第26話 狼退治

 横転した馬車から抜け出した途端、狼に飛びかかられたものの何とか難を逃れたヒルデガルトとデルマだったが、まだ、目の前では2頭の狼が威嚇の唸り声を上げている。

 狼たちはヒルデガルトとデルマの方にじりじりと近づこうとするが、そのたびにデルマが目潰しの赤い霊薬の入った小瓶を振りかざして牽制し、にらみ合いが続く。


 ヒルデガルトとデルマが2頭の灰色狼に足止めされる格好になっている中、冒険者の男が2頭目の狼を叩き斬ったが、疲労の色が濃く、大剣を振るう速度が落ちてきているのが、デルマたちにも見て取れた。


「まずいわね。ヒルダ、向こうの狼の群を何とかできない?」

「何とかとおっしゃいましても・・・」

 デルマの言葉にヒルデガルトは小首をかしげて一瞬考えると、すぐに呪文の詠唱を始める。


「万物の理を司る魔力よ、柔らかな霧となりて安らかな眠りをもたらせ!」

 軽く目を瞑り、精神を集中しながら、ヒルデガルトは白い『眠りの霧』が冒険者と周りの狼たちを包み込む姿を想い描き、冒険者たちの方に向かって右手を大きく横に薙いだ。

 その刹那、冒険者の男を中心に周りの狼たちも包み込む形で乳白色の濃い霧が立ち込め、それまで響いていた狼たちの威嚇の唸り声がぱたりと止んだ。


(うわぁ、ずいぶんと無茶な魔法の使い方を・・・)

 味方である冒険者の男まで巻き込むような形で魔法を発動させたヒルデガルトにデルマは呆れるしかなかった。もし、男だけが眠って、狼が眠らなかったら笑えない喜劇以外の何物でもない。

 幸い、冒険者の男を取り囲んでいた狼たちは全て眠ったようだが、おまけで冒険者の男も眠ってしまったのかもしれない。とどめを差す音も聞こえず、霧の中は静まり返っている。


 ヒルデガルトが魔法に集中し、デルマがそちらに気を取られた隙を逃さずに2頭の狼が吠えながら、2人に向かって走り出した。

「うわ、来るな、来るな!」デルマは慌てて赤い液体を振り撒き、1頭を無力化したがヒルデガルトに向かった1頭まで止めることはできなかった。


 狼がヒルデガルトに飛びかかり、その華奢な首筋に牙を立てようとした瞬間、突然、狼が地面に叩きつけられた。

(な、何事?何が起こったの?)その様子を見ていたデルマは目を疑った。

(あの子の影から白い鞭のような物が伸びた気がしたけど、見間違いかしら?)


 魔法を使うために集中していたヒルデガルト自身も狼の悲鳴で我に返り、目の前に狼がひっくり返っているのを見て、びっくりして飛び上がるように後ずさる。

「え?え?何で狼が?お、襲ってこないかしら?」

 倒れて動かなくなった狼から目を放さないようにしながら、ヒルデガルトはデルマのそばまで後退してきた。


「デ、デルマ先生。この後はいかがすればよろしいのでしょうか?」恐る恐るヒルデガルトが尋ねる声で、デルマは我に返った。

「そ、そうね。まずは、この治療用の霊薬であの若い子を治してあげて。」そう言ってデルマは左手に持っていた霊薬の瓶をヒルデガルトに手渡した。


「血や汚れを洗い流すように霊薬をかけて。」

 呻き声を上げながら横たわっている若い男の方に歩いていくヒルデガルトの後ろからデルマが指示を出す。


「私の方は狼を何とかしないとね。」そう独りごちながら、デルマはひっくり返っている狼に向かい、とどめとばかりに狼の目と鼻に赤い液体をかける。

 その痛みで目が覚めた狼は、キャンキャンと鳴きながら尻尾を巻いて逃げていった。


 ヒルデガルトは倒れて呻いているテオの横に膝を突くと、デルマの指示に従って、その腕とふくらはぎの咬み傷に霊薬を注いだ。

 ふくらはぎの傷はかなり深く、なかなか血が止まらない。

(どうしましょう。血が止まりませんわ。このままでは死んでしまいますわ。)大量の血を前にヒルデガルトは動転してしまい、おろおろと目の前の若者とデルマの方に視線を泳がせた。


