第3話 二つの小学校、放課後の記憶
この文章を書いているうちに思いだしたことが色々ある。
私は小四で転校した。人口増で学区が分割され、用水路を挟んだ向かいに新設された小学校に移ったのだ。
小三まで通った小学校には、校庭の隅に大きな木の根っこが置いてあった。生徒たちは根っこの下に潜り込んだり、木のうろに入ったりして遊んでいた。私の夢想していた作品では、この木の根っこから「メカザウルス」と戦う秘密基地に繋がる設定になっていた。後年、パーマンの二次創作でタイムトンネルの入口を木のうろにしたのはこの記憶が影響している。
分割されるくらいだったので当然教室も足りず、二年生時の教室は木造の旧校舎だった。木の手すりの付いた階段を上って二階の教室に入ったこと、鳩が階段に飛び込んできて大騒ぎになったこと、木の床の節穴に消しゴムを落としてしまったこと、冬は鉄のストーブを使っていたことなど、懐かしく思い出す。担任の女性教諭が卒業式の後、着物姿で体育館のステージに立ち、お見合い用の写真を撮っていたのを遠くから見ていたこともあった。
転校した小学校は新設校なので建物は新しかったが、校庭には建築時に出てきたらしい巨大なヒューム管が置いてあった。その後、丸太で作ったアスレチックが設置された。小六の時、遊んでいた私は足を滑らし、丸太の橋に唇の下をぶつけた。傷は治ったが、傷跡はずっと残っている。
他にも、給食当番の時、シチューの入った容器を無理に運ぼうとして倒してしまい、足に大やけどをしたり、幼児の頃に母親を追って道路に飛び出して車にはねられ、救急車で運ばれ額を縫合したりと、大きな怪我を何度かしている。交通事故の縫合痕は未だに残っており、当時行く予定だった沖縄海洋博をキャンセルしたと後年親に聞かされた。結局未だに沖縄に行く機会はない。
当時の学校では様々な遊びが流行った。スーパーカーの消しゴムをノック式ボールペンで飛ばして距離を競い、牛乳瓶の蓋をメンコにして遊んだり、リリアン編みやビーズの手芸をした。
私の住んでいたマンションは会社の寮で、放課後は同じ寮の子どもたちともよく遊んだ。学校で竹を切って作った竹馬に乗ったり、ゴム跳びやドロケイ、だるまさんがころんだ、ドッジボール、ままごとや寮の周りを回るリレー競技など、様々なことをした。遊び相手がいない時は買ってもらったテニスラケットで壁打ちをしたり、近くの団地の公園に出かけて「プリン山」と呼んでいたコンクリートの山に挑んだりしていた。
習い事にも通っていた。習字塾とそろばん塾だ。習字塾は帰りにくれるボンタン飴が楽しみだったが、字は現在も悪筆である。そろばん塾は中学一年で転校するまで通ったが、3級試験に合格できずにやめることになり、悔しくて大泣きした。私にとって取り返しの付かない挫折を味わった最初の記憶である。
家の近くに駄菓子屋が出来ると、日曜の朝10時にもらったお小遣いを持って弟と開店したばかりの店に向かった。店が開いてないと隣にある店主の自宅まで呼びに行っていた。今から思うと迷惑な子どもである。「ドラえもんスナック」や「うまい棒」「ボールチョコ」などを組み合わせてお小遣いの上限まで買っていた。
クラスメイトの家の肉屋に置いてあった「オバQウインナー(ソーセージかも)」もあこがれのおやつだった。現代では関西地方の定番商品「ポールウインナー」にイメージが近い。
家では外食はほとんどせず、たまに近くのうなぎ屋のうな重を頼むくらいだったが、何かのきっかけでそば屋で食べた時のことは覚えている。TVで『透明ドリちゃん』がかかっていて、家では見ていない作品だったので私はかぶりついて見ていた。
外遊びもたくさんしたが、小学校の高学年になると、一人で本を読むことが多くなった。漫画や本との出会いについては次以降の節で改めて語りたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます