に戻った。

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