「ヒルダ、そっちは大丈夫?」ヒルデガルトの視線に気付いたデルマが声を掛ける。


「先生、血が止まりません。お薬が効かないくらい酷い怪我なのかもしれませんわ。」震える声で答えるヒルデガルト。


「すぐ行くわ。」そう言ってデルマは荷物袋を拾い上げて、ヒルデガルトの方に駆け寄った。


「確かに酷い傷ね。肉が半分喰い千切られてる・・・」痛々しく、目を背けたくなるような大怪我だ。慣れていないヒルデガルトが動転するのも当たり前だろう。デルマでさえ直視するのがつらい。

「霊薬では限界があるわね。このままだと後遺症が残ってしまうかも。」デルマは荷物袋の中の霊薬を見繕いながら呟いた。


「こ、後遺症!歩けなくなったりするのですか?」想像するだけでも恐ろしい現実にヒルデガルトは泣きそうな表情でデルマを見た。

「歩けなくなることは無いと思うけど、今みたいに戦うのは無理かも。」

「そんな。私たちを守ってくださった方が、そんな。」ヒルデガルトの声が湿り気を帯びる。


『ヒルデガルト、あなた回復魔法が使えるのではなくって?』

 突然ヒルデガルトの頭の中に白銀の古龍の声が響く。

『!』

『動転しているのは分かるけど、あなたにできることをしなさい。』白銀のエオストレは優しく諭すように続けた。

『魔術の修練で森に行った時に騎士見習いを助けたのを思い出して。』


「そうですわね。」そう呟くと、それまで泣きそうだったヒルデガルトの表情が引き締まった。


 ヒルデガルトは呼吸を整え、精神を集中させるながら、若者のふくらはぎの傷に右の掌をかざす。

『清浄』そう唱えた瞬間、ヒルデガルトの掌から金色がかった白い光が溢れ出し、牙の痕に入り込んだ狼の唾液まで浄めていく。


 続けて、かろうじて繋がっているふくらはぎの筋肉を両手で傷口に張り合わせるように押さえながら、『治癒』と唱えると金色がかった白い光によって傷口が塞がってゆく。


「た、助かったぁ。」テオは深く溜め息をつくような声を漏らした。

「あんた、大したもんだな。おかげで命拾いしたよ。」テオはまだ横たわりながらも穏やかな声でそう言うと、自分の胸の上に置かれているヒルデガルトの手を握った。


「あ、あの。」突然手を握られて、ヒルデガルトは戸惑って手を引っ込めようとしたが、しっかりと握られて離れられない。

「あの、手を離してくださいますか?」困った顔をしてヒルデガルトがお願いするが、テオは手を握ったまま、ヒルデガルトを見つめる。


「はいはい、まだ終わってないわよ。あっちの狼を始末しないと、また襲ってくるわよ。」

 困惑するヒルデガルトを見かねたデルマがわざと大きな声を出しながら、ヒルデガルトの腕を取って立ち上がらせようとした。


「坊やは邪魔をしないで休んでなさい。」デルマはキッと鋭い視線を向け、テオの口に霊薬の入った小瓶を突っ込んだ。

「うげ、苦いな、これ。」テオは霊薬の苦さに顔をしかめながら、ヒルデガルトの手を離した。

「良薬は口に苦し!我慢して飲みなさい。」そう言いながら、デルマはヒルデガルトを立ち上がらせ、二人で霧の方に歩いていく。


 最初は霧が濃くて何も見えなかったが、今はかなり薄れてきていて、ぼんやりと中が見える。そこには膝を突き、剣を支えにしながら眠っている冒険者の男を中心に狼たちがひっくり返っている姿があった。


「一度にこれだけ眠らせるなんて。そこの冒険者もなかなかの手練れみたいだけど、それさえも眠らせてしまってるし。」

 感心半分、呆れ半分といった調子でデルマはヒルデガルトを振り返った。


「申し訳ありません、デルマ先生。必死でしたので、加減がよく分かりませんでしたの。」考え無しに魔法を使ったのを呆れられたと思い、ヒルデガルトは少ししょんぼりしている。


