6月15日

 異変に気づいたのは目覚めたばかりの布団の中だった。はじめはまたTwitterの何かしらの障害かと思った。タイムラインがなかなか更新されない。中央線の人身事故と同じくらいよくあることだ。

 それほど楽観的な状況ではないと気づいたのは大学に向かっている最中だった。駅までの十分間弱で、すでに十人以上が倒れているのを見かけた。僕は医者でも探偵でもないのでたしかなことはわからないけれど、おそらくその全員が死んでいる。一人目を見つけたときには慌てて119に電話したが、つながらなかった。周りの人に助けを求めようとしたところで二人目と三人目の死体を発見した。それから駅につくまで、生きた人間には誰ひとり会っていない。十を超えたところで数えるのはやめた。

 もちろん電車は動いていなかった。というより、駅そのものが機能を停止していた。困ったことになったな、と僕は思った。今日は大事なゼミがある日なのだ。隔週でしか開講されないうえに、卒業に必要不可欠な単位だ。ぐずぐずしていても仕方がないので、教授にメールを送り、キャンパスまでの三駅分を歩いていくことにした。

 踏切を渡るときに、近くに止まっている電車に近づいてのぞきこんでみた。案の定死体が積み上がっていた。ほとんどがスーツにネクタイを締めていて、立派な社会人に見える。その中に泣いている赤子がいた。地震の際に机の下に隠れて身を守るように、ベビーカーの縁が人間の重圧を支え、赤子が生き延びる空間を確保している。もちろん僕は救助を試みたけれど、生身の両手両足では金属製の巨体をどうにもできなかった。それで僕は電車を去った。

 ここまで冷静にいられるのは、決して僕の精神が強靭というわけではない。そこらへんのB級ホラー映画さえまともに観れないのだ。変わっているのは死体たちのほうで、彼ら/彼女らは少しのグロ要素もなく、ただ生というものをシャットダウンして横たわっているだけだった。幸せそうに眠っているようにも見える。しかし僕にはそれが睡眠ではなく死亡であることが明確に判別できた。理由を聞かれても困るのだけれど、とにかくわかるのだ。

 キャンパスの中央にある広場で僕は驚くことになった。そこには十数人の学生と大人が集まり、空気が張り詰めていた。足が自然とピッチを速め、気がつくと僕は自己紹介を迫られ、続いて現在の状況とやらを説明された。

 「――ということです。もちろん今のところわかっていないことが多いのですが。むしろわからないことだらけです。しかしとにかく仲間に加わってくれることを嬉しく思います。まあ文学部ですが、人手が多いのに越したことはありません」とその男は胸を張って言った。彼の気迫は僕にラグビーのニュージーランド代表が試合前に踊るウォークライを思い出させた。ニュージーランドでも同じことが起きているのだろうか?

 「さて、ミーティングの続きをしましょう」と彼は円の中央に向き直って声を張った。

 「ちょっと待ってください。ミーティングって」と僕は言った。

 「ちょうどいま情報収集と、次に取るべき行動を話し合っているところです」と左にいるメガネの男が言った。

 「いやでも、僕はこれからゼミがあるんです」

 周りの人々からカモノハシを見るような目線を向けられたので、僕はあたふたしながらつけ加えた。そもそも仲間になるなどと一言も言っていないのではないか。

 「実は、すでに遅刻しているんです。必修の単位で、これがないと卒業できないので、どうしても出席しないと」

 さきほどまで怪訝な視線を向けてきた人々は、眉をひそめる者と乾いた笑いをこぼす者に二分されている。僕は何か不快なことや滑稽なことを言ってしまったのだろうか?

 ラグビーのニュージーランド代表の男が僕に何か言おうとしているのがわかった。その途端に僕は逃げ出した。ここにいてはいけない! と本能が叫ぶのが聞こえた。

 どれだけ走ったかわからないが、どうやら追手はいないらしい。腕時計を見ると、すでにゼミの時間の半分が過ぎていた。僕は広場を迂回するようにして文学部二号館に向かうことにした。

 息を整えながら、僕は今日のゼミの内容を反すうした。ニヒリズムへの応答として、十九世紀後半に台頭したオランダの学派の文献を読む予定だった。「生きることとは、自分と似ているものと自分自身とが異なるということを、絶えず証明し続ける作業のことである」というのが彼らのスローガンだった。僕はそれが好きだった。少なくとも、「神は死んだ」ことよりも、はるかに普遍的かつ実用的なように感じられる。

 今日ほど考え事をしながら歩く癖を恨んだことはない。いつの間にか僕は広場の前に来ていた。そして気が付いたときにはもう遅かった。

 「おい! やっとわかったか!」

 やはりラグビーのニュージーランド代表だった。

 「早く来い! 俺たちがやらなきゃいけないんだよ、世界を救うんだよ、なあみんな!」

 そして広場にいる全員が拳を突き上げた。耳鳴りがした。

 刹那、僕はすべてを悟った。なるほど僕はゼミに行く必要もなく、もちろん世界を救う必要なんてないのだ。僕は、僕はただ、すでに死んでいるべき人間だったのだ。道端ですれ違ったあの人たちや、電車に居合わせたあの人たちのように。

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