第25話 荒野を抜けて
シュタイン王国の王都ゴルトベルク城から乗合馬車で北に4日ほど進むと辺りは木がまばらに生える荒野が続く。雨が降らない訳でもないが、何故か麦などの作物はおろか木もほとんど生えないことから、国王の直轄領でありながら見棄てられたような土地になっている。
「デルマ先生、ずいぶんと荒涼とした景色が続いてますけれど、どうしてなのでしょうか。我が王国は聖人に護られた緑豊かな大地が広がっているのではなかったのでしょうか?」
馬車の窓から外の景色を興味深そうに眺めながらヒルデガルトが向かいに座っているデルマに質問した。
「この辺りは精霊の力の調和が乱れていて、弱い植物は育たないの。この辺りで生長できるのは、それ自体が魔力を帯びている龍血樹や麒麟草のような植物だけね。」
「精霊の力が?」
「ええ。千年の昔に七聖人によって倒された魔王の体の一部が埋まっているとか、古龍がこの地の土の精霊を食べてしまったからだとか、色々な説があるけれど、未だに解明されていないのよ。」
この道中の初日から、見るもの全てが珍しいヒルデガルトの質問攻めに遭っているデルマは少しうんざりしながらも放り出さずに丁寧に答えており、その様子は薬師としての先生というよりも家庭教師としての「先生」のようだ。
乗合馬車の乗客は、行商人風の中年男とその連れの若い男の二人組、老境に足を踏み入れたばかりの少しくたびれた雰囲気の巡礼者の夫婦、それにデルマとヒルデガルトを合わせた6人で、外の御者台には馬車を操る御者と護衛に雇われた中年の冒険者が座っている。
巡礼者の夫婦は馬車の揺れに身を任せてまどろんでいるようで、首がデルマの方にもたれ掛かってきたり、前の方にうなだれるように下がったりして、時折、むにゃむにゃと言いながらまっすぐな姿勢に戻るが、またすぐに舟を漕ぐことの繰り返しだ。
中年男とその連れの若い男は巡礼者の向こう側に座っているデルマとヒルデガルトが気になるのか、チラチラと視線を送っている。
化粧気が無く、髪も無造作に後ろで束ねただけのデルマと、いかにも良家のお嬢様といった風情のヒルデガルトの組み合わせに少し違和感はあるが、漏れ聞こえてくる話し声から令嬢とその家庭教師が別荘にでも向かっているのだろう、と中年男は勝手に想像していた。
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馬車が荒野を進んでいるうちに陽も高くなり、御者は大きな龍血樹のそばに馬車を停めた。
「ここいらで休憩して昼飯にしましょう。」馬車の方を振り返りながら御者は声を掛け、護衛の冒険者と左右に分かれて御者台から降りて、馬車の扉を両側から開けた。
「うーん。さすがにだるくなるわね。」馬車から降りるとデルマは大きく伸びをして、座りっぱなしで固くなった体をほぐした。
「馬車に乗って、ただ座っているだけですのに、疲れるものですね。」そう言いながらヒルデガルトもデルマの横で体を伸ばす。
「昼飯が終わったら、すぐに出ますんで。早くこの荒野を抜けたいんでね。」御者の男は皆にそう声を掛けると、そそくさと自分の昼食の準備を始め、それを合図に護衛の冒険者や乗客たちも昼食の準備を始めた。
デルマもその辺りに転がっている石を積んで簡単な竈を造り、荷物袋から鍋と炭の粉を固めた燃料を取り出して調理の準備を進めた。それに合わせてヒルデガルトも鞄の中から干した野菜と肉、乾燥させたハーブなどの調味料を取り出した。
「ヒルダ、お願いしていいかしら。」デルマがヒルデガルトに声を掛けると、心得たとばかりにヒルデガルトは『点火』の魔法を唱えて炭の燃料に火を点けるとともに、『水生成』によって鍋を水で満たした。
ここ数日の旅の中でヒルデガルトとデルマの呼吸も合ってきたようだ。
干し肉と野菜のスープができあがると、デルマは木でできたスープ皿とスプーンを二組取り出してスープを盛り付け、さらにパンも取り出して、ヒルデガルトに手渡した。
「さあ、頂きましょう。」そのデルマの言葉で二人の昼食が始まった。スープは干し肉の塩気と野菜の甘味が程よく、ハーブの香りがアクセントになっている。パンは焼いてから日にちが経ってしまったこともあり、少し固くなってしまったが、スープに浸して食べるとちょうど良い具合だ。
屋敷にいた時にはこんな行儀の悪い食べ方などしたことがなかったヒルデガルトだが、旅に出て気持ちを切り替えたのか、マナーを気にしないこんな食事も楽しんでいるように見える。