「ううん。責めてる訳じゃないのよ。ただ、味方を巻き込むような魔法の使い方はよほど注意しないとね。」

「・・・はい・・・これからは気を付けます。」


 そんな会話をしている内に霧がほぼ晴れたので、デルマは荷物袋から丈夫な縄を取り出し、眠っている狼の後ろ脚を動かせないように束ねて縛っていった。

 付け根と足先をそれぞれしっかりと縛るので、いかに力が強い狼といえども力を入れられず、そこから抜け出すのは至難の業だろう。


「デルマ先生は、薬草だけでなく、動物の扱いにも慣れていらっしゃるのですね。」

 狼たちの自由を奪っていくデルマの手際の良さにヒルデガルトは感心することしきりだった。


「さあ、その冒険者さんを起こしてあげて。」デルマにそう促され、ヒルデガルトは慌てて眠っている冒険者の肩を揺さぶった。

「目をお覚ましくださいませ。」遠慮がちに声を掛けたところで、冒険者はなかなか目を覚まさない。


「やれやれ、だいぶ深く魔法にかかってしまったみたいね。」男を起こそうと肩を揺さぶりながら声を掛けているヒルデガルトを見ながらデルマは荷物袋から小瓶を一つ取り出した。顔を背けながら小瓶の蓋を開けると、ツンとした刺激臭が辺りに漂う。


「デルマ先生、それは?」刺激臭を避けるために鼻を押さえながらヒルデガルトが質問した。

「気付け薬よ。大抵の人間はこれで目を覚ますわ。」そう答えながらデルマは男の鼻先に小瓶を当てがった


「ゲホゲホ。」刺激が強すぎたのか、男は激しく咳き込みながら目を覚ました。その目には涙さえ浮かんでいる。

「ひどい臭いだな。おかげで一発で目が覚めたよ。」

「いい気付け薬でしょ。」そう言ってにっこりと笑うデルマに釣られて、男も涙の浮かんだ目で笑う。


「どうせなら美女の口づけか旨い酒で起こして欲しかったな。」

「そんな軽口が叩けるなら、狼に噛まれた傷はそれほど深くなさそうね。」

 小瓶の蓋を閉めて荷物袋に仕舞い込んだ後、デルマは男の体の傷を診ながら、いくつかの霊薬を取り出して治療を始めた。


「あんた、薬師だったのか。」霊薬を塗られた傷がみるみるうちに治っていくのを見て、男は目を見張った。

「それもかなりの腕前だ。」

「まあね。冒険者は良いお得意様だから、こういう怪我を治す薬は作り慣れてるの。」 傷口に次々と霊薬を塗り込み、治療していくデルマ。

「こんな腕の良い薬師と一緒の道中だったとは、俺も運が良い。俺はマリウス。良かったらあんたの名前も教えてくれないか?」

「私はデルマ。王都で薬屋を開いているわ。霊薬が必要になったら買いに来て。」


「あの眠りの魔法もあんたの仕業か?」傷の治療を受けながら、マリウスが尋ねると、デルマは顔を上げて、ヒルデガルトの方に振り返った。

「あの魔法はその子よ。」

 デルマの視線の先にいる、子供からようやく大人になりかけたといっても良いような可憐な美少女を見て、マリウスは二度驚いた。

「こんな子供が、あれほどの魔法を!不意打ちとはいえ、眠らされるとは思わなかった。」


「申し訳ありませんでした。まだ未熟者ですので魔力の加減が上手くできなくて。」申し訳なさそうに頭を下げるヒルデガルトにマリウスは大きな声で笑った。

「いやいや、いやいや若いのに大したもんだ。俺が寝てしまうくらいの力があれば、灰色狼なんか問題にもならないだろうし、嬢ちゃんの魔法の使い方が一番効率的だ。あとは俺が眠らされないくらい強くなれば万事解決だ。」


