第4話 邂逅

「彼女」は、温かな「何か」の中をまどろみながら漂っていた。周りに光は無い。しかし、闇にもし硬さがあるとすれば、それは柔らかな闇であったろう。

夢でも見ているのだろうか、「彼女」は時折、微笑みを見せながら静かに浮かんでいた・・・


**********


「はぁ、はぁ。」ヒルデガルトとエレオノーラは人波を避けて、城壁から少し離れた森のそばまで走ってきて、ようやく足を止めた。


「あいつら、追いかけてこないようね。ヒルダ、大丈夫?」

「あ、ありがとうございます。一人だとあのまま無理矢理お酒を飲まされていたところですわ。はぁ、はぁ。」ヒルデガルトは汗ばんだ額に白金の髪を数本張り付けながら、エレオノーラに礼を言う。


「聖人の日で浮かれるのは分かるけれど、それにしてもまだ昼にもならないうちからあんなに酔っぱらうなんて、これだから下賎の者は!」エレオノーラは自分も浮かれて、ヒルデガルトを置いて行ってしまったことを棚に上げて、憤懣やる方無いといった調子で吐き出した。


「ともかく、ヒルダが無事で良かったわ。振り返ったらついてきていないから迷子になったのかと思ったわ。」

「心配をかけてしまって、ごめんなさいね、エレオノーラ。人混みはあまり得意ではなくて。」しょんぼりと申し訳なさそうにヒルデガルトは頭を下げる。


「いたっ!」安心したら挫いた足の痛みが戻ってきたのか、ヒルデガルトは眉をひそめ、白くほっそりとした手を木に添えて体を支えながら、その場に腰を下ろした。


「だ、大丈夫?あいつらに何かされた?」エレオノーラは慌ててしゃがみこんでヒルデガルトの顔を覗きこんだ。


「いえ、先ほど転んでしまいまして、その時に足を挫いてしまったのだと思いますわ。」

「ヒルダ、足を挫いていたの?走らせてしまって、ごめんなさい。」

「ううん、エレオノーラのせいではありませんわ。こうして一緒に逃げてくださったから二人とも無事なのですから。逆にお礼を申し上げないと。」


「ちょっと見せてね。」 エレオノーラはヒルデガルトのスカートを少し上げて、細い足首に目をやった。

 いつもは白くほっそりと美しいヒルデガルトの足首が赤黒く腫れてしまっているのを見て、エレオノーラは思わず顔をしかめてしまった。


「こんなに腫れて、痛いでしょう!」普段、こうした怪我などあまり見たことがないエレオノーラはすっかり狼狽している。

「どうしましょう?これじゃあ、とても歩いて帰れないわ。お屋敷から人を呼んでくるしかないわね。でも、ヒルダ一人にして、またあいつらが来たら大変だし・・・」

「エレオノーラのおっしゃるとおり、ちょっと歩くのはつらいですわ。申し訳ありませんが、お屋敷に帰って馬車を呼んできてくださいませんか?」

「でも、あいつらが来たら。。。私が蹴飛ばして、怒らせてしまったし。。。」

「大丈夫ですわ、エレオノーラ。森の木の陰に隠れていますから、どうぞ馬車を呼んできてくださいな。」気丈な笑顔を見せながら、ヒルデガルトはエレオノーラの手を握った。

「分かったわ。すぐに戻るから、隠れているのよ。」いずれにせよ、人の手を借りないことにはどうにもならない状況に、エレオノーラは立ち上がり、スカートの裾を持ち上げて駆け出した。


「ヒルダ、本当に隠れなさいよ。」白いふくらはぎを見せながら慌ててかけていくエレオノーラは振り返りながら、ヒルデガルトに念を押す。


「エレオノーラ、そんなに慌てては転んでしまいますわ。私は大丈夫ですから、そんなに走らないで。」ヒルデガルトは心配そうに声を掛けながら、木につかまりながら立ち上がり、エレオノーラを見送った。


**********


 森の中に少し入った所にある、大きな樫の木の根元に腰を掛けながら、ヒルデガルトは空を見上げた。間もなくお陽様が一番高くなる頃だろうか。初春の青い空にふんわりと白い雲が輝いている。


(せっかくの聖人の日の祝祭でしたのに、エレオノーラには申し訳ないことをしてしまいましたわね。本当に楽しみにされていたから。)

ヒルデガルトがそんなことを考えながら、ぼんやりと流れる雲を眺めていると誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。


(空耳かしら?それともエレオノーラが戻ってきたのかしら?)


