10月13日

 布団から起き上がって、いつものようにトイレに向かおうというときに転んだ。最初はなにかにひっかかったかと思ったが、どうしても左足が動かせなかった。目をこすって見てみると、左足に足枷がついていて、それがハンドボールくらいの大きさの鉄球につながっていた。もう一度皮膚が痛むくらい力を入れてみても、鎖がぴんと張るばかりで、鉄球は泰然自若として居座っていた。それで仕方なく二度寝した。

 次に目を覚ましたのは十一時過ぎだった。足枷のことを忘れてまた転びそうになった。もう少しも眠くはなかったので布団の上にあぐらをかいて手癖でスマホを開いてみた。さてどうしたものかな。もう二限の途中もいいところだ。でも今から大学に向かえば三限には間に合う。乗り換えの運がよければ軽食を買って食べる時間もあるかもしれない。それに、トイレの我慢もそろそろ限界だ。おそらく目を覚ましたのもそのせいだろう。

 事態がだんだん差し迫ってきたので、あぐらをかいたまま足枷をいじってみた。約十五センチ幅の筒に足首からふくらはぎにかけてすっぽり入っていた。両端では直径が少しちがうみたいで、まるでオーダーメイドのようだった。体をくねらせていろいろな角度から調べてみたが付け外しの仕掛けや鍵穴は見つからなかった。思わず感心してしまった。いつかツイッターで流れてきたペットボトルの中に飲み口よりもずっと大きいひよこを入れるマジックのことを思い出した。しかし感心してばかりもいられない。尿意がジャンプすれば届きそうなところまで来ているのだ。

 鎖と鉄球にも細工らしきものは見つからなかった。唯一の収穫は、鉄球の重さがぎりぎり両手で抱えて持てるくらいのものだという気づきだった。それはお米を何袋も積み重ねているかのようにひどく重かったが、一人暮らしの狭い家での移動はなんとかできなくもなかった。ドアを開けるために一度鉄球を降ろさなければならないのが面倒だったが、小便まみれの布団の上で孤独死するよりはマシだった。


 足枷のある生活はしばらくのあいだ続いた。大学の授業に出席できなくなったこととバイトに行けなくなったこと以外に大した支障もなかった。慣れというものの恐ろしさを実感した。自炊は得意だったし、食材も生活用品もすべてネットスーパーで事足りた。本当に便利な世の中だ。もともと大学に友達がいなかったので、断らなければならない遊びや飲みの予定もなかった。一つ一つの動作に数倍の時間がかかるようになったが、出かけなくなった分むしろ自由時間は増えた。ひまな時間は本を読んだりパソコンで映画を観たりした。それにも飽きるとオナニーをして寝た。夜にはよく高校の友達と電話をしたりゲームをしたりした。

 もちろん苦労もあった。特に周りの人々に事情を説明するのが大変憂鬱だった。幸い、両親は「無理しないで。手伝えることがあったら言ってね。」と理解を示してくれたし、バイト先の上司は「わかりました。復帰する少なくとも一か月前には連絡をお願いします。」と無関心だったが、仲がいいわけでもないのにやたら「大丈夫?」とメッセージを送ってきたり、「それは町工場で切断したほうがいいよ」と物知り顔で助言してくる知り合いが腹立たしかった。ある時点からそういったものには返信しないことを覚えた。

 どうしても眠れない夜があった。自分への無力感と理不尽への憤りと将来への不安とが一緒くたになって、胸の上に足枷のそれよりも何十倍も大きい鉄球が乗っかっているかのように息苦しかった。足首の肉がズタズタになるまで無理やり外そうとしたこともあった。左足ごと切り落としてしまえるならどんなに楽だろうと思った。それくらいの痛みは心を蝕む邪悪に比べれば些細なもののように思われた。しかし、結局のところ、それはできなかった。包丁を手にとることさえ一度としてなかった。そのような自分の意志の弱さに抱く嫌悪が、ますます悪魔を太らせる餌となった。無限回廊のような深淵に囚われてしまったら最後、どこともなく小鳥が鳴き始める時間に眠りにつけるまで、布団の中で枯れた涙を絞り出すことしかできなかった。


 鉄球が前触れもなく小さくなり始めたのは半年くらい経ったころだった。初めは気のせいかと思ったが、鍋に入れたカレールーのように日を追うごとにしぼんでいき、ついには足枷ごと嘘のように消えてなくなっていた。思わず眉をひそめてしまうような大量の傷跡と、対応しなければならない大量のタスクだけが残った。

 真っ先に向かったのは大学の教務課だった。事務の方は優しかった。どうもこれまでいろいろな事情を抱えた学生を見てきたらしく、鉄球の一つや二つでは驚きもしなかった。一年留年することになったが両親は喜んでいた。このあいだはバイトもできずに仕送りだけを頼っていたので誠に頭が上がらない。万が一聞かれたときに説明するのも面倒なので、前のバイト先にはもう連絡しないで新しいバイトを探そうと思った。

 足枷が消えただけのはずが、両目にフィルターがかかったかのように見える世界がまるっきり変わってしまった。歩く人、走る車。揺れる木々、降る雨粒。あらゆる物体の動きが生々しく感じられた。鮮やかな色を自然と見つめるようになった。人と目を合わせることが恥ずかしくてうまくできなくなった。

 その中でも特に変わったことといえば、やはり今まで気づかなかった他人のアクセサリーにひどく敏感になったことだ。街ゆく人は誰しもが多かれ少なかれヘンテコな品を身に着けている。指輪やピアスのような目立たないものもあれば、ドーナツよりも太い腕輪とか、水筒くらいの大きさのネックレスとか、あげくの果てには鉄兜とか、いかにも大変そうなものも多い。自分のそれよりはだいぶ小さいが、鉄球を引きずっている人を大学のキャンパスで見かけたこともある。どこからそれらのものを手に入れたのか、どうして今まではまったく気にしたことがなかったのか、見当もつかない。

 それでも気づいてしまうのだから、否が応でもアクセサリーのことを考えながらその人と接することになるのだが、むしろ以前よりも好意を抱かれることが多くなったような気がする。そのような洞察力にはいつも奇妙な気持ちにさせられるが、おそらくは役に立っているのだろう。唯一悲しいことと言えば、あのころの気持ちを忘れつつあることだ。たまに書いていた日記を読み返すと自分でも驚いたりする。記憶の風化は避けることのできない宿命なので、このタイミングで一連の事象をここに記しておくことにした。

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