 味方を巻き込んでの魔法に苦言を呈していたデルマが普通だろうに、この冒険者は自身の力が足りなかったと言う。常にこういう味方ばかりではないだろうから、もう少し魔法の使い方を勉強しなければとヒルデガルトは心を新たにした。


**********


「この荒野では灰色狼は少ないんで油断していたが、おかげで命拾いしたよ。」

「馬車が転倒して売り物が少し壊れたかも知れないが、命あっての物種。助かったよ。」

「この馬車に乗り合わせたのも神の配剤というもの。神の御加護に感謝します。」

 馬車の護衛であるマリウス、行商人の護衛のテオ、それにヒルデガルトとデルマが灰色狼の襲撃を撃退するところを馬車の陰から見守っていた御者や行商人、巡礼者の夫婦は感謝の表情で4人に口々に礼を述べる。


「まずはみんな無事で良かった。ちょっとドジって怪我をしちまったが、それもそこの薬師先生に治してもらえたしな。」頭を掻きながらマリウスが言うのを聞いて、思い出したようにデルマが口を出した。

「馬車が転倒した時に怪我をされた方がいれば、痛み止などもありますが、大丈夫ですか?勿論お代はいりません。旅は道連れですから。」


 デルマの申し出に御者と巡礼者の夫婦は遠慮がちに打ち身や擦り傷を見せ、デルマは治療薬の軟膏を擦り込んでいった。

 行商人の中年男は、灰色狼の襲撃前にデルマに「自分の身は自分で守れ」とえらそうに言った手前、バツが悪そうにしていたが、事情を知った御者に「途中で具合が悪くなったら逆に皆の迷惑になる」と言われ、小さくなりながら捻った手首と脚の打ち身をデルマに治療してもらった。


「馬車がぶつかった馬はどんな具合かしら?」デルマが御者に尋ねると、馬の様子を見ていた御者が振り返った。

「実はあまり良くない。狼に噛まれた前足の怪我もひどいが、馬車と一緒に転倒した時に後ろ脚を骨折したみたいだ。添え木をして何とか次の街までは行きたいが、今みたいに途中で獣や魔物に襲われたら逃げ切れない。」いつも一緒に仕事をしてきた相棒の馬の怪我に御者の顔が曇った。


「困ったわね。人間用の霊薬がどこまで馬に効くか分からないし・・・」デルマも顎を軽く摘まみながら思案顔になる。


「あのぉ。もしかしたら『治癒』の魔法であれば、種族の隔てなく、少しは良くなるのではないでしょうか?」自信なさげに申し出たヒルデガルトの顔を見つめて、デルマはにっこりと笑った。

「そうね。薬と違って魔法の方が確実よね。もし完全に治らなかったとしても、薬のような副作用や予想外の効果も無い分、安心かも。」

 ヒルデガルトに微笑みかけた後、デルマは御者に向き直った。

「それでどうかしら?」


「そうだな。今より悪くなることが無いんなら、試してもいい。」大切な商売道具であり、長年の相棒でもある馬の背をを撫でながら御者はヒルデガルトとデルマの申し出を受け入れた。

「大事な相棒だ。よろしく頼む。」


「かしこまりました。できるだけのことをさせていただきますわ。」ヒルデガルトは御者に軽く頭を下げると横になっている馬の隣に膝を突き、右の掌で優しく馬の後ろ脚を撫で、骨折箇所を探す。

「こんな大怪我をして、痛いでしょうね。今治してあげるから、少しだけ我慢してくださいね。」

 安心させるように優しく馬に声を掛けながら馬の後ろ脚に触れている掌に魔力を集中させるとヒルデガルトの右手の周りがうっすらと金色がかった白い光に包まれる。

ヒルデガルトが『治癒』と呟くとその光が馬の脚に吸い込まれるように消えていく。

 痛みが消えたのか、馬が嬉しそうにブルルと息を鳴らして、その黒い瞳でヒルデガルトを見つめた。

 ヒルデガルトは自分を見つめる馬の瞳に優しく微笑みかけると頬に振りかかった絹糸のような髪をかきあげ、灰色狼に噛まれた馬の前足の方に体の向きを変える。

 ぶらぶらと力なく揺れる馬の前脚に掌をかざし、『清浄』の魔法をかけると、血や狼の唾液に汚れた傷口がきれいに清められ、赤い肉が現れる。そこには噛み砕かれた骨が白く突き出て痛々しい。