『・・・チカラヲ・・・ワレニ、チカラヲ・・・』

「エレオノーラ、戻ってこられましたの?」ヒルデガルトが森の外の方に声を掛けたが返事は無い。


『ワレニ、チカラヲ』その声はヒルデガルトの耳ではなく、頭の中に「直接」聞こえてきた。


「誰かいらっしゃるのですか?」ヒルデガルトが周りを見回しながら声を掛けるが、返事は無い。

 ヒルデガルトは木につかまりながら立ち上がり、再び耳をすませる。先ほどの声は頭の中に「直接」語りかけてきたのだから、耳を澄ませたところで何かが聞こえるわけでもないのだが、「声」に対してはどうしても耳を使おうとするのは人間の習い性かもしれない。


『ワレニ、チカラヲ』再びヒルデガルトの頭の中に声が響く。

(森の奥に何かあるのかしら?)実際の声ではないので、方角が分かるわけでもないのに、なぜかヒルデガルトはその声が森の奥から聞こえてきたような気がした。


 木につかまり、足を引きずるようにして歩きながら、ヒルデガルトは森の奥へと向かった。もし、エレオノーラがここにいたら、きっと引き留めただろうが、ヒルデガルトは何かに魅入られたように歩を進める。


『ワレニ、チカラヲ』ヒルデガルトが森の奥へと進むにつれて、頭の中に響く声が大きくなる。


 木々の枝が空を覆い隠すほど森の奥に歩いてきたヒルデガルトの前に大地の裂け目が姿を現した。人一人がやっと通れるくらいの細長い裂け目だ。

ヒルデガルトは大地の裂け目の前に膝をついて、中を覗きこんだが、ただ暗闇が広がっているだけだった。


 その刹那、暗闇の奥底で白銀の輝きがまたたいた。


「ワレニ、チカラヲ!」頭の中ではなく、大地の裂け目の底から本当の声が響いてきた。

 その声は決して恐ろしい響きを持つものではなかったが、抗い難い威厳を備えた声であった。その声に背中を押されるようにヒルデガルトは恐る恐る暗闇の中に足を踏み入れた。


「『点灯』」ヒルデガルトは右手の人差し指に意識を集中し、そっと前に差し出した。すると少し金色がかった白い光の球がぼんやりと浮かび上がり、辺りを柔らかく照らし出す。


 洞窟は、入り口こそ細長く狭かったが、中は思いのほか広く、人が四人くらい並んで歩けるくらいの幅があり、壁面と床は自然にできたものではなさそうで、所々に磨かれたような滑らかな面がある。

 ヒルデガルトの前に浮遊する白い光に照らされて、時折煌めくのは水晶の結晶だろうか。


 壁に寄り掛かって体を支え、足を引きずりながらヒルデガルトが奥へ奥へと歩いていくと、大きな広間のような場所に出た。

 天井の高さはヒルデガルトの五倍くらいだろうか。広さはヒルデガルトの住む館がすっぽりと入りそうだ。その広間の真ん中に水晶の小山があり、その上に人の頭くらいありそうな大きな白銀の玉が置かれていた。


(きれい。。。)白銀の玉が放つ光とその光に照らされて煌めく水晶の美しさにヒルデガルトは思わず呟いた。


「ワレニ、チカラヲ」白銀の玉から響く深く威厳のある声に圧倒されて、ヒルデガルトは白銀の玉の前に両膝をついた。


「ナンジノ、チカラヲモッテ、ワレヲ、トキハナテ。」その声に導かれるようにヒルデガルトはそっと白銀の玉に手を添える。

 その瞬間、ヒルデガルトは自身の体から力が抜けるような感覚に襲われ、同時に白銀の玉に亀裂が入り、そこからまばゆい光が溢れ出した。


「クォ、オ、オ」亀裂が大きく裂けて玉が割れ、中から白銀に煌めく生き物が現れた。

(これは、伝説の龍?)白銀の鱗に覆われ、一対の翼と小さいながらも二本の立派な角を持つ神々しい生き物を見て、ヒルデガルトは息を飲んだ。


 しかし、英雄譚やおとぎ話に出てくる龍は小高い丘のように大きいのではなかったか?目の前の生き物はそうした話に聞く龍に比べて、あまりにも小さい。


「ワレニ、チカラヲ」白銀の生き物は長い首をもたげて、ヒルデガルトに目を向けた。

 ヒルデガルトが恐る恐る左手を伸ばし、白銀の生き物に触れようとした刹那、その生き物は反射的にヒルデガルトの薬指に噛みついた。それは動く物に対する本能的な反応だったかも知れない。


「痛い!」小さいながらも鋭い牙に噛みつかれ、ヒルデガルトは手を引っ込めたが、その指先から鮮やかな血が滴り落ちた。


「乙女の血?そうか、我が身は生まれ変わったか!」白銀の生き物はこれまでの威厳のある深い声ではなく、低いが明らかに女性と思われる声で叫ぶ。


「ああ、力が湧き上がる!汚れなき極上の血!」白銀の生き物の鱗が光を放つとともに、人の頭くらいの大きさだった大きさが十倍くらい、ヒルデガルトと同じくらいの大きさまで膨れ上がった。

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