第5話 契約

(何と美しい生き物なのかしら!)

 ヒルデガルトは、目の前で人の頭くらいの大きさだった白銀の生き物が光を放ちながら瞬時に自分と同じ大きさにまで大きくなる様に心を奪われ、噛まれた指の痛みも忘れていた。


 白銀の生き物が背中にある一対の翼を広げ、軽く羽ばたくと、広間の中に白銀の鱗粉のように煌めく光の粒が舞う。


「ヒルデガルト、あなたはどうしてここにいるの?。」白銀の生き物は長い首をもたげ、ヒルデガルトの正面から瞳を覗き込むようにして尋ねた。


(え?なぜ、この龍は私の名前を知っているの?)ヒルデガルトは目の前の神々しい生き物から突然名前を呼ばれ、当惑した。


「私はお城の外の森の中で不思議な声に呼ばれ、その声に導かれて、ここに辿り着きました。あなたが呼んだのではなかったのですか?」ヒルデガルトは白銀の生き物に対して、自らがここに辿り着いた理由を隠さずに話した。


「いいえ、私は、少なくとも今の私自身は呼んでいないわ。もしかすると私の影の声があなたを導いたのかも知れないわね。」

「あなたの影、ですか?」白銀の生き物の言葉にヒルデガルトは混乱し、問い返す。

「そう、私の影。生まれ変わる前の私が残した思念と言ったら分かるかしら。」

「生まれ変わる前の思念・・・」謎かけのような答えにヒルデガルトはますます訳が分からなくなった。


 ヒルデガルトは謎かけのような話をひとまず横に置いて、分かるところから話を進めようと考えた。


「改めまして、私はヒルデガルト・フォン・アルテンシュタットと申します。」ヒルデガルトは両手でスカートを摘まんで裾を持ち上げて膝を折る、正式な礼をしながら自らの名を名乗った。


「ええ、知っているわ。ヒルデガルト、素敵な名前ね。」もし、白銀の生き物の表情が分かれば、それはきょとんとした表情だっただろう。なぜ、知っている名前を改めて名乗るのか?


「どうして、あなたは私の名前をご存じだったのですか?」

「さっき、あなたの血を舐めたでしょ、それであなたの事が分かったの。人間にはそういうことはないの?」自分たちにとって当たり前の事だとばかりに白銀の生き物は答える。


「そういえば、さっきは突然噛みついたりして、ごめんなさい。まだ、血が出てるわね。指を見せて。」申し訳なさそうな声にヒルデガルトは首を振った。

「少し痛かっただけだから、大丈夫ですわ。いきなり触ろうとして、あなたをびっくりさせてしまって、私の方こそ申し訳ありませんでした。」

「怪我をさせたのは私。だから、指を見せて。」白銀の生き物がこれだけは譲れないとばかりにお願いしてくる勢いに押されて、ヒルデガルトは手を差し出した。


 白銀の生き物がチロリと細い舌を出してヒルデガルトの指の傷を舐めると、傷が跡形も無く消え去った。

「ありがとうございます。」素直に礼を述べるヒルデガルトに、白銀の生き物は嬉しそうに応えた。

「きれいな肌に戻せて良かったわ。」

(それにまた素晴らしい乙女の血を摂り入れられたし。)


「人間は血を舐めたりすることで、色々な事を知らせ合う能力は持っておりませんの。ですので、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」ヒルデガルトはごく柔らかな調子で白銀の生き物に名前を聞いた。


「うーん、そうねえ、かつてはアデルハイトと呼ばれていたようだけど、今はまだ名を持っていないの。」

「それは、先ほど生まれ変わったとおっしゃっていたことと関係があるのでしょうか?」

「そうよ。かつて私たち古龍以外の種族を跪かせた名をそのまま名乗るなんて無粋じゃない?」


 アデルハイト。それは様々な伝説やおとぎ話に登場する白銀の龍の名前である。極北の霊峰に住み、ときに人の世界に舞い降り、英雄を助けると言われている。


(白銀のアデルハイト。まさか伝説の龍がどうして?)伝説の龍の名を持っていたという存在を前にして、ヒルデガルトは言葉を失った。


「私たち古龍といえど永遠の生命を持っている訳ではないの。肉体は長い時を経て衰え、そして死を迎える理から離れることはできない。なので私たち古龍は何千年かに一度生まれ変わり、新たな肉体を得る道を選んだの。あなたたち人間と違うのは、肉体は生まれ変わっても記憶が引き継がれていくこと。でも・・・」白銀の子龍は困惑したように言葉を区切った。


