第24話 旅立ちに向けて

 ヒルデガルトが、アルテンシュタットの魔導学院長であるローレンツから魔術の手ほどきを受け始めて一月。ヒルデガルトは一通りの水属性の魔法と治癒や回復などの光属性の魔法をほぼ一人前と言える程度に操れるようになっていた。


「私が教えられるのは、ここまでです。私の属性は火であって、水属性や光属性の魔法については中級でも簡単な物は教えられますが、高度な物については理論上の説明はできても実践的な指導ができなくなります。王都の周辺を散策するのであれば、初歩的な魔法で十分でしょうが、もし本当に北の霊峰を目指すのであれば、水属性の魔導師や聖堂の神官により高度な魔法を習うことをお勧めします。」

 ローレンツは普段の指導の際の厳しさを感じさせない穏やかな口調でヒルデガルトに語りかけた。限られた期間で初歩的な魔法を使いこなせるようになったヒルデガルトはやはり素質があったのだろう。アルテンシュタットの魔導学院に来ることができれば、中級以上の指導ができる教官もいるのだが、王都に住むことを余儀なくされている辺境伯の娘に、それは望むべくもないことであった。


「このような短期間でここまで御指導くださって、心から感謝申し上げます、学院長様。」ヒルデガルトは感謝に堪えない面持ちでローレンツにお辞儀をする。


「まだまだぎこちないところもあるから、日々の修練を怠らず、磨きをかけなさい。初歩的な魔法といえど、上手に使えばそこら辺のごろつきに絡まれたときに自分の身を守るのには十分でしょう。それから ・・・」そう言いながらローレンツは一冊の書物を取り出した。

「これは、王国内と隣国の簡単な地理と旅の心得をまとめたものです。私が修行中の身だった頃に旅をしてまとめたものなので、少し情報が古いですが、参考にはなると思います。」

 白銀の古龍な肉体を探す旅に出ようと目論んでいるヒルデガルトにとって、何よりもありがたい知識が詰まった書物をローレンツは差し出した。

「ありがとうございます、学院長様。旅行そのものの経験がほとんどありませんので、本当に助かりますわ。」ヒルデガルトは両手で押し戴くように書物を受け取り、胸の前で抱き締めた。


 さらに、ローレンツは壁に立て掛けていた少し大きめの古びた背負い鞄をヒルデガルトの前に置く。

「これはかつて私が使っていた旅行用の鞄です。小さく見えますが、『収納』の魔法が賦与されていて、一月分くらいの着替えや保存食、毛布などを持ち運べます。幸い、あなたは『水生成』や『水浄化』の魔法が使えるので水を持ち運ぶのは最小限で済みますし、これがあればかなり身軽に旅することができるでしょう。」

「まあ、そのような貴重な魔法具を頂いてもよろしいのでしょうか?」

「今は使わなくなったので、差し上げますよ。辺境伯のお嬢様にお下がりの鞄は似合わないかもしれませんがね。」

「いいえ。素晴らしい贈り物ですわ。学院長様の旅を支えてきた鞄ですもの、きっと私のことも支えてくださいますわ。」

 満面の笑みでそう応えるヒルデガルトを見て、ローレンツは頭を掻いた。

(こんなに喜んでくれるなら、新品の鞄にもっと大容量の魔法を賦与したら良かったかな。まあ、旅に出るなら何だかんだ言って子煩悩の辺境伯がしっかりとお供をつけるから、そこまで気を回さなくても良いか。)


「一月よく頑張りましたね。ヒルデガルト、あなたが自身の願いを叶え、自らの運命を自らの手で切り拓くことを応援していますよ。」

「ありがとうございます、学院長様。この先、私がアルテンシュタットに足を踏み入れることは無いかも知れませんが、いずれ成長した私をお目にかけることができますことを願っておりますわ。」

 そう言うとヒルデガルトは右足を下げ、膝を折りながらスカートの裾を摘まみ、丁寧に淑女の礼をした。魔導学院長とはいえ、父の部下であり、平民であるローレンツに対しては過大とも言えるものだが、それが師に対するヒルデガルトの心尽くしの礼であった。


**********


 ヒルデガルトは、城壁の中の商店が立ち並ぶ街区にある薬師デルマの店を訪れていた。以前のような巡礼者のような変装ではなく、ごくシンプルな若草色のワンピースだ。春も盛りの好い気候だが、襟元のしっかりした長袖で、スカート部分もくるぶしまで丈があり、肌の露出が極端に少ないところが彼女らしいといえば彼女らしいかもしれない。


「あら、今日はこの間のローブではないのね。」デルマはそう言いながらヒルデガルトを店内に迎え入れた。

「ふふっ。あの白いローブは変装したつもりかもしれないけれど、本当に目立っていたから。」

 デルマがそう思い出し笑いをするのに、ヒルデガルトは赤面した。確かにあの格好は街の中であまりに目立ちすぎて、もし他の人が同じ格好で歩いているのに出会ったら、自分もまじまじと見てしまうかもしれない。


