6月17日
カップラーメンをつくることに関しては、当時の僕はちょっとしたこだわりを持っていた。
カップラーメンをつくことは、スーパーでカップラーメンを手に取るところから始まる。ワイン造りが土を耕すところから始まるのと同じことだ。一列に並んだカップラーメンからひとつつかみ、そのままレジに持っていく。もちろんセルフレジしか使わない。そして家までの十分弱を、そのカップラーメンを抱えたまま歩く。要するに、振動を与えないことが肝心なのだ。
お湯を沸かしているあいだに、フタと、基準線より上側の側面にこびりついている粉を落とす。最後にカップごと軽く机を叩いて粉を均一にする。カップラーメンの開発者はきっと完璧な調合比を算出しているのだから、分量の狂いは創造主への冒涜である。
お湯をそそぐときはもちろん斜め上六十五度から基準線を見る。そもそも、試験管とはちがって真横から見ることができないので、どうしても視差が生じてしまう。そんないい加減なユーザーインターフェースになっているはずがない、という思いでわざわざ本社に問い合わせたことがある。そのときの公式回答が六十五度だったのだ。そして棚からぼたもちなことに、二分五十秒から四分までの七十秒間がおいしさのピークであることまで教えていただいた。それ以来、時間内に完食するよう心がけている。
その夏、僕は百五十四個のカップラーメンをつくって、百五十三個を食べた。僕がカップラーメンをつくるのはほとんど自分のためだった。当たり前だが、ことさら要求されなければ、誰だって他人のためにカップラーメンをつくろうとは思わない。手間がかかりすぎるのだ。
「そんなにカップラーメンが好きなんですか?」と彼女は言った。
「別にそんなに好きってことでもない。君だって好きで毎日歯磨きしているわけではないだろう」と僕は言った。
「なるほど」と彼女は神妙な表情した。
僕のカップラーメンの話を聞いて笑わなかったのは彼女が初めてだったと思う。僕が彼女の提案をあしらわなかったのはそのせいかもしれない。
「実はわたし、カップラーメンを食べたことないんです」と彼女言いにくそうに言った。「それって変だと思いますか?」
「いや、僕だってベジマイトを食べたことはない」
それに、君の格好を見れば察しはつく、とは口に出さなかった。シンプルなワンピースにシンプルなイヤリング、ナチュラルな髪型にナチュラルな髪色、つまり相当なブルジョアなのだ。どうして僕と同じように町の雑貨屋でアルバイトをしているのか見当もつかない。
「なんですか? ベジマイトって」
「なんでもない」
「そうですか」と彼女は別に知りたくもなさそうに相づちを打った。「あの、もしよかったらでいいんですけど、そのこだわりのカップラーメン、食べさせてもらえませんか? もちろんお礼はいたします」
お礼なんて絶対にやめてほしい。高級な菓子折りを持ってこられた日には気が狂ってしまう。カップラーメンが資本主義の餌食になるくらいなら何杯でもタダで食べさせてやる。
そういうわけで、僕は彼女を一人暮らしのアパートに招き、二人分のカップラーメンをこしらえた。いつもどおりのカップラーメンを、いつもどおりのやり方で。スタンダード・オペレーティング・プロシージャーとして書き記してもいいかもしれないと思った。
「いま」と僕は彼女のカップラーメンを測っているタイマーが二分四十八秒を表示するのを見て言った。
「はい?」
「いま食べて。はやく」
「あ、はい、いただきます」
彼女は一口食べて、月並みな感想を述べた。そんなことを言っている暇があるなら早く食べたほうがいい。どうせタイムオーバーするだろうから。
「食べないんですか?」
「僕の方はあと十五秒くらいかかる」
「さすがですね」と彼女はなぜかうれしそうだった。
感心している暇があったら早く食べたほうがいい。
「いただきます」と僕は僕のカップラーメンが完成する二秒前に言った。
それから二人は黙々とそれぞれのカップラーメンを食べた。麺をすする音がトータル・セリエリズムのようなリズムで六畳の部屋に響く。僕は彼女と僕がステージの上に座っているところを想像した。指揮者の腕の振りに合わせて、おのおのの麺をすする。観客の表情は真剣そのものだ。
先に食べ終えたのはやはり僕の方だった。彼女の麺がどんどん食べ頃を過ぎていくのを見ているのはつらかったが、一分を超過したあたりからあまり気にならなくなった。僕のリコーダーの演奏と小学生リコーダーの演奏なんて大差ないのだ。
「わたし、本当に初めて食べたんですよ。カップラーメン」ごちそうさまの後で、彼女は言った。
「別に疑っていないよ」
「いいですね、カップラーメンも」
「僕は回らないお寿司かフレンチのコースの方が食べたいかな」
ふふ、と彼女はまた嬉しそうに笑った。
「お金持ちは嫌いですか?」
「自分がなれないからね。思いっきり酸っぱくしとかないと」
「実はわたしも、お金持ちじゃなかったらなあ、と思うことがあります」と彼女は言った。「でも、そんなの皮肉みたいですよね。ごめんなさい」
彼女はまた笑った。今度は少しも嬉しそうには見えなかった。
それから僕たちは口を開かなくなった。エアコンのルーバーがスイングする音がやけにうるさく感じられた。観客は退席し、指揮者は帰路についた。コンサートホールには二人以外に誰もいなかった。人には人のカップラーメンが待っているのだ。
彼女はずっと何か言いたげだったが、こちらから尋ねるのも億劫だった。僕は将来のことについて考えてみた。大学ももう五年目だった。留年したが、この調子なら来年には卒業できる。でもその後は? その後はどうすればいいのだろう? 最近はもうキャリアなんとかのメールも届かなくなった。知り合いに会えば必ず就活と院試が話題に上がった。ついこの間までゼミの美人な先輩や隣のサークルの淫乱やスマブラの新しいキャラクターについて語り合っていたのに、気づけば僕だけ周回遅れになっていた。
「あの、大丈夫ですか?」
声はすぐ目の前から発せられた。彼女の顔までものさし一本分くらいの距離しかなかった。僕は彼女の目を見た。まつげの一本一本まで鮮明に見えた。上品なまつげだった。
僕は目を閉じた。
再び視界が戻ったときには、彼女は何事もなかったかのように立ち上がっていた。
「ごちそうさまでした。カップラーメン、おいしかったです」と彼女は言った。
「それはよかった」
そして彼女は荷物を持って玄関に向かった。僕は彼女を追いかけた。
「初めてのカップラーメンがこれで本当に嬉しかったです。ありがとうございます」彼女はやはり少しも嬉しそうではなかった。
「どういたしまして。よかったら駅まで――」
「いえ、大丈夫です。片づけもありますし」
「片づけくらい――」
「本当に大丈夫です。ありがとうございました」
僕はそれに従った。
「じゃあ、気をつけて」
「はい、さようなら」
それから僕は鍵を締めて、二つのカップと四本の割り箸を捨てた。僕がその夏につくった百五十三個目のカップラーメンと、百五十四個目のカップラーメンだった。
次の日の朝、僕は店長にアルバイトを辞める連絡を入れた。
あのとき、どうすればよかったのか。僕は未だにわかっていない。あのカップラーメンの意味も。もし、カップラーメンに意味があるとすればだが。
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