「なぜ、私はこんな場所で生まれ変わったの?私のかつての体はどこにあるの?」

白銀の子龍は信じられない、といった面持ちでヒルデガルトに話しかけた。


「かつての体・・・」

 龍といえば、その牙、鱗、皮、角、骨に至るまで武器や防具、術具、霊薬の素材として珍重され、冒険者はもちろん、騎士や貴族さらには王族までもが危険を顧みず、あるいは大枚をはたいて手に入れようと躍起になる。亜龍種と呼ばれる飛竜や水竜の鱗や牙でさえ高値で取引されているというのに、それが古龍の物となれば城の一つも建つかもしれないくらいの価値がある。

 そうした物に関心が無かったヒルデガルトでさえ、莫大な富と力をもたらす古龍の肉体が残されているかもしれないということに驚嘆と興味を禁じ得ない。


「おぼろげに覚えている遠い記憶では、私たち古龍は生まれ変わりの時、新たな生命の塊を古い肉体で護りながら生命の灯火が消えるはずなのに。」白銀の子龍は受け継がれてきた記憶の糸を手繰り寄せるように遠い目をしながら呟いた。


「あの。」ヒルデガルトは困惑して見える白銀の子龍におずおずと話しかけた。

「あなたは白銀のアデルハイトの生まれ変わりとおっしゃいましたが、ご自身がどこに行ったのか、思い出せないのですか?」

「生まれ変わった肉体に宿るのは、新たな霊性、魂といっても良いけれど、であって、生まれ変わっただけでは全てを引き継いでいるわけではないの。」

 白銀の子龍は諭すような口調でヒルデガルトの質問に応えた。


「もし、私がアデルハイトやそれ以前の古龍の記憶を引き継いだとしても、アデルハイトやそれ以前の龍とは別の存在なの。そして、記憶と能力を引き継ぐためにはある儀式を行わなければならないのよ。だからこそ、古い肉体は新たな肉体のそばになければ・・・」


 うなだれた白銀の子龍にヒルデガルトはそっと語りかけた。

「古い肉体はあなたにとって、とても大切な物なのですね。人間や魔物にとって龍の肉体は貴重な資源として争奪の的にされてしまいます。そうならぬうちに、あなたが先に見つけられるよう、私もお手伝いさせていただきますわ。私のお父様にも助力をお願いできると思います。ですから、落ち込まないでください。」


「ありがとう、ヒルデガルト。そう言ってもらえるだけで嬉しいわ。あなたは清らかな魂の持ち主だから信用できるけれど、ほかの人間を巻き込むのは心配。人間は欲に目が眩むとすぐに裏切るから。」白銀の子龍は首を振って残念そうにヒルデガルトの申し出を断った。


「分かりました。では、まずはあなたのことは明らかにせずに龍に関わる情報が無いか、お父様の所に集まる情報や様々な噂などを集めてみましょう。」


「そうね。あれだけ大きな物だから、隠そうとしても何か噂などが出回るかもしれないし、手伝ってもらえると助かるわ。」白銀の子龍は頭を上げてヒルデガルトを見つめた。


「ヒルデガルトにお願いがあるの。」白銀の子龍はヒルデガルトを見つめながら話しかけた。


「私に名前をつけてくれない?」

「名前、ですか?」

「そう、名前。さっきも言ったけれど、私はまだ自分の名前を持っていないの。私を殻から出してくれたヒルデガルトに名前をつけてもらいたいのだけど、ダメかしら?」


「分かりましたわ。そうですね・・・」ヒルデガルトは白銀の子龍をじっと見つめ、華奢な頤に指を当てて、しばらく考えた。


「エオストレはいかがでしょうか?古い言葉で春の女神を意味しています。あなたが生まれ変わった今日はまさに春の始まりの日ですし。」にっこりとした笑顔でヒルデガルトは白銀の子龍に尋ねた。


「エオストレ・・・そうね。良い名前ね。私は今日からエオストレよ。」そう言って、エオストレは首をもたげ、嬉しそうに「クルル」と喉を鳴らした。


「ヒルデガルト、もう一つ大切なお願いがあるの。」エオストレは改まった口調でヒルデガルトに話しかけた。


「あなたは私に名前を与えてくれて、さらに私はあなたの血をもらったわ。名前を与えられたことによって、私はあなたに縛られることになり、血をもらったことで体と体が半分繋がっているの。」

