阪神淡路大震災は、私がまだ高校三年生の頃でしたでしょうか。
とにかく情報や物流が混乱し、初めて聞いた「震度7」という数字と、その惨状にただ単に呆然としていたのを覚えています(その後の地震でも「最大震度7」というのが起きるようになり、この阪神淡路から日本は地震大国であることを改めて授業でも取り扱うようになったと記憶しています)
私たちもAM KOBEの状況はとにかく夜の遠距離受信ができる時間にならないと直接聞くことができませんでしたから、状況は主にテレビからでしたね。
RADIコミでも、とにかく関西リスナーの安否情報が最優先され、とにかく現地入りして状況を伝えようということでAM KOBEの仮社屋から収録(岩崎和夫さん&南かおりさんゲスト)が行われましたし、応援歌としての新曲も生まれました。それをひっさげ「落ち着いたら復興のお手伝い(主に現地でお金を使うこと)に力を貸せること」としてイベントもやりましたし、救援テレカ(番組で換金し、義援金として日本赤十字社に寄付)もやりましたね。あの頃から天災が起きたら「自分たちリスナーには何ができるか?」を植え付けられた気がします。
作者からの返信
コメントありがとうございます。阪神・淡路大震災はリスナーに寄り添うメディアとしてのラジオの役割を改めて問い直すきっかけとなった出来事だったと思います。RADIコミの皆様にも本当にお世話になりました。
震災が起こると、家族だけでなく知り合いの安否が気になりますよね?
あの頃、日本に住み始めて2年も経っていませんでした。福岡では、揺れも全く気づきませんでしたが、親戚が巻き込まれました。
神戸には、母の姉、西宮と尼崎に父の弟2人が住んでいました。母の姉は高齢で、母の弟が軽トラで中国山地の山道を通って、物資を届け、屋根にブルーシートを貼ってきたと聞きました。叔父の1人は早起きだったので、その時は起きていたそうですが、寝床へ大きなタンスが倒れてしまい、寝ていたら危なかったという話を聞きました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。ご親戚が被災され、危機一髪の状況だったとのこと、さぞご心配だったと思います。
地震はいつどこで起こってもおかしくないので、私も常に心構えしておかねばと思っています。