 ヒルデガルトは両方の掌で馬の傷を包み、力強く馬車を引っ張って走っていた脚を心の中に描きながら魔力を注ぎ込む。すると金色がかった白い光が傷付いた前脚を包んだ後、傷口に吸い込まれていった。同時に砕けていた骨が組み合わさりながら、それを新しい肉が包み込み、更に元通りの毛皮に覆われた脚へと姿を変えていく。まるで逆送りの映像を見ているかのような魔法の力に、周りで見ていた御者たちは感嘆の声を上げた。

「おお、これが魔法の力か!」

「神の奇跡を見られるとは何とありがたいことか!」

「大したもんだ。あの怪我をここまできれいに治せるなんて。」


 そんな周りの声など聞こえない様子でヒルデガルトは馬のたてがみを撫でる。

「まだ痛い所はありますか?自分の力で立てますか?」そんなヒルデガルトの呼びかけに応えるように馬は軽く身震いをして前肢で地面を支え、一気に立ち上がった。

 急な馬の動きに驚いたヒルデガルトが横座りのままポカンと馬を見上げていると、馬は元気にヒヒンと嘶き、ヒルデガルトの前に頭を垂れる。

「良かった。元気になったのですね。」安堵の笑みを浮かべながら、ヒルデガルトが目の前の馬の頬を優しく撫でると馬は嬉しそうにその手に頬を押し当てた。


「おお、ノア、良かった、良かった。」御者は涙を流さんばかりに立ち上がった愛馬の首を抱き締めた。

「あんた、大した魔法使いだな。本当にありがとよ。」


「さてさて、馬も治ったことだし、早く出発してもらえないか?こんな荒野で野宿する羽目になるのを想像するとぞっとする。」元気になって調子を取り戻したのか、中年の行商人が騒ぎ出した。

「昼間でもこんな狼の群が襲ってくるんだ。夜になったらどんな魔物がでるか。早く出発してくれ。」


「そうだな。あんたの言うとおりだ。」御者は愛馬との感激の瞬間に水を差され、少しムッとしたかもしれないが、それは顔には出さず、平静に応えた。確かに御者としてもまた獣や魔物に襲われるのは極力避けたいところだろう。


「まずは倒れた馬車を何とかしないとな。マリウス、手伝ってくれ。」御者は倒れた馬車の周りを廻って、壊れた箇所が無いか点検し、屋根に少し割れ目が入ったものの、それほど大きな破損ではなかったことに胸を撫で下ろしながら護衛の冒険者に声を掛けた。


「合点だ。とはいえ、これを起こすのは骨だな。」冒険者のマリウスは馬車の乗客たちにも聞こえるように応え、困り顔で男性の乗客たちに視線を向けた。

「俺たち二人じゃどうにもならねえ。力のある奴は手伝ってくれ。」

「な!乗客にこんな力仕事をさせるつもりか。その分、代金は負けてくれるんだろうな、おい。」行商人は苦虫を噛み潰したような顔で御者の方を見る。

「すまねえなあ。しかし、馬車を戻さないとどうにもならねえんでね。」

 御者が行商人をなだめるように言い、男性陣が揃って馬車を元通りに起こすために押し出した。


「思ったより重いな。」馬車を押しながらテオが愚痴るように呟く。


 横倒しになった馬車を前に悪戦苦闘している男性陣を見かねて、デルマが声を掛ける。

「力任せに押すんじゃなくて、車輪の下を少し掘って、そこを支点にして梃子の原理を使って起こすのよ。」


「ああ、なるほど、それは気付かなかった。」マリウスはデルマに向かって親指を立てると、馬車の修理用に積んでいた板を両手で器用に使って馬車の下の土を掘り出した。


 結局、全ての復旧作業が終わって馬車の旅が再開されたのは、陽が大きく傾いてからだった。この調子だと荒野を抜けられるのは、夜半過ぎになるかもしれなかった。

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