6月16日

 五分間のタイマーが動き始める。

 全日本選手権の予選にふさわしい課題だ、というのが第一印象だった。ざっと眺めたところ、中盤を過ぎたあたりにあるパイナップルとリンゴがやや離れていて、その手前のサクランボ二つも嫌がらせのようにつかみにくそうだ。ここがクリアできるかどうかがポイントというところか。

 ゴール手前のパッションフルーツも角度がついているものの、指を引っかけられるだけマシなように思える。そしてゴールの、なんともいえない形の黒ずんだハリボテは、下側の側面しか見えないのでその場でなんとかするしかない。

 オブザベーションを終えたところで残り四分と十五秒。悪くないペースだ。

 グループの中で遅れを取っている事実を頭の中から追い払い、精神を集中させる。今まで練習してきたように、思い描いたとおりに体を動かすだけ。パイナップルのところはヒールをかければどうにかできそうだ。ゴールは、触ったときの感触で判断しよう。さあ、フラッシュで決めるぞ。

 それぞれに黒色のテープが添えられた二本のバナナに、ぶら下がるように体重をあずける。背後から歓声が聞こえてくる。両足は左、重心は右。次のオレンジも手のひらで取れば難しくはない。いや、これはデコポンか? デコポンだ! 下からは死角で見えなかったたところに大きく出っ張ったヘタがあり、思っていたよりもはるかにつかみやすい。おかげで筋力はまだまだ温存できる。これは本当に一発でいけるかもしれない。

 パイナップルのトゲを指と指の隙間に入れるようにつかんでから、予定どおり左足でサクランボにかかとを乗せる。壁からわずかに突き出している柄が心強い。そしてリンゴ! 体の振れが止まると同時に拍手が響く。イチゴを経由して難なくゴール手前のパッションフルーツに手をかける。ここまで順風満帆。体感では筋力も四割くらいは残っている。

 ゴールは、これはなんだ? 時間が止まる感覚があった。四肢はもはや疲労せず、半径百メートルの空間が宇宙に転送されたようにしんとしていた。壁は、壁は、生きている? 感じる鼓動は自分のものではない。壁の鼓動だ。いや、壁は個体ではない。パッションフルーツにはパッションフルーツの鼓動があり、左足が乗っているイチゴには左足が乗っているイチゴの鼓動があり、右足が乗っているイチゴには右足が乗っているイチゴの鼓動がある。おそらくリンゴや、パイナップルや、片方のサクランボやもう片方のサクランボや、デコポンや、片方のバナナやもう片方のバナナも、それぞれの鼓動を持っているのだろう。そうか、壁は生態系そのものだったのか!

 脳からの電流によって両碗の筋肉が収縮すると同時に、頭上のどす黒い塊が静寂を打ち壊した。その黒体はゆっくりと二つに分かれ、内側はピンク色の地にいくつもの白い突起が並んでいる。なんだ、とんでもなくつかみやすいではないか。ゴールはもらった! という反射に遅れて、これはカバだ! という思考が頭を満たした。まずい、歯をつかめばきっと腕ごと噛みちぎられてしまう。しかし、顔の周りも口の中も体重を支えられたものではない。イチゴに乗っている両足はそれほど安定してはいないのだ。

 どうしたらいい? 必死に脳をはたらかせる一方、筋肉の限界がすぐそこまで来ていた。太ももが細かに震えているのが感じられる。よくない前兆だ。時間がない。しかしこの体勢では他に可能なルートもない。ここをフラッシュでクリアできなければ、全日本はほとんど届かないところまで遠ざかる。

 ここで負けてたまるか! 一か八かの大勝負だ。パッションフルーツのくぼみを押しながら体をひねり、右手を思いっきり口の中へと突き出す。

 走馬灯というものがあるのなら、これではないかと思う。死に際でなくとも見えるものなのだ。手のひらの先で口を開くカバは、そのとき、たしかに泣いていた。

 次の瞬間、壁にヒビが入り、上の方から崩れ始めた。カバは何十倍にもふくれ上がり、夜の帳が降りるように、壁をまるごと飲み込んでいった。僕はとっさに壁から弾かれるように跳んだ。着地するまでの間に、パッションフルーツ、イチゴ、リンゴ、パイナップル、サクランボ、デコポン、バナナ、が順番にピンク色の闇の中に消えていくのを見た。無重力状態にいる僕は文字通り無力だった。ひとつの生態系が消滅していくのを、心のなかで祈りを捧げながら眺めていることしかできなかった。

 地面に着く直前、首をひねって奥の液晶に目をやった。タイマーは三分十一秒を表示していた。

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