6月14日

 「はちみつを買いませんか?」とその男は言った。

 「いえ、けっこうです」と僕は答えた。みじんも興味がなかったのだ。

 「どうしてですか?」と彼は本当に理由を知りたいかのように訪ねた。

 「どうしてって、はちみつを買う気がないからです」

 「ですから、どうしてはちみつを買う気がないのですか? だって、はちみつは甘くて、とろりとしていて、何にでもよく合いますよ。せっかくですし、味見でもしていってください」

 彼は斜めに下げたバッグのチャックを開けて、もぞもぞと何かを探り始めた。僕は頭が痛んだような気がした。土曜の朝九時なのだ。一年の中でも貴重な、熱くも寒くもない土曜の朝なのだ。一週間の労働を乗り切ったご褒美に、二度寝でも三度寝でもさせてほしい。そんなところで訪問販売に捕まるなんて、まったくひどい話だ。どうしてはちみつを買わないのか。むしろ、どうしてこんな健康的な土曜の朝にはちみつなんて買わなきゃならないのか。

 気がつくと彼の両手にはテニスボールくらいの大きさのビンとプラスチックのミニスプーンが握られていた。

 「ぜひ召し上がってみてください。最近特に人気が高いアカシアのはちみつです」

 ドアを閉める時機を見失ってしまったので、僕はしぶしぶ言われるとおりにした。

 そのはちみつはスーパーでよく見かけるものよりはやや色が薄く、確かに美味しかった。はちみつ特有の臭みはなく、甘みもしつこくない。飲み込むときに香りが口から鼻にかけて突き抜けるのが心地よい。これが土曜の朝九時ではなく、たとえば水曜の夕方六時半であれば、迷うことなく手に取っていただろうに。

 「いかがでしょうか?」

 「確かに美味しいですね」

 「ええ、そうでしょう」彼は目玉が飛び出しそうなほどに大きく目を見開いていた。「こちらのアカシアのはちみつは、群馬県にある伊藤農園さんと契約して、高品質のはちみつだけを厳選したものになっております。通常のはちみつよりも糖度が一つ二つ高いのですが、本社独自の加工技術により、さわやかな甘味に仕上げております。さらに栄養素も豊富でして、ビタミンBに関しては市販品の三倍、ビタミンEに関しては――」

 僕は群馬県にある伊藤農園にある巣箱の中にいるはちの幼虫のことを考えていた。四肢がなく、蠕動運動で前に進むのはいったいどういう感覚なのだろうか? はちの幼虫も、厳選されたさわやかなはちみつのほうを好むのだろうか? はちの幼虫にははちの幼虫の土曜の朝があり、はちの幼虫の訪問販売があり、はちの幼虫の訪問販売で売られるはちみつがあるのだろうか? しかし、はちの幼虫の訪問販売で売られるはちみつっていったいなんだ? そこには再帰的な危うさが潜んでいる気がした。

 「ぜひ、おひとついかがでしょうか? ただいまキャンペーン中でして、今なら五百円引きでお試しただけます」しばらく語り続けたせいか、彼の額には汗がにじんでいた。

 そういうわけで、僕は群馬県にある伊藤農園の巣箱の中にいるはちの幼虫が食べるはずだったはちみつを買った。はちの幼虫ははちの幼虫の訪問販売で売られるはちみつを買ったあと、それをどうするのだろうか? どれだけ考えてもよくわからなかったので、僕はずっとそのはちみつに手をつけないでいる。

 

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