10月26日
セーヌ川にかかる橋の上で、僕はエッフェル塔でも両岸の建築群でもなく、歩道脇から突き出る金網に留められた南京錠たちを見ていた。南京錠。時代を越えて、国を越えて。僕は地球上にあるすべての南京錠を一斉に想像してみた。そして、あの南京錠。ノスタルジー。めまいがして、僕はとっさに手をついた。石はひんやりしていた。
*
その年、僕はボルトクリッパーを片手に、南京錠を壊して回った。千個を超えたところで数えるのをやめた。千というのは、それなりに大した数だった。でも数は問題ではなかった。規則的なシフトと、相場よりも二百円ほど高い時給だけが僕にとって重要だった。
急激に気温が下がったその日、僕はアルバイトを辞める旨を上司に伝えた。
「これは、あまり大きな声では言えないけどね、給料の話なら、いくらか力になれると思う。じっさい、君の働きぶりは、なかなかだからね」と彼はていねいに区切って言った。
「ありがとうございます。でも今日でやめさせていただきます」と僕は言った。
「あのね、君ね」と彼は長い説得を始めた。あるいは説教だったのかもしれない。
隣のテレビからは木枯らしが吹いたというニュースが流れていた。
「もしどうしても正社員がいいということなら、うーん、そうだなあ」と上司が言った。
「十一月並の寒さになる見込みです」とニュースキャスターが言った。
いつの間にか上司の声は止んでいた。僕の手にはいつもの社用車の鍵といつものぼろぼろのファイルがあった。
それは簡単な仕事といえば簡単だし、困難な仕事といえば困難だった。離別した夫婦やカップルがかけっぱなしにしている南京錠を切り外す、あまりにも単純な仕事。毎度、現場の住所と処理対象の南京錠のリストを与えられて、そこに行って、切って、持って、帰ってくる。頭を働かせる必要もなければ、人と接する必要もなかった。それはあまりにも僕好みの仕事だった。
しかし誰にでもできる仕事でもないようだった。どうしてその南京錠の持ち主たちが別れたと知り得るのか、と何人もの同僚に尋ねられた。彼らはだいたいすぐに辞めていった。気づけば僕はベテランと呼べる立場にいた。どうしてその南京錠の持ち主たちが別れたと知り得るのか、僕に言わせてみればそれはどうでもよかった。誰か、僕たちには想像もつかないような階級で生きている誰かにはわかるのだ。そもそもこんな何のためになるのかもわからない仕事に高い賃金を払ってくれる頭のおかしい連中がいるのだ。
「あいつらは世界の均衡をパトロールしているからさ」
僕はいつもそのように答えていた。
斜に構えることが許されなかったのは、たったその日一度だけだった。
リストには両親の名前があった。僕は心臓を泡立て器でかき回されているような気持ち悪さを覚えた。僕はそのリストを上から下まで読み直し、その行に何度も目を走らせ、またリストを下から上に読み直した。
家庭に特別な問題があるとは考えられなかった。大学進学のために上京してからはほぼ毎年帰省している。父からも母からも時おり連絡が来る。言われてみれば、両親は同じ部屋で寝ないし、会話も乏しいが、そのような家庭だってごまんといるはずだ。夫婦は恋愛ドラマのようにはいかない。
「たまたまだ」と僕は自分に言い聞かせた。
そして僕はいつものように作業に取りかかった。
リストに示された大まかな場所を中心に、南京錠の特徴とその上の表記が完全に一致するものを探す。
たまたまだ。二人とも珍しい名前じゃない。同じ名前のカップルはいくらでもいる。
目的の南京錠を見つけたら、指差し確認をして、金属の湾曲している部分をボルトクリッパーの刃に挟む。
たまたまだ。僕はもう子どもじゃない。少しの相談もなしにそこまでの大事に発展するはずがない。
ボルトクリッパーの持ち手をしっかり握り、ゆっくりと体重をかける。
そうだ、たまたまなのだ。意地悪な偶然なのだ。
落ちた南京錠を拾って袋に入れる。
最後の日にして、僕は初めて不当をはたらいた。僕はその南京錠をこっそり持ち帰った。そして時間をかけてそれを眺めたり、触ったり、匂いを嗅いだりした。食パンの噛み跡のように潰れた断面は、自分の体の傷のように痛かった。
南京錠に飽きると布団の上で携帯を何度も開いたり閉じたりした。親にメールを送るかどうか躊躇していた。しかしいったい何を送ればよいのだろうか?
「お母さんと何かあった?」
これはあまりにも直接的すぎる。
「お父さんと最近どう?」
これじゃあまるで中学生の恋バナだ。
「東京は今日、木枯らしが吹いたらしい。こっちは元気にやっているよ。体に気をつけて」
僕は同じメールをそれぞれに送った。
結局、僕は何も行動を起こせなかった。南京錠は数日後に燃えないゴミに出した。あのとき、もし何かをしていれば、何かが変わっていたのかもしれない。しかしそれがいい方向だとは誰も保証できない。全部たらればだ。バタフライ・エフェクト。たらればは、嫌いだ。
大学を卒業して社会人になった四か月後に、二人は離婚した。母からは長い電話があった。長い割に中身のある話は何もなかった。父からは手紙が届いた。中に一万円札が十枚入っていた。使うことも捨てることもできず、そのままタンスに仕舞った。
*
翌日、僕は工具屋に行ってボルトクリッパーを買い、昨日の場所に戻って南京錠をひとつひとつ壊していった。フランスのボルトクリッパーは日本のそれよりも切れ味が悪かった。僕の手にかけられた南京錠は、消えるようにセーヌ川の中に落ちていった。
これらの南京錠の中に、いったいどれだけ別れたカップルのものが、どれだけ離婚した夫婦のものがあるのだろうか。僕は自分にふさわしい階級にいる。僕にはわからない。わからないので、ひとつ残らずぶった切った。それは、僕に課せられた義務のように感じられた。
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