第10話 幼稚園時代の想い出など
小学校と同じく、私は2つの幼稚園に通った。通ったと言っても公立の幼稚園だったのでバスではなく、徒歩か母親の自転車で通ったと思われる。
最初の幼稚園は茨城県に住んでいた時だ。教室のすぐ外には、つたの絡まる大きなバーゴラがあり、私はその下の砂場で砂遊びをするのが好きだった。その後、父親の転勤で東京に引っ越すことになった。
茨城時代の友人のことはほとんど覚えていないが、近所の年上の女の子が「青い目の人形」の歌を教えてくれたこと、住んでいた借家の近くに大家の家があり、大家の子どもたちからリカちゃんやリカちゃんママの人形を譲ってもらったことは覚えている。大家の子どもたちは私が引っ越した後も手紙をくれたくらいかわいがってくれた。私あてにもらった初めての手紙で、今でも実家に保管してある。
東京に引っ越した私は、当時できたばかりの公立幼稚園に通った。この幼稚園の隣に、後に4年生から通うことになる小学校が建設されることになる。私は「ゆり」組だった。園庭にはプールがあったが、私は夏休みの後に引っ越したため使うことがなかった。幼児用の小さなトイレも珍しかった。新設ということでおもちゃや絵本も多く、私は木のままごとで遊ぶのが好きだった。
幼稚園の友達では忘れられない想い出がある。私はクラスメイトのある女の子と仲が悪かった。何がきっかけかは覚えていないが、卒園前に私たちは和解し、教室の中で手を取り合ってぐるぐる回った。いつまでも続けばと思ったくらい心地よい時間だった。
卒園後、何かの用事で一度だけ園に行ったことがある。自分たちの座っていた椅子がやけに小さく見えたことが懐かしかった。
茨城の貸家はいわゆる文化住宅で、二間と台所の間取りだったと記憶している。数年前グーグルマップで検索してみたところ、大家の家も含め現存しており驚いた。
東京で住んでいた会社の寮は当時新築で、我が家は101号室に住んでいた。3DKの部屋で、台所の続きが和室の居間、その奥の和室が寝室、台所の隣の洋室が子ども部屋になっていた。私が子ども部屋で寝るようになるまでは、寝室に二段ベッドと両親の布団を敷いており、私は二段ベッドの上、弟が下に寝ていた。この寮は現在取り壊され、跡地は住宅地になった。家の周辺は私がいた頃とは様変わりしており、当時通っていた床屋が残っているくらいだ。
私が子ども部屋で寝るようになったきっかけは、二人目の弟が生まれたからである。次回はその話をしたい。
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