11月3日

 そのとき僕は二十歳を過ぎたばかりで、イギリスの南海岸を一人訪れていた。初めての欧州旅行だった。ただ、旅行とはいっても行くあてはなかった。気が向いたときに気が向いた鉄道に乗り、気が向いた駅で降りた。事前に貯めておいた分のお金が尽きてしまえば帰ろうと思っていた。

 暖かい九月の午後だった。僕は海辺のカフェでダージリンを飲みながら本を読んでいた。カズオ・イシグロの『Never Let Me Go』だった。『わたしを離さないで』を読んだことがあったので背伸びして買ってみたものの、英語が難しくてなかなか進まなかった。ぼうっと彼女を眺めていたのはそのせいもあった。

 彼女は典型的な日本人の顔をしていた。バランスのいい顔立ちと控えめな化粧には人を安心させる不思議な力があった。薄ぶちのウェリントンメガネをかけていて、修道服のようなモノトーンのワンピースをつけていた。日本人を見かけたのは久々だった。ぼうっと彼女を眺めていたのはそのせいもあった。

 彼女はずっと窓の外、海の方を見ていた。手元のカップには一度も口をつけていないようだった。その視線の先に目を向けると、断崖の縁に中年の男女が立っていた。二人とも白人で、銀髪が混じっていた。カフェは崖にかなり近いところに立地していたので、僕たちはその一部始終を臨場感をもって見届けることになった。

 男がハンカチくらいの大きさのひらひらした何かを女に渡した。女も同じようなものを男に差し出した。よく見るとそれは人間の皮膚だった。うまく処理されているらしく、少しもグロテスクではなかった。皮膚を交換すると、二人はしばらく何かを話し合っていた。どちらかが頭を下げたり、どちらかが笑ったりした。何度かハグをしたり、頬にキスを交わしたりした。背景は青い空と青い海、緑色の地面と白色の断崖で構成されていた。それは現実的な風景というよりは抽象的な絵画を思わせた。

 僕はどことなく温かい気持ちになった。二人の表情と仕草からは本物の愛のようなものが感じられた。あわよくばそのあいだで交わされる会話を聞きたいと思った。僕は離婚した両親のことを思い出した。世の中にはいろいろな愛の形があるのかもしれないと思った。僕はまだ二十歳だった。これまで恋をしたこともあったが、愛というものを実感したことは一度もなかった。そのようなことを考えているうちに雨が降った。

 ありふれた通り雨だった。雨が止みかけたところで、夫婦は海に落ちた。一瞬のことだった。音はなかった。静止画の中から二人だけがぱっと消し去られたみたいだった。無意識に止めてしまった呼吸を再開して、僕は思い出したようにカフェの中の彼女を目で探した。彼女は同じ席に同じ姿勢で同じ方向を見ていた。あまりにも動きがないので、そのメガネとワンピースこそが彼女の本体ではないかという感じがした。いずれにせよ、彼女の姿はいくらか僕をほっとさせた。

 時間の感覚を取り戻したころに再び外を見ると、たくさんの人々が集まっていた。老若男女、合わせて数十人はいた。やはり全員が白人だった。子どもたちは黄色や橙色の風船を持っていた。どこか和気あいあいとした雰囲気があった。しばらくお祭り騒ぎをしたあとに、人々は次から次へと飛び降りていった。誰もが笑顔だった。まるで行列をなして公演前の劇場の門をくぐっていくようだった。

 僕は彼女を見た。カフェの中と外、彼女とその視線の先、それらのあいだには異質な緊張感があった。しかしその緊張感が何を意味するのか僕にはさっぱりわからなかった。僕は何かしなければならないような気がした。しかし何をするべきかもさっぱりわからなかった。

 彼女はおもむろに立ち上がり、カフェを出ていった。彼女がどこに向かおうとしているのかだけは僕にもわかっていた。窓の外にはもう誰もいなかった。

 僕はとっさにあとを追った。彼女が座っていた席の机にぶつかって紅茶がひっくり返ったが気にしなかった。ドアから出たときに、ちょうど彼女が天地の境界線に消えていくところを目にした。僕は彼女がいた場所に駆け寄った。嫌な吐き気がした。崖際に膝立ちになって見下ろしても、人影は一つも見当たらなかった。海面は嘘のように穏やかだった。米粒のように小さい白波のあいだに、布切れや風船の残骸のようなものが浮いていた。

 「カット!」という声が背後からした。

 カット?

 僕はひどく混乱した。人声のようなものや足音のようなものが聞こえたが、振り向くことができなかった。僕は取り憑かれたようにただ下を覗き込んでいた。僕は自分が何かを探し求めていることがわかった。しかし何を? 崖の断面の白さと海の表面の青さのせいで距離感がうまくつかめなかった。まるで二色に塗り分けられた壁が鼻のすぐ先に立ちはだかっているようだった。

 状況は切羽詰まっていた。もう時間がないような気がした。僕は得体の知れない不吉な風に吹かれたように立ち上がり、一歩踏み出した。変な浮遊感があった。最後に視界を埋め尽くした青の中に、ひときわ目立つ黒の塊があった。そこで記憶は途切れている。

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