第6話 【閑話】エレオノーラ
エレオノーラ・フォン・ミュールハイム。
シュタイン王国の財務卿ヴィリバルト・フォン・ミュールハイム侯爵の一人娘である。
ミュールハイム侯爵家はシュタイン王国の建国王レオポルトに仕え、王国の基礎を築くのに多大な功績のあった初代ミュールハイム侯クラウスから20代を数える名門貴族である。
ヴィリバルトは、早くに先代の父を亡くし、若くして侯爵家を継いだ後、大貴族にしては珍しく王宮に出仕し、文官として頭角を現した切れ者で、侯爵という家柄も手伝って、40歳手前で財務卿に就任した。
シュタイン王国において、公爵や侯爵の大貴族は官職を持たず、王宮顧問や元老として王国の重大事項の決定に関与する以外は、広大な領地の経営と領軍の錬成に励むのが伝統とされてきた。大貴族の領地はそれ自体一つの小国家とも言って良い規模を持ち、王宮に出仕する余裕が無いということもあるが、細々とした行政官吏が携わるようなことに大貴族が煩わされるべきではないという、ある種の偏見や自尊心が働いていたことも関係している。
このため、これまで伯爵家と有力な子爵家が行政や軍事の実務を司る卿(大臣)に就任してきており、文官の内務、外務、財務、農務、工務、文務と軍人の軍務、魔導の合計8名の卿が王国の行政と軍政を実質的に動かしている。
このうち、軍人の2卿は辺境伯爵家の4家の当主が交代で務め、文官の6卿はその時々の優秀な伯爵家、子爵家の当主が就任してきた。
子爵家の中には、公爵家や侯爵家の次男や三男が叙爵されて立てた家もあり、その意味では公爵や侯爵といった大貴族の血縁が卿に就くこともあるが、侯爵家の当主が卿となったのは、この二百年でヴィリバルト・フォン・ミュールハイム侯爵ただ一人である。
ヴィリバルトは早くに父を亡くし、領地を国王の代官に任せながら王宮に出仕したこともあって、大貴族の型に収まりきらないところがあり、娘のエレオノーラもその血を引き継いだのか、それとも父ヴィリバルトの放任的な教育方針の賜物か、かなり自由な考え方と少し向こう見ずな行動力を持った少女に育ち、侍女たちの目を盗んでは屋敷を抜け出し、城壁の外にまで遊びに行くお転婆ぶりを発揮している。
先日の聖フリューゲルの日の祝祭の折には、エレオノーラがアルテンシュタット辺境伯家の令嬢を城壁の外に連れ出し、酔っ払いに絡まれるような怖い目にあった、と冷や汗を流し恐懼する執事から報告を受けたが、ヴィリバルトは眉一つ動かさず、「エレオノーラが怪我無く戻り、アルテンシュタット家の令嬢が無事に帰宅したのであれば、騒ぎ立てる必要はない。」と言って、執事や侍女たちを一切咎めなかった。
その後、重々しい声でエレオノーラを呼び出し、叱られるのかと恐る恐る書斎に入ってきたエレオノーラに重々しく「祝祭の土産は無いのか?」と言って、露店で買ったクッキーを出させ、侍女たちにお茶を入れさせて、エレオノーラと一緒に食べた時には、さすがにエレオノーラも驚いた。
「お父様、私を叱らないのですか?」頭を下げながら父の叱責を覚悟していたエレオノーラは、ヴィリバルトが城壁の外で買った土産を出せと言ってきた時に思わず問い返した。
「お前もアルテンシュタット家の令嬢も無事に家に戻ったのに、何を叱ることがある?お前もアルテンシュタット嬢も今年で15歳。立派な大人だ。その判断で城壁の外に出ることはかまわない。お前自身が怪我をしたり、アルテンシュタット嬢に怪我をさせるようなへまをしたら、そのときは激怒したかも知れないが。」顔色一つ変えず、さらりと応えるヴィリバルトを見て、エレオノーラはとても敵わないと思う。
「実は・・・」紅茶の入った茶碗を卓に置きながらエレオノーラは父に話しかけた。
「実は聖フリューゲルの日、城壁の外で酒に酔った男たちに絡まれて、ヒルダが転び、足を挫いてしまいました。」
「何?」ヴィリバルトの右の眉の端が少し上がった。
「アルテンシュタット嬢が足を挫いたのか?」父の冷厳な声が響き、エレオノーラは部屋の温度が下がったかのように、感じられた。
「はい。それで二人で慌てて逃げて、家の馬車を使ってヒルダをアルテンシュタットのお屋敷までお連れしたのですが、なぜか不思議なことに挫いて赤く腫れ上がっていたはずのヒルダの足は私が馬車を連れて城壁の外に戻った時にはきれいに治っておりました。」父の威厳に気圧されながらも、エレオノーラは聖フリューゲルの日の顛末を報告した。
「ふむ。アルテンシュタット家は治癒術を使える家系ではなかったと記憶しているが、王家の血が混じって力を得たのか。」
「それが、ヒルダも記憶が無く、うたた寝をしている間に腫れが引いていたと言っておりました。」
「そうか。治癒術ではなく、回復の力を持っているのか、それとも妖精に気に入られたか・・・」
ヴィリバルトは腕組みをして少し考える素振りを見せたが、すぐにエレオノーラに向き直った。
「いずれにせよ、アルテンシュタット嬢に怪我をさせてしまったことはお前の失敗だ。アルテンシュタット辺境伯は令嬢をことのほか可愛がっていると聞く。もし怪我が治っていなかったら、我がミュールハイム侯爵家とアルテンシュタット辺境伯爵家の対立にも繋がりかねなかった。」
「そんな。家の対立にまで発展するなんて・・・」父の厳しい物言いにエレオノーラは言葉を失った。
「もし、逆にお前が怪我をさせられて帰ってきていたら、私は相手の家に怒鳴りこんでいただろう。愛する娘を想う男親というのはそういうものだ。」
「お父様・・・」
「私は早くに父を亡くし、お前よりも小さな歳から自らの足で立つことを余儀なくされた。だからこそ、お前にも自らの足で立ってほしいと自由にさせている。だが、そのことは度を越えた危険や怪我を許容するものではない。ましてや他家の人間に迷惑をかけることは許されない。そのことは忘れないでおきなさい。」最後にふっと優しさを帯びた父の声にエレオノーラは思わず頭を下げた。
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