11月11日

 大学に入った年の秋からだから、このバイトを始めてからもう三年が経ったことになる。いろんな意味で仕事には慣れてきた。働きたくないという理由だけで大学院に進むことにしたけど、大学を卒業したらこのバイトも辞めなければならない。そういうルールだ。だから三年も続けていると、ちょっとしたベテランになる。でも本当はこんな仕事にベテランもクソもない。生まれつきいくらか得意な奴と、全然ダメな奴しかいない。それを十五分かそこらの面接で見抜けるという点では、うちの社長も捨てたもんじゃない。


 今日は一人の大学生を担当した。彼は騒ぎだすことも躊躇することもなくて助かった。毎回これくらいうまくいくといいんだけど、残念ながらこれは珍しいケースだ。あるハゲたサラリーマンを担当したときには、牛歩戦術のように時間を稼がれて、心底うんざりした。

 「すみません、やっぱり離婚した妻に一言残しておきたいので、少し待ってもらってもいいですか」と彼が言った。

 「もちろんかまいません。満足なさるまで、ごゆっくりどうぞ」と僕は言った。本音を言えば早く終わらせて帰りたかった。

 「離婚したとはいっても……もしかしたらもう受信拒否とか……人生でそれなりに長い時間を……」彼はブツブツ喋りながら、スマホを操作していた。それからふと僕を見上げて、語りだした。

 「君はね、まだ若いからわからないかもしれないけど、そういうのって、なんというか、ほとんど奇跡なんだよ。人と人との出会いっていうのは……」

 道端に吐かれたツバのような内容もさることながら、さっきまでの敬語はどこに消えた? 僕は気持ち悪さを我慢しつつ、適当に相槌を打った。幸いマスクをつけていたので、表情にはあまり気を配らなくてもよかった。以前、ガールズバーでバイトしている高校同期が話していたことを思い出した。人間の醜悪を暴くものがあるとすれば、やはり酒と性と死ということか。

 「何度も申し訳ない。会社の後輩に、ちょっと気になるやつがいて、できればそいつにも……」やっとスマホを置くやいなや、彼は二人目を思い出したようだった。もちろん断るわけにはいかなかった。

 それからが長かった。彼はスマホを置いては誰かを思い出し、メッセージを送った。一度は横になって目隠し用のタオルをかけられてから、どうしてもということで起き上がった。人数で言えば十人は下らなかった。そして毎回決まってツバのような説教がついてきた。僕はしばらくいらだっていたけど、途中でドッキリかと疑って吹き出しそうになった。

 結局バイトから上がったのは夜の九時過ぎだった。僕はいつも多少なりともお客さんに敬意を抱いているつもりだけど、このときばかりは清々したとしか言えない。とは言っても、グズグズするに付き合うのも仕事の内なので、文句は言えない。


 部屋には変なBGMがかかっていた。シンセサイザーとエレキギターが主役の、耳障りな音楽だった。聴いているとガラスを割りたくなった。もちろんこれだって文句は言えない。どの曲をかけるかはお客さんに選択権がある。これもルールだ。「自由な選択と、完璧な最期を」というのが会社のモットーだった。身も蓋もない、いいフレーズだ。

 「少し話を聞いてくれませんか?」と彼は言った。

 「かまいません」と僕は言った。

 このとき、僕は彼に少し好意を抱いていたと思う。同世代の大学生だったからかもしれないし、あるいは単に彼が敬語を使っていたからかもしれない。

 「ありがとうございます」と彼が言った。

 「僕は、最低な人間なんです。どうしてもそれを聞いてほしいんです。人生で誰にも言ったことがありません」

 僕はうなずいた。

 「まず、僕はよく人を見下します。これはどうしようもないことみたいなんです。特に身近な人を見下すことでしか、自分の自尊心を守ることができないんです。自分がまくし立てたことを相手が理解できないで苦しんでいるのを見ると、なんともいえない気持ちよさがあります。でも、逆に障がい者とかには優しくします。大学でジェンダー系のボランティアに参加したこともあります。それってあまりにもおかしいと思いませんか? 最低だと思いませんか?」

 「それから、僕には彼女がいました。一昨日に別れました。メッセージだけ送って、全部ブロックしました。僕は浮気していました。しかも四人とです。というのも、僕は浮気するために彼女と付き合ったんです。信じられますか? そういう性癖なんです。NTR、じゃなくて、逆NTRなのかな。しかも、彼女が情緒不安定になって泣きつくところを見るとたまらないんです。なんでしょう、優越感、みたいなものですかね、そんな感じなんです。これをこうやって平気に話していることも、もう最悪の最悪です」

 「あとは、何かまだ言ってないことが、あ、そうだ。兄です。お兄さんは去年死にました。交通事故です。自転車で飛び出してミニバンに轢かれました。それで、なにがどうしたかっていうと、僕は、一度も泣きませんでした。悲しいとも思いませんでした。仲悪くはなかったですよ。なんなら仲いいほうでした。それでもまったく感情が動きませんでした。死亡確認から葬式から火葬から忌引期間が終わるまで、無表情を貫くのが大変でした。家族はみんなお通夜のような、というか本当のお通夜だったわけですが、まあいいや、とにかくその雰囲気もおかしくて、もう笑うのを我慢するのにも苦労しました。あとでかなりの保険金が降りて、僕はさらに嬉しくなりました。お兄さんが死んだのにですよ?」


 話の長さで言うとあと半分くらいあるけど、僕はもうまったく興味を失っていてちゃんと聞かなかった。彼が言いたいことをまとめると、つまりはこういうことである。

 自分が世界で一番醜い。醜いから見てくれ。見てくれたら慰めてくれ。

 これだけだ。彼もハゲたサラリーマンと大差なかった。自分が最低で、最高で、最も愛されるに値すると思っている勘違い野郎だ。ちょっとした好意、興味、ひょっとすると希望までをも抱いてしまったさっきの自分を殴りたかった。結局のところ、どいつもこいつも大差ないのだ。でも僕はそれほど嫌な気持ちにもならなかった。当たり前のことを、当たり前だと再確認したまでだ。

 僕はマニュアル通りに事を済ませた。いつもながら、死体は綺麗だった。傷や血がないという意味で綺麗というよりも、どこか美しいものがあった。僕はしばらくそれを眺めていた。三十分前までそこに潜んでいた醜悪と卑劣が跡形もなく消えていることについて考えた。それらはどこに行ってしまったんだろう? 考えているうちに、自分の中に堆積する砂塵を目の当たりにした。微塵の生気もない荒野が一面に広がっていた。分厚い雲が地平線まで続き、色彩があるのかさえ定かではない。僕は突然怖くなった。これまで担当してきた人間たちの汚い部分が自分にこびりついて、分厚い苔に覆われた石になったような気がした。その苔は、致死性の毒を持っていて、吐き気がするほど臭い苔だ。

 そういうわけで、僕は慌ててこの文章を書いている。どれだけ効果があるのかわからないけど、少しでも洗礼としてはたらいてくれた嬉しい。いや、そうでないと困る。こんな考えを持ったのは初めてだ。こわい。こわいのだ。でも明日もバイトだ。

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