「え!伝説の古龍であるエオストレ、あなたと私が繋がっているとは、どういうことなのですか?」エオストレの言葉に驚いたようにヒルデガルト聞き返した。

「名前は心を縛り、血は肉体を縛る。でも、まだ完全ではないの。今の状態はヒルデガルト、あなたにとって非常に危険な状態なの。」

「危険、ですか?」

「そう、血の契りがまだ不完全であなたと私の間の力が一方通行になっているの。」

「血の契り?不完全?」ヒルデガルトはエオストレの言っていることの訳が分からず、エオストレの言葉をただ繰り返した。


「分かりやすく言うと、力が一方通行のために、私が傷つくと、あなたも傷ついてしまう状態になっているの。さらに私はあなたの力を私のものとして使うこともできる。でも、あなたはあなたのままだから、私なら平気な怪我でもあなたにとってはとても危険なものだし、私があなたの力を根こそぎ使ってしまうおそれもあるの。」

「一方通行?危険?」

「だから、あなたと私の間で双方向に力が流れるようにする必要があるの。」

「・・・」

 ヒルデガルトは訳が分からず、声が出ない。


「私が誰かに攻撃されて、体を傷つけられたら、その傷はヒルデガルト、あなたにも同じような傷がつくの。その傷がもし大きかったら、命にも関わるおそれがあるの。そうならないために、あなたに私の力を分け与えておく必要があるのよ。」


「あなたが傷つけば、私も傷つく・・・」半信半疑の目でヒルデガルトはエオストレを見つめた。


「とにかく、試してみれば分かるわ。」疑いの眼差しを向けるヒルデガルトに分からせようと、エオストレは自らの右の前足に牙を立てた。


「痛い!」エオストレが自らの前足に牙を立てた瞬間、ヒルデガルトは右腕に鋭い痛みを感じ、腕を押さえた。恐る恐る痛みを感じた場所を見ると、龍の歯形に血が滲んでいる。


「分かってもらえたかしら?元はと言えば、最初に私があなたに噛みついてしまったのがいけなかったんだけど、こういう状況になってしまったことは変えられないから。」そう言いながら、エオストレは自分で噛みついて血が滲んでいる前足をヒルデガルトの目の前に差し出した。


「さあ、この血を舐めて。」

 有無を言わせない気迫を込めた声にヒルデガルトは泣き出しそうな表情でエオストレの目を見つめた。


「どうしても?」ためらうヒルデガルト。

 それはそうだろう。いくら神聖な龍といえど、その血を舐めるとどんな影響が出るのか分からず、不安を感じるのも無理はない。


「あなたを守るために必要なの。」そう言って、エオストレは白銀の鱗に深紅の血が滲む前足を優しくヒルデガルトの手に乗せた。


「エオストレがそこまでおっしゃるのでしたら。」ヒルデガルトは意を決して、エオストレの前足を手に取り、その傷にそっと口づけた。


「汝ヒルデガルトと我エオストレは血の契りを結ばん。」エオストレがそう告げるとヒルデガルトとエオストレは一瞬白銀の光に包まれた。


**********


 古龍の血。それは数千年を生き長らえる古龍の力を宿す。不老長寿を求める王侯貴族や永遠の若さを手に入れるために世の女性が血眼になって探し求める霊薬。

 それを飲んだ者は龍の生命力と魔力を手にし、伝説では古龍の返り血を浴びた勇者が不死身の体を手に入れたと言われる。


 伝説の白銀の古龍アデルハイトの生まれ変わりであるエオストレの血を口にし、血の契りを結んだヒルデガルトはまばゆい光の中で体の奥底から温かな力が湧き上がってくる感覚に包まれる。


 長く美しい髪がふわりと持ち上がり、恍惚の表情を浮かべたヒルデガルトを見て、エオストレは嬉しそうに囁いた。

「私たち、相性がすごく良かったみたい。あなたの血は私に大きな力をもたらし、私の血はあなたにすんなりと受け入れられたようね。」


 エオストレは、陶然として倒れそうになるヒルデガルトを長くしなやかな尾で支え、自らの額をヒルデガルトの白い額に優しく押し当てた。


「あっ!」雷に打たれたかのように、ヒルデガルトは体を硬直させた。頭の中に奔流となって押し寄せる莫大な記憶がヒルデガルトの精神を圧迫する。それはまだ靄がかかったかのような朧気な塊であったが、それでも15年も生きていないヒルデガルトが持つ知識や記憶の何十倍もの量になる。


