12月2日

「死ぬ前に使おうと思って貯めていた百万円で、旅に出ています。」と彼は手紙に書いていた。

「僕は輪廻転生や死後の世界や最後の審判のようなものは信じていません。家族や友人に贈与したり、ユニセフや国境なき医師団に募金することも考えていません。僕にとって死というのは、個人的かつ絶対的な終わりです。なので、お金を残して死ぬのはどうももったいないような気がするのです。そういう意味では、生粋の現実主義者なのかもしれません。」

 僕は水を口に含み、しばらく目を閉じてからそれを飲み込み、続きを読んだ。

「封筒の表にある切手と消印からすぐわかると思うので、わざわざ隠す必要もないでしょう。僕は今、オランダに来ています。スキポール空港のずさんな運営にはうんざりさせられましたが、アムステルダムはなかなかにいいところです。街の空間にゆとりがありますし、橋よりも船で川を渡るほうが多いのにも新鮮みを感じます。大麻と売春が合法なので、お金の使いがいがあるというものです。何より大事なことは、ここでは安楽死も合法です。慌てて調べないでください。公式には激しい苦痛にさいなまれる終末期患者にしか適用できませんが、本音と建前は日本人の専売特許でもないようです。」

 僕はヨーロッパの地図を思い浮かべてみたが、オランダが正確にどこにあるのかはわからなかった。

「でも安心してください。何がどうあろうと、この百万円を使い切ったら僕は死にます。あなたが何かを言っても言わなくてもです。なので責任のようなものは感じないでください。大いなる力には大いなる責任が伴う。どうすることもできない事柄について責任を引き受けるのは、合理的ではないでしょう。もちろん、返信を書いてもらえるというのなら、それ以上に嬉しいことはありません。ただ、そこに説得や助言や懇願のようなものは含めないでください。決定事項の前では、一切合切、無力ですから。」

 次が最後の一枚だった。

「この旅が、気の迷いでも病の発作でも絶望のなれの果てですらないことを、まず理解してもらえたらと思います。死ぬことがほかの解決策よりも優れているのは、その続きがもはやないというところにあります。めでたしめでたしが本当にめでたいのは、そこで物語がきちんと終わるからなのです。わがままなお願いではありますが、心の友として、どうか、この旅がきちんと終わることを願っていてください。」

 右下に日付と署名があった。僕はそこのインクを指でそっとなぞってみたが、何一つ感じるものはなかった。コップの水を一息に飲み干しても、まだ喉の乾きが収まらなかった。手紙の返事を書くのかどうか、しばらくは悩み続けるだろうという気がした。

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