簡単なものではあるものの、魔法も使いながら手際よく昼食の準備をした女性二人組を感心した目で眺めていた行商人風の男がデルマに声を掛けてきた。
「女二人でこの荒野を通る道程を取るなんて、急ぎの用でもあるのかい?」
「まあね。ちょっと北に行く用があるんだけど、日にちが限られてるのよ。」
デルマは当たり障りなく、目的地や用事に触れることなく返した。
「急いでいるとはいえ、この荒野は盗賊や獣も出る。今からでも街に戻って迂回するのが賢明じゃないか?部外者の俺が言うのも何だが、自分たちの身は自分たちで守るのが旅の鉄則だ。」
「そうね。それは心得てるわ。私も初めての長旅じゃないしね。」
デルマは「初めてじゃない」というところに力を込めて返した。男は暗に「俺たちを頼るなよ。何かあったら遠慮なく見棄てるぞ」と言いたいのだろう。
「まあまあ、おやっさん。女子供が二人で旅してるってのは、何か訳ありなんだろ。いざとなったら、俺がまとめて守ってやらあ。」若い男が腰の小剣を触りながら二人の話に割り込んできた。手伝いの奉公人かと思ったが護衛だったようだ。
「テオ、お前の雇い主は俺だぞ。それを忘れるな。」中年男が軽口を叩く護衛の男をジロリと睨みながら重々しく告げるのを見て、デルマは内心やれやれと溜め息をついた。
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昼食を取った後、一行は再び荒野を横断すべく馬車を進ませた。
見るもの全てが珍しく、ずっと外の景色を眺めていたヒルデガルトも昼食後の満腹感と心地よい馬車の揺れで眠気を催したのか、窓に頭をもたれかけてまどろんでいる。
デルマも睡魔と戦いながら、半分目を閉じて馬車の揺れに身を任せていた。
気だるい空気が馬車の中に流れていたその時、馬車の壁がコツコツコツと何度も叩かれた。
「灰色狼の群がいる。まだ気付かれていないようだから、一気に駆け抜ける。揺れるからどこかに掴まってくれ。」御者が押し殺した声でそう告げ、馬に鞭を入れた。
鞭で尻を叩かれた馬が軽く嘶き、馬車の速度が一気に上がる。
灰色狼は、草原などに棲む大型の狼で雄の成獣だと人間の大人ほどの大きさになる。獰猛で顎の力も強く、魔物を除いた草原の生態系で頂点に位置している危険な動物だ。餌の乏しい荒野で見かけるのは珍しいが、かなり大きな群でどの狼も毛艶が良く、がっしりとしているので、比較的最近になって荒野に入ってきたか、餌を求めて移動している途中なのかもしれない。
窓側の席に座っているヒルデガルトやデルマ、行商人と護衛のテオは壁に体を押し当てるようにして支えたが、真ん中の座席で向かい合って座っている巡礼者の夫婦は掴まるところも無く、馬車の揺れに大きく体を揺すぶられながら、お互いの手を握り合って堪えていた。
「まずい!気付かれた!」御者はそう呟きながら、激しく鞭を入れ、馬車の速度が一段と速くなり、車体の揺れも大きくなる。
灰色狼たちは威嚇するように吠え声を上げながら、一斉に馬車を追いかけだした。
「こ、こんな昼間に、は、灰色狼の群なんて。ついてない。」揺れで舌を噛みそうになりながら行商人は毒づいた。
「おやっさん。外にいる護衛のおっさんと俺で退治してやらあ。」行商人の護衛であるテオがそう言って窓から顔を出し、御者台に座っている護衛の男に声を掛ける。
「おい、おっさん。俺とあんたであいつらを蹴散らそうぜ。」
後ろから威勢の良い声を掛けられた護衛の男は振り向いて怒鳴り返した。
「舐めたこと言ってんじゃねえ。あれだけの数だぞ。逃げられるなら、それに越したことはねえ。」
「ちっ!臆病風に吹かれやがって。」テオは舌打ちをしながら窓から首を引っ込めた。
御者が鞭を振るう回数が一気に増え、馬の尻に血が滲み始めた。馬も灰色狼に追われているのに気付き、必死に駆けていく。
舗装されている訳もない荒野を一直線に走る馬車は大きく揺れ、地面の凹凸で車体が跳ねる。
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どれくらいの時間、馬車は灰色狼の群を引き離そうと疾駆していただろうか。
馬も御者も疲れ果て、馬車の乗客も揺れる車体の中で体を支える力が尽きそうになった頃、1頭の灰色狼が馬に飛びかかり、左の前足にがっちりと噛みついた。