「それで、今日はどんな御用?」

「少しお伺いしたいことがありますの。デルマ先生は、霊薬の素材をお探しになるために遠くへ旅されることは多いのでしょうか?」

「そうねえ。一般的な素材は卸から仕入れるし、少し珍しい物は冒険者ギルドに依頼することもあるけれど、判別が難しい物は冒険者の人に護衛をしてもらいながら自分で探しに行くわ。季節ごとに行くので年に4回くらいだけど。」

 ヒルデガルトの質問に、デルマは少し考えるように顎に指を当てながら答えた。


「まさかと思うけど、龍の素材を自分の手で探すことにしたのかしら?」

「デルマ先生や冒険者ギルドの副長様のお話を伺って、何でも人を頼っていてはいけないと思いましたの。」

「でも、貴族の人は旅行するのに色々と制約があるんでしょ?遠くと言っても限界があるんじゃないかしら?」


「それはそうなのですが・・・」眉を曇らせながらヒルデガルトは言い淀んだ。世間知らずの自分が、王都に住まなければならないという辺境伯の娘としての制約を脱して旅をするのは無謀なのだろうか。

「幸い、まだ社交界でのお披露目も済ませておらず、私のことを実際に知っている人はほとんどおりませんので、身代わりを立てて外に出られないかと。」


(あらら。お嬢様は冒険者の物語の読み過ぎじゃないかしら。影武者なんて、そもそも父親の辺境伯が許さないでしょう?)半ば呆れながらもデルマは口さら出てきたのは別の言葉だった。

「それで、外に出られたとして、ヒルダはどこに行くつもりなのかしら?」

「北の霊峰シュピッツェですわ。」

「シュピッツェ!」

 目の前の可憐な少女の口から、白銀の古龍が棲むという伝説を持つ雪と氷河の霊峰の名が告げられ、デルマは驚いて山の名前を繰り返した。


「ヒルダ、あなた、白銀の古龍を探しているの?」

「はい。エオ・・・ではなくて、アデルハイドを探しています。」

「白銀の古龍は伝説上の存在であって、少なくともこの3百年はその姿を見た者はいないと言われているわ。手っ取り早く古龍を探すなら火の山の赤き古龍の方が手がかりが色々とありそうだけど、そちらじゃダメなの?」

「親友が力と記憶を取り戻すためには、どうしても白銀の古龍の素材が必要なのです。」


「で、わざわざここに来たのは、遠征に出る際に持っていく霊薬を買いに来た・・・訳ではなさそうね。」そう言ってデルマはヒルデガルトの瞳を覗き込んだ。まるで心の奥底まで見通そうとでもするかのように。


「あ、あの。もし霊薬の素材を探しに北にいらっしゃるのでしたら、途中まででもご一緒させていただけないでしょうか?」

 唐突という単語がぴったりと当てはまるかのように、少し声を上ずらせながらヒルデガルトはデルマに対して切り出した。

「これから夏に向かう季節ですし、もしかしたら北の山脈の雪解けに合わせて素材を採りにいらっしゃるのではないかと・・・」

 そこで言葉を切って、ヒルデガルトは少し上目使いになりながらデルマの返答を待った。


(ヒルダ、この子、ほかに旅に出そうな知り合いがいないからと言って、あまりに唐突過ぎるわね。目の付け所は悪くないけど、人を信用し過ぎ。私とはまだ2度しか会っていないのに、何で簡単に旅のお供に選ぶかなぁ。)

 半ば呆れながらデルマはヒルデガルトを見つめ返し、二人の間に微妙な沈黙が流れる。


「あぁ、もう!」先に沈黙を破ったのはデルマだった。

「そんな迷子になった子犬みたいな瞳でこっちを見ないで。分かった。分かったから。」

「デルマ先生のお供に加えていただけるのですか?」

「いつもなら、行商人にお願いして、山の民から決まった薬草を買ってきてもらうだけだけど、今回は特別にほかに面白い素材がないか調べにいくわよ。」

「ありがとうございます!」

「でも、行くのはシュピッツェの麓の町までだからね。あの山はよそ者の立ち入りを厳しく制限しているから。」

「足を引っ張らないように頑張りますので、よろしくお願いいたします。」


 こうして、どたばたとデルマとヒルデガルトの霊峰へと向かう旅が行われることになった。


**********


「シュピッツェの麓の町シュネーベルクまで順調に行って片道15日、町に3日滞在して帰ってくると33日。余裕を見て35日、一月余りの旅になるけど、荷物はどうするつもり?」

「幸い、魔術の先生から旅の手引きを頂きましたので、早速準備しようと思ってますの。」

 にっこりと微笑みながらヒルデガルトは答え、少しくたびれた感じの書物を背負い鞄から取り出した。


「一月分の荷物よ。着替えや保存食、水袋、霊薬、護身用の武器その他諸々を揃えたらかなり嵩張るけど、そんな大荷物でお屋敷を抜け出せるのかしら?」少し意地悪な気持ちでデルマは尋ねたが、ヒルデガルトは満面の笑みでくるりと回って、デルマに背中を向けながら振り返った。

