第37話 栗八佐和ダム怪談
ギィーギィー、ギャーギャーと野生動物の鳴き声が響き渡る。
漆黒の中、不気味に浮かび上がる赤い三日月。
真っ暗で車通りもない山中の道路は現実離れをしていて、この世ならざる場所を錯覚させた。
道の左側は、覗くと魂ごと吸い込まれそうになる崖が無限に広がっていた。
右側は底知れぬ不安が手招きをする、野生動物の叫び声と木々が風もないのに揺らいでいる。
その真ん中に、ポツンと置かれた異物……。
バイクのライトに照らし出された、望月の白い折りたたみ自転車。
不自然に投げ出されているが、何かに衝突して事故に巻き込まれたような痕跡はない。
──多分、ここで投げ捨てて走った。
「ここで降りなきゃいけなかった理由って?」
ちょうど同じことを考えた鈴蘭が、沈黙を破った。
「俺も思った……。ダムまでは、残り500メートルもあるし、走るにはキツイよな?」
──いや、でもアイツは鍛え抜かれた空手家だ。
それに、この山道の坂道をチャリで走るより、自で行った方が早いな……。
だけど、違和感はまだある。自分の意思で降りたなら、端や隅に自転車を置くはずだ。
「鈴蘭、どう思う?」
腕を組み、口元に左手の指先を当てて考え込むスーパーギャルに答えを委ねる。
「そうだね〜。アタシが思うにぃ〜、まず坂道だしチャリより走った方が早いっしょ」
空を仰ぎながら、鈴蘭は続けた。
「チャリがパンクしたとか?」
鈴蘭に言われ、自転車をひっくり返し、タイヤの空気圧を手で押して確認してみる。
──異常なし。
鈴蘭と目を合わせ、被りをふった。
「じゃ、ここに投げ捨てなきゃいけないようなヤバイことがあったって事だね」
周囲の闇を目を凝らし、確認してみる。
正面のダム入り口の看板から、右へまじまじとスーと視線を這わす。
木、
捨てられたビニール、
空き缶、
ポツンと置かれた地蔵……、──地蔵。
首がない。山道の地蔵が壊れているのはよくある事だ、集会で山道なんかいくらでも走るが、別になんら不思議ではないし、よく見る光景だ。
──それでも、こんな夜中に見るのは怖い物だ。
なんとなく、どこかに落ちているだろう首の在りかを探し、地蔵周辺に視線を泳がせる。
──あん? なんだあれ?
木の根っこのようにウネウネとした黒い物体が、地蔵の数十センチ横に転がっていた。
不思議と気になってしまい、視線が外せなかった。目を凝らし、吸い込まれるようにじーと観察を続けた。
「どったの?」
鈴蘭も俺の横に並び、地蔵の方に顔を向ける。
「うわッ怖ッ、首なし地蔵じゃん!?」
パンパンッと俺の肩を二度叩き、気さくに怯える。
その時──、ファサーと風が吹き抜けた。
落ち葉が舞い、ガサガサと木々が踊り出す。
「何、あれ?」
鈴蘭も黒いウネウネした物体に気づいたらしい。
「あぁ、なんか黒いよな?」
「──うん」
鈴蘭の返事と同時に黒い物体がグリンと動いた。
ウネウネした黒い隙間に、青白い隙間が見える。
──動いた? 白い部分が出てきた。
その隙間からカッと眼球のない、真っ黒な目が見開いた。一瞬で、わからなかった物体の全体図を理解してしまった……。
あれは、人間の生首だった。
髪の長い人間の姿をした生首が、真っ黒の目を見開いてこちらを見てニヤリとしていた……。
常人の眼底の五倍はある異常な〝それ〟は、ゆっくりと──コロコロと転がりながらコチラに向かおうとしている。
「ぎゃあああ──ッ!!」
鈴蘭の悲鳴が闇に轟く。そのまま尻餅をついてアタフタしている。
「あ、あれ、あれ、あれ、あれ!」
涙目で右手をブンブンさせながらこちらに訴えてくる。
──やばい、やばい、あれはやばい!
こりゃ、チャリぶん投げるわ。
背筋にゾォーと寒気が走る。頭のてっぺんから血の気が引いていくのが自分でもわかる。こめかみが凍りつく。
「た、立て、鈴蘭。走るぞ!」
焦りすぎて声が裏返る。
「無理無理無理無理無理、腰ちょちょぎれた!」
腰を抜かしてしまったらしい。
生首をもう一度確認する。
徐々に加速し、こちらに近づいてきた。
『ゔーヴー、ヴヴェァァァ』
悍ましい呻き声をあげて目前に迫ってきていた。
「うぎぁぁぁぁ──!?」
今度は、沸き立つような悲鳴が喉元を突き破った。
気付いたら、左足を踏み出して二、三歩進んでいた。
鈴蘭を置いて……。
「ぎゃぁぁ──、國枝っちぃぃぃ──!?」
──はっ!?
