12月27日
「文章を完成させるのは、僕ではなくひとりひとりの読者です。嘘ではなくてね。」
これはインタビューの際に彼が語った言葉で、月刊『文藝談』の二〇〇九年十二月号に全文が掲載されている。
「文章はひとつのトンネルに過ぎません。あるいは、現像液だと思ってもらってもかまいません。大事なことは、それが列車でも、ネガでもないということです。仮に僕の文章に何かがあるとするならば、何か特殊なものということですが、それはひとりひとりのバックグラウンドによるもので、それまでの人生経験によるもので、個人的な出会いと別れによるものです。僕の文章にできることといえば、些細なきっかけとしてはたらく以外にありません。要するに、過大評価です。本気でそう思います。」
そのインタビュー記事を読んだのは九歳のときだった。ミレニアム・ベイビーなのだ。両親とも文系の出身で、特に父は文学にのめり込むような人だった。おかげで僕は教育資本に溺れて育った。
九歳。彼の言葉を理解するのには幼すぎて、彼の言葉に心を打たれないのには大人すぎる年齢だった。彼が書いた本はないかと尋ねると、父は書斎からハンバーガーくらい分厚い本を五冊持ってきた。作品集、と背表紙に書かれていた。
長い時間をかけて、そうめんが竹を下っていくように彼の文章を読んだ。幸い、暇はいくらでもあった。勉強は簡単でつまらなかったし、体を動かすのが苦手だったので遊びはもっとおもしろくなかった。友達もいなかったので、耳で聞くはずだった言葉の分と口に出すはずだった言葉の分の合計以上の言葉を、目で拾っていった。
結局、彼の文章から何も見つけることができなかった。『愛にみちたにがい静寂』という短編が特に好きで、今でも覚えているのだが、それも抑圧された性の表現があまりにも意味不明に思えたからだ。当時の僕は、バックグラウンドというべきものが、まだたばこの吸殻ほどの長さもなかった。それでも、彼の言葉は雨水のように僕の中に染み込み、深く暗くじめじめした奥のほうに豊潤な地下水脈をつくった。
来年の三月に、都内の大学の理学部を卒業することになっている。決して英米文学科ではない。文学への興奮は、翌年の夏休みが始まる頃には蒸発しきっていた。子どもの興味と少年少女の恋心は、四季よりも目まぐるしく移り変わるものだと相場が決まっている。
今朝、実家で年末の大掃除をしているときに、『文藝談』の二〇〇九年十二月号をたまたま見つけたので手を休めてぱらぱらと読み返した。久しぶりに彼の作品を読みたいと思ったが、七年前の引っ越しですべて処分してしまったらしい。
僕という人間は、きちんとバックグラウンドが出来上がっているのだろうか? 僕は正しく大人に成長できているのだろうか? 明日、隣町の大きな本屋さんに行って、彼の作品集を買ってこようと思う。十三年前と同じ鏡に何が映るのか。年末年始は特に予定がないので、年明けにははっきりすることだろう。
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