10月12日

 愉快な一日になるはずだった。恋人に誘われて映画館に行った。このごろ些細ないざこざがいくつかあったが、それらは重要なことではなかった。何でもない日の何でもないデート。たまたまカバンのの中に残っていたチョコレートのようなものだ。

 特別な映画ではなかった。地球外生命体がやってきて地球を侵略する。主人公とその仲間が人類を救う。銃弾が飛び交い土煙が巻き上がり、血と粘液が流れわれわれは勝利する。よくあるサイエンスフィクションだった。ヒロインは癖のある英語を話すが、豊満な肉体を持っていた。決戦前に主人公と体を重ねるシーンはそれなりに見応えがあった。しかし一体全体どうしてこの手の映画には必ず重厚なセックスシーンがつきものなのだろうか? どうして全身を使った熱い接吻を観た三分後には救世主として感情移入できるのだろうか? だが、とにかくそれはできるらしい。少なくとも僕にはできた。問題は、地球を救ったあとに起きた。

 薄汚れた格好で凱旋する主人公を待ち構えていたのは、大勢の拍手と歓声だった。それはそれは本当に大勢だった。まったくもって想像すらできないような規模の拍手と歓声だった。地球外生命体の生き残りが近くにいたならば、きっと「天を破らんばかりの喝采」と歴史書に記すにちがいない。次の瞬間、ギターの弦が切れるように僕は一筋の考えにとらわれた。

 この喝采は僕に宛てたものではないのだ。

 どうしてこの拍手もこの歓声も僕のためではないのだろうか? その事実が僕をひどく混乱させた。いきなり五感を奪われたかのように、僕は周りの世界をうまく認識できなかった。めまいがして頭が痛かった。激しい心拍と吹き出る汗が気持ち悪かった。血が昇っていくようだ。もしかしたらお腹も痛かったかもしれない。とにかく僕はではなかった。どうして僕には誰も称賛の声を投げかけてくれないのだろうか?

 僕は居ても立っても居られなくなり、そのまま立ち上がって劇場をあとにした。彼女が何か言ったような気もするが、倒れないよう歯を食いしばることに精一杯で聞こえなかった。ポップコーン売り場があるロビーまで戻っても動揺は収まらず、仕方なく外をふらふら歩くことにした。


 こうして僕は、どこかもわからない住宅街を歩いている。スマホは映画が始まる前に電源を切ったままで、あえてつける気持ちにもなれなかった。太陽は高く昇っていたが暑くはなかった。蝉の声はいつのまにか聞かなくなった。駅付近の喧騒から離れるにつれて金木犀の甘い香りが漂ってきた。秋がすぐそこまで来ているのだ。そのことを考えると少しばかり心が落ち着いた。

 このまえ大勢の拍手を受けたのはいつのことだろう? 大学生になってからはもちろんないし、高校生のころもあったとは思い出せない。だとすれば中学だ。かすかに記憶に残っている。場所は、朝の体育館だ。全校生徒から拍手をもらったのだ。あれは本物だった。僕に宛てた、僕だけのための拍手だ。でもどうして拍手されたのだろう。人類を救ったわけがない。たしか、何かの賞状をもらった。絵画か、作文か、あるいは何かの標語だとかテーマだとか、とにかくそういったつまらないことがらだ。それでも本物だったのだ。表彰台に立っていたのは、十三才か十四才の僕だった。

 そして僕は二十一になった。二十一。ブラックジャック。大きくも小さくもない数字だ。もう喝采を浴びるにはエイリアンの長に包丁を突き立てるか爆弾を抱えて永田町に向かうかしかない。そう考えると僕はかつて引っ越しのときに親に言われてたくさんの本をゴミ捨て場に持っていったときのような気持ちになった。成人するということはあるいはそういうことなのかもしれない。

 小さな公園を通りかかったので、適当なベンチに腰を下ろした。子どもが四五人ブランコとその近くで遊んでいた。せわしくブランコに乗ったり柵の周りを走ったりしていた。それは極めて平和な光景だった。一人の女の子が誇らしげに立ちこぎをしていた。誰も拍手はしなかった。

 しばらく座っていると、ふと映画の結末が気になった。いや、勝利が結末だとすれば正確には結末のその後が気になった。瓦礫の山になってしまった都市はうまく復興できるのだろうか? 正義のヒーローとなった主人公はどんな仕事をするのだろうか? 最後にはやはりヒロインとのキスシーンがあるのだろうか? いつかもう一度この映画を観なければならないと思った。おそらくはイニシエーションとして。

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