鈴蘭の悲鳴で我に返り、リターン。
鈴蘭の膝と腰を両手でお姫様のように抱き抱え走った。鈴蘭は泣きながら俺にしがみついてきた。
「ひっぐ……ひっぐ……ぐすん……」
「悪りぃ」
置いて行こうとした事を謝りながら、左手でお尻の感触を確かめた。
バイクを置き去りに、そのままダムに向かい走る。
振り返ると生首との距離は、50メートルくらい空いている。さすがにこのまま400メートル以上、鈴蘭を抱き抱えて走るのは辛い。
「鈴蘭、走れるか?」
「うん……、もゔだいじょうぶぅ」
鈴蘭を下ろし、二人で並びながらダムに向かった。
◇◇◇◇◇◇
栗八佐和ダムの入り口にたどり着いた頃には、二人共汗だくだった。普段から運動も部活もしない、このコンビにとっては一生分の運動量に相応すると思う。激しい息切れに、肺が圧迫して押しつぶされそうだった。
「いたたッ……、脇腹つったよぉ〜」
鈴蘭は、脇腹を抑えながら苦しそうに呟く。
「くそッ……望月はどこにいんだよ……」
咳き込みながら俺は毒づいた。
ゆっくりとヨロケながら、ダムに入っていく。
バイクの灯りがない今、この闇を照らすのは、あの玄関にあった懐中電灯だけだ。
──街頭が幾つかあるな……。
幸いにも、水辺柵周辺には街頭がいくつもあった。懐中電灯だけでは心元なかったから、少しだけ安心感を得た。
灯って言うのは、暗闇の中でしか有り難みを感じないもんなんだなぁ〜などと思った。こんなにも有り難く感じたのは、始めてかも知れない。
「望月ー! いるかー!?」
「夢見ー! どこにいるのー?」
望月を探す叫びが、空を切る。
辺りをキョロキョロと探すが見当たらない。
手分けするにも、夜のダムは危険なのでそうはいかない。地道にぐるっとしらみ潰すしかない。
──ま、まさか……、2人とも水ん中、なんてことはねぇーよな……。それともここはハズレだったか?
数百メートル歩いた頃には、不安に囚われていた。
『音話ッ! しっかりして!』
どこからともなく望月の叫び声が聞こえた。
鈴蘭と目を合わせ、頷きあった。
「望月ッ! どこだ!」
「夢見ッ!」
俺たちは、声のした方へ走り出した。
『渚ッ!? 國枝くん!? 良かった! 音話が!』
進んでいくと頼りない街頭の下に人影が浮かび上がってきた。
『助けてッ!』
「望月ッ!」
今にも水の中に飛び込もうとするように、片足を柵にかけよじ登ろうとする妹を、必死に止める望月の姿がそこにあった。
急いで加勢する。
音話の足を鈴蘭が掴み、俺は腕を掴んだ。
ピクリともしない。
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」
と虚な目で、ただ呟きながら前のめりに飛び込もうとする。
──力、はんぱねぇ……。
赤羽の力を考えてみれば驚く事ではない。理論はわからないが、憑依された人間ってのは、人外の力を発揮するらしい。
どれだけの時間、望月はこれを耐えていたのか?
キャミソールとホットパンツという部屋着が、ボロボロに汚れている。手足のいたるところからすり傷や切り傷が見える。
「遅くなった、悪かったな!」
「待ってたよ、専門家」
そう言った望月の声が震えていた。あの理路整然とした才色兼備の望月が、泣きそうに声を上ずらせた。
怖かったんだという事を、その一言で思い知らされる。
──そうだよな……。怖かったよな……。
どんなに強くても、
どんなに完璧なやつでも、
女の子がたった一人で、こんな恐怖と戦っていたんだ。怖くないはずがねぇー。
望月に専門家なんて言われても、
何もできねぇのは事実で、
結局、俺はいつも
誰かや何かに助けられてやってきた。
だから「いや、なんもできねぇから」なんて、
いつもそうやって返事を返してきた。
そんな俺でも、今返すべき言葉はわかる。
俺は望月の頭を軽く撫でた。
望月は少し驚いた表情をしながら、俺の顔を見る。
「あとは、まかせろ。望月!」
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