灰色狼たちにしてみれば、餌の少ない荒野で見付けた大事な獲物だ。馬車の行く手を遮るように馬の前を取り囲むように並走し、次々と馬に飛びかかる。
執拗な狼の攻撃に堪えきれなくなった馬は狼を避けようと大きく左に曲がろうとしたが、疾駆してきた馬車は急には曲がれず、馬を巻き込むように横転してしまった。
御者台から放り出された護衛の冒険者がすぐに体勢を立て直し、大剣を横薙ぎにして狼の群を牽制したのは、さすが歴戦の剣士といったところだろう。狼たちももすぐには襲いかからず、隙を伺うように馬車の周りを取り囲んでいる。
「いてて。」馬に乗り上げて傾いた馬車の扉を勢いよく開けて、テオが外に出た。
抜き身の小剣を構えて冒険者の横に立ち、灰色狼の群を見回すと、思わず声を上げる。
「でけえな、こいつら。しかも1、2、3・・・12頭もいやがる。」
「だから言っただろう。逃げ切れるなら逃げた方が良いと!年長者の言うことは聞くもんだ。」冒険者の男は横目で若い男を見ながら大声で怒鳴る。怒っているというよりも、大声で狼を威嚇しているのだろう、声に怒気は含まれていない。
「こいつらは喉笛を狙ってくるから首に気を付けろ!」そう言うと冒険者の男は大きく大剣を振り回しながら狼の群に突っ込んでいき、怯んだ一頭を叩き斬った。
素早い狼を重い大剣で一刀両断にした冒険者を見て、若い男も負けないとばかりに狼に斬りかかる。
「ちっ!外したか。」小剣での一撃をかわされ、テオは舌打ちしたが、すぐさま飛びかかってきた別の1頭の口に正確に小剣を突き立てた。
「へへん!狼は口でしか攻撃できねえから、最後は単純なんだよ。しっかし、奥まで刺さったなあ。」仕留めた狼に足をかけて小剣を抜こうとしながらテオは吐き捨てるように呟いたが、喉の奥にまで刺さった剣を抜くのに手間取ってしまった。
群で狩りをする野生の狼がその隙を見逃すはずもなく、両横から2頭の狼が飛びかかってきた。
1頭に左腕を、もう1頭に右のふくらはぎに噛みつかれ、テオは悲痛な声を上げる。
「痛え、痛えよ!」
2頭の狼に引きずり倒されたテオは、狼を引き剥がそうと小剣を手放した右の拳で狼を殴るが、狼は喰らいついて放そうとはしなかった。
左腕に噛みついた狼が口を放し、肩に噛みつこうとした時、馬車の方から鋭い氷の矢が飛んできて、狼の首筋を貫く。
首筋に矢が刺さった狼は、ギャンと大きな鳴き声を上げて、弾き飛ばされ、そのまま動かなくなった。
続いて飛来した氷の矢がテオの右のふくらはぎに噛みついていた狼の首筋を貫いたが、狼はすぐには絶命せず、しぶとく牙を立てている。テオは渾身の力を振り絞ってその顎をこじ開けて、何とか引き剥がした。
狼の牙からは何とか逃れることができたが、痛みと出血でテオは仰向けに倒れたまま起き上がれそうにない。
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テオが何とか狼の牙から逃れていた間にも残りの狼たちが次々と冒険者の男に飛びかかり、その腕や脚を着実に傷付けていった。
大剣を振るい、狼たちの攻撃をかわしているものの、野生の素早い動きに重い大剣ではなかなか致命傷を与えられない。
「ヒルダ、あの護衛の冒険者を援護して。私はその若いのを治療するから。」
倒れた馬車から這い出たデルマはヒルデガルトにそう命じ、自身は荷物袋からいくつかの霊薬の瓶を取り出した。
デルマに続いて外に出たヒルデガルトは、その白皙の頬や象牙細工のような白く細い指を擦りむいているだけでなく、馬車が横転した際に強く体を打ち付けたのか、全身を痛そうにしながら、足を引きずるように冒険者の方を向く。
しかし、そこに新たな獲物を見付けたとばかりに狼3頭がヒルデガルトとデルマの方に襲いかかってきた。
「きゃっ、来ないで!」ヒルデガルトは襲いかかってくる狼に掌をかざし、狼の鼻っ面に水流を叩きつける。とっさに発動させた魔法だったため、狼を吹き飛ばすほどの威力は無かったものの、怯ませるには十分だったようだ。
デルマはデルマで、霊薬の入った小瓶の蓋を開けて、その中身を狼2頭に振りかける。運悪く、赤い液体が顔にかかった1頭は、苦しそうにキャンキャンと高い声で鳴きながら地面をのたうち回った。
「痴漢撃退用の目潰しだけど、嗅覚の鋭い犬や狼にもよく効くのよねぇ。」小瓶を狼に向けながら、デルマはいたずらっ子のような笑みを浮かべて呟いた。
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