「『収納』の魔法がかかった背負い鞄を魔術の先生に頂きましたの!」


「それはそれは。ずいぶん気前の良い先生ね。」

嬉しそうに鞄を見せるヒルデガルトを微笑ましげに眺めながらデルマは言った。


「はい!先生が冒険者をされていた頃に一月分くらいの荷物が入るそうです。」

「そう。まあ、今回は馬車を乗り継ぎながら街道を進むし、夜は街の宿に泊まって本格的な野宿はしないから、それだけ荷物が入る鞄があれば十分ね。じゃあ、この際、外に旅の装備を買いに行きましょうか。長旅に向いた服や着替え、簡単な調理器具なんかもあると便利よね。」

「はい。よろしくお願いいたします!」

旅行が楽しみでたまらないといった風情で、ヒルデガルトはデルマに頭を下げた。


**********


(お父様、ヒルデガルトは白銀のアデルハイドを探す旅に出ます。しばらくの間は侍女のハンナが身代わりとして私の不在を誤魔化してくれましょう。早ければ一月、遅くとも秋には、秋の王宮でのお披露目までには戻ります。)

 夜明け前のまだ闇に包まれた頃、ヒルデガルトは簡素な若草色のチュニック姿に『収納』の魔法がかかった背負い鞄を背負って、そっと部屋を抜け出した。


 体のいい人質として、王都に留まることを求められている自分が王都を抜け出すことで、父である辺境伯に多大な迷惑をかけるかもしれないとの危惧はある。

 一方で、自らを縛る王国の因習から自由になる解放感、更には偉大な古龍との約束を果たさなければ、自身はおろか家族や領地さらには国までも災厄に見舞われる、自分はその恐れを取り除くという使命を果たすのだという高揚感もある。


「万物の理を司る魔力よ、柔らかな霧となりて、安らかな眠りをもたらせ。」ヒルデガルトは寝ずの番をしている使用人や警備兵を眠らせようと魔法を唱え、廊下を『眠りの霧』で満たした。


(皆さん、ごめんなさい。風邪など召されませんように。)ヒルデガルトは心の中で謝りながら、壁にもたれて眠っている警備兵たちに厚手の布を掛けて、廊下を進んでいった。


 カチャリ、と玄関の扉の鍵を外し、そっと扉を押し開けたヒルデガルトは、扉の隙間から滑り出るように外に出た。

 空は一面に星が瞬き、背後の屋敷は深い眠りに落ちている。庭の先にある門の明かりが目に眩しい。

 門番として立っているのはコールだろうか?

 平民とはいえ、アルテンシュタットでも指折りの槍の使い手だったコールに果たして自分の魔法が通用するのか、少し不安はあるが、ここまで来ればやらざるを得ない。ヒルデガルトは覚悟を決めて軽く息を吸い込み、精神を集中した。


 夜霧とは異なった乳白色の濃い霧に包まれるとコールは糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。

(大丈夫かしら。頭を打ったりされていないかしら?)そんなことを考えながら、ヒルデガルトは門番の詰所に近づいた。

 コールは壁を背にずり落ちるように床に座って眠ってしまったようで、幸い怪我などはしていなさそうだ。

 ヒルデガルトは背負い鞄から厚手の布を取り出してコールの肩に掛けると、足音を忍ばせて門の横に設けられた小さな扉をくぐり抜け、まだ闇に包まれている街の方へ消えていった。


**********


「これでよろしかったでしょうか?」

 屋敷の外に出たヒルデガルトが見えなくなると、コールはおもむろに目を開き、立ち上がって門の横にある木の陰に向かって声を掛けた。

「ご苦労。猿芝居に付き合ってもらって悪かった。」そう言いながら木陰から姿を現したのは、この屋敷の主であるヨーゼフである。

「いえ。危うく本当に寝こけるところでした。魔法への耐性には自信があったのですが、お嬢様の魔力は大したものです。」

 やられたな、といった感じでコールがヒルデガルトの魔法を褒めると、ヨーゼフは少し口を曲げ、機嫌が良いのか悪いのか分からない複雑な表情になった。

「あの子は、その力の使い方もよく知らなければ、世間の事にも疎い。こんなことになるのなら、もっと外の世界を見せておけば良かったか・・・」


「お嬢様の旅に同行するデルマとかいう薬師は信用できるのですか?」

「うむ、冒険者組合のゲルハルトによれば、デルマとやらは信用できそうだ。あとはハンナを替玉にしてどこまで王宮を騙し通せるかだな。」

「ハンナは顔を蒼くするでしょう。お嬢様の替玉と聞いて卒倒しないか心配です。」

 確かに己の何も知らないところでヒルデガルトの替玉にされることになって、ハンナはいい迷惑だろう。

 朝、ハンナがどんな反応をするか想像して、ヨーゼフとコールは互いに顔を見合わせて苦笑した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る