「まだ、全ての知識を受け入れられるほど成長はしていないようね。こんなに若いのだからそれも当然かしら。」そう呟くとエオストレはヒルデガルトから額を離した。

意識を失ったヒルデガルトが崩れ落ちそうになるのを、エオストレは長い首としなやかな尾で優しく受け止め、その場に横たえた。


「強く、賢く成長してね。私が継承の儀式を終えれば、今よりもはるかに強大な力と膨大な知識があなたに流れ込むのだから。」エオストレは慈しむような声でヒルデガルトの耳許で囁くと、嬉しげに翼を羽ばたかせ、煌めく光の粒子をふりかけた。


**********


「う、うん・・・」小さく息を漏らして、ヒルデガルトは目を覚ました。


(ここは・・・)周りを見回すと、そこはエレオノーラと別れた後に座っていた林の中の樫の根元だった。


(エレオノーラを待っている間に眠ってしまったみたいね。)空を見上げると、陽の光が明るく射し込んでいる。まだ、それほど時間は経っていないようだ。


(不思議な夢でしたわ。白銀のアデルハイトが現れるなんて。)ヒルデガルトは白銀の古龍の生まれ変わりであるエオストレに噛まれた指先を見た。そこには傷一つ無く、滑らかな指先があるだけだ。


(やはり、夢でしたのね。)そう思いながら、ふと足元に目を向けた。

(あら?足の痛みが引いているわ。)挫いた後に走ったためにかなりの痛みがあったはずのに、それが消えてしまったことを不思議に思って、ヒルデガルトはそっとスカートの裾を上げて足首を見る。


「え!」ヒルデガルトは思わず声を上げる。先ほどまで赤黒く腫れていたはずの足首が普段のすらりとした姿に戻っていた。


**********


「ヒルダァ、どこにいるのー!」林の外からエレオノーラが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

「迎えに来たわよー」


「エレオノーラ、こちらにおりますわ。」返事をしながらヒルデガルトは立ち上がり、林の入り口に向かって歩きだした。


「良かった、ヒルダ。無事で本当に良かった。あの酔っ払いたちは来なかった?」エレオノーラは安堵の声を上げながら、ヒルデガルトの両肩に手を置いて揺さぶった。


「ありがとうございます、エレオノーラ。わざわざ馬車を呼んできてくださって。」ヒルデガルトは笑顔を浮かべ、お礼を言う。


「私は大丈夫ですわ。少し休んだら、元気を取り戻せましたし。それよりも、エレオノーラがせっかく楽しみにしていた聖フリューゲルの日の祝祭でしたのに、私のせいで。」

「何を言っているの、ヒルダ。悪いのはあの酔っ払い。あなたが謝ることじゃないわ。」申し訳なさそうに謝ろうとするヒルデガルトの言葉を遮ってエレオノーラは首を振った。


「それよりもヒルダ。あなた、足は大丈夫なの?さっき見た時はずいぶん腫れていたけれど。」

「それが、不思議なことに休んでいたら腫れも引いてきて、痛みも治まってきましたの。」

「え!かなり赤く腫れていたけど・・・」

「ほら、見てくださいな。」そう言ってヒルデガルトはスカートの裾を少しだけ持ち上げて、挫いていたはずの足首を見せた。


「本当に!お薬なんて持ってきてなかったわよね。不思議なこともあるものだわ。もしかしたら、ヒルダがあんまりにも可愛いから妖精が魔法で治してくれたのかも。」エレオノーラは冗談めかして軽く探りを入れてみた。

「それが全く心当たりがありませんの。うたた寝をしてしまったみたいで、夢の中で不思議な方にお会いしたのですけれど。」ヒルデガルトは頬に軽く手を当てて、首をかしげた。


「え!あなた、林の中で眠っていたの?危ないじゃない!」うたた寝という言葉にエレオノーラは敏感に反応した。

「もしかしたら、うたた寝をしている時に、親切な村人が手当てしてくれたのかも知れないけれど、それが悪い人だったらどうするの!」

「ごめんなさい。」エレオノーラが心から心配してくれていることが分かるからこそ、ヒルデガルトは小さくなって謝った。


「本当に気を付けるのよ!」素直に謝るヒルデガルトに少し拍子抜けした感じでエレオノーラは釘を刺した。

「何にせよ。まずはヒルダのお屋敷に戻りましょう。ヒルダのお父様がお城から帰ってこられる前に。」エレオノーラはそう言ってヒルデガルトの手を取り、連れてきた馬車へと歩いていった。


ふわり。

 ヒルデガルトの長い髪が風に揺れると、二人の少女の後ろに白銀にきらめく鱗粉のような光が舞った。陽の光に紛れて、それに気付く者はいなかったけれど。

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