冬は辛めに

 冬は美味しいものが多い。

 鍋は筆頭だろう。

 身体を温める辛いものもいい。

 炬燵で蜜柑も最高だし、正月の雑煮やぜんざいときたらどうしてあんなにも罪深いのだろうか。

 そんな風に晩ご飯を考える颯太の思考を、妻の弓水ゆみの声が断ち切った。


「あのさ?」


 弓水は困った顔で颯太そうたを見つめる。何かあるとズバッと言ってくることの多い弓水のそんな様子に、颯太は少し不思議そうに首を傾げた。

 

「自覚、ある?」


 らしくない迂遠な物言いに、颯太は尚更首を捻る。


「自覚?」

「自覚」

「何の?」

「言っていいの?」


 真剣な目で颯太を見つめるその顔に、いつ見てもカッコいいなぁと呑気な感想を抱きながら、颯太は緩い微笑みを浮かべ頷いた。


「何、いいよ。隠される方が気になるよ」

「太ったよね」


 颯太はさっと目を逸らした。

 早かった。

 普段おっとりのっそりのんびりとした颯太の動きではない。


「……気のせいじゃないかな」


 下手な口笛とともに誤魔化そうとするが、誰がどう見ても気づいている。

 そしてここまで言ってしまえば弓水も躊躇する理由がない。容赦なく颯太の顔を掴み、無理やりに自分と目を合わせさせる。


「だいぶ太ったよね」

「見間違いじゃないかな」


 完全に目が泳いでいた。


「お腹つまもうか?」

「つ、妻と言えどセクハラです。やめてね?」


 別に嫌なわけではないが。

 今摘ままれるわけにもいかない。


「太った自覚あるよね」

「……太ってないことにしたい」


 もはやただの希望だった。


「太ったよ」


 儚い希望だった。


「突き付けないでよ!」

「しっかり太ったよ」

「強調しないで!?」


 そしてしっかり砕け散った。

 弓水はやっぱり容赦なかった。最初の困った顔は何だったのかと思うほど良い笑顔で言い切る。

 そんな弓水に少し見惚れて顔を赤くしたり、続く言葉に何となく想像がついて青くしたり。颯太の顔は忙しい。


「ダイエットしようか」


 颯太としては死神の鎌をかけられたような気分になる。


「……運動嫌いなんだよ」


 家の中こそ至高。

 整えられた室温、お菓子、ジュース、漫画、ゲーム。何故この至福の空間から出なければいけないのか。

 何故も何も間違いなく不摂生で太った自分のせいなのだが、どうにか運動からは逃れようと颯太は言い訳を探す。


「太るのも嫌がるじゃんか」

「……嫌だけど」


 弓水の目がじっと颯太のお腹を見つめる。

 別にお腹の肉がジーンズに乗ったと言うほどではない。ただ、明らかに学生の頃より触り心地が良くなったであろうお腹は少なくとも一回り、大きくなったのは間違いない。


「運動は?」

「嫌い」

「食事制限」

「食べるのが生きがいです」


 太るのは嫌。

 運動は嫌い。

 食べるのは止められない。

 我儘なことである。


 当然に許されるわけがない。


「どれか諦めよ?」


 暗に、食べたいなら動けと言っている。

 と言うか、運動をさせたがっている。

 弓水の目は獲物を狙う肉食動物のそれである。


「今までは太らなかったのに……」

「それがアラサーの壁ってやつだよ」


 弓水と出会って9年。気付けば颯太も今年28。年が明ければすぐそこには29歳の自分が待っている。

 学生気分で生活していれば当然、太る。


「老いが恨めしい!」


 老いと言うよりも生活習慣の問題である。

 同じ家で同じものを食べている弓水は昔と変わらず綺麗なまま。その裏にある努力を勿論颯太は見ているのだから。


「人は誰しも通る道だから諦めようね」

「不老不死の術を探しに行きたい」


 わざとらしく天を仰いだ颯太を、冷たい目で弓水は見つめた。

 元が整った顔立ちで少し冷たげな雰囲気がある分、切れ長の目がじっとこちらを見つめるとそれだけで圧がある。


「それで話が逸れると思ってる?」

「現実を見たくない」


 ちなみに弓水の顔はずっと見ていたい。

 結婚して2年。

 気分は未だ新婚である。


「体重計乗ろっか」


 そんな颯太の気分など知った事ではない。

 さぁさぁ、と腕を引っ張り無理やり立たせる。別に本当に力比べをするなら颯太の方が力はある。にも拘らず、悲鳴をあげながらも立ち上がるのは結局颯太自身も多少の危機感を覚えているからであった。


「どうしてそんな恐ろしいことが言えるの?」


 でも抵抗はする。無駄に。


「現実を見てもらう必要があるからだよ」

「……体重計に乗ったらご褒美ください」


 動くだけでご褒美が貰えるのは幼児までだと思う。とは弓水も言わない。ここで機嫌を損ねて炬燵に引きこもられる方が余程面倒である。


「食べ物以外ならね」

「そんな!?」


 本当に太っている自覚があるのかないのか。


「いいからさっさと乗る!」


 弓水の雷に観念した颯太はとぼとぼと洗面室の体重計死刑台へと歩を進めた。




「……あー」


 何とも言えない声が漏れる。


「……これは、うん」


 颯太自身も、受け止めざるを得ない現実を前に苦々し気に頷いた。


「元は何キロだっけ?」

「60ちょっとかな」

「12キロ増えてるね」


 お腹周りが成長していることには気づいていた。

 少し顎のラインがなだらかになっていることにも気づいていた。

 背中の肉がたるんでいるような気はしていた。

 つまり全体的に肉づきが良くなっていたからこそ、幸か不幸かここまで見逃してしまった。

 分かりやすくお腹が出ていればもっと早く対応していたのかもしれないが、もはやたられば、後の祭りであった。


「増えてるね」

「増えすぎだね」

「も、元が細いから」


 身長は180近いことを思えば、確かに元はだいぶ細い。

 今の体重だけで言うのであれば、標準と言えるかもしれない。

 だが、そんな言い訳が通じる弓水ではない。


「この調子だと増え続けるよね」


 それが何よりの問題であった。

 特に節制するわけでも、運動するわけでもない颯太の体重がここで止まるとは思えない。


「ど、どこかできっと高止まりすると思うんだ」

「本当に?」

「……きっと」


 弓水の顔は見れない。

 その態度が全てである。


「夢を見るのはやめようね」

「嫌だ! この世界にまだ希望はあるはずだ!」

「希望はあるよ。まだ痩せれる」


 太れば痩せればいいだけ。


「どうやって!?」


 太りたくないのなら。


「私と一緒に毎朝走ろうね」


 今日一番の笑顔だった。

 どうも何も、その答えが返ってくることくらい分かっていたのに。つい勢いでどうやってなんて聞いてしまった自身の迂闊さを颯太は呪う。

 分かっていたからこそ、どうにか運動以外の選択肢を探していたのに、10キロ以上の増量という衝撃に颯太の頭は少々のパニックを起こしていた。


「……きき間違えた?」

「私と一緒に毎朝走ろうね」

「ちょっと遠慮したいんだけど、どうかな」


 一縷の望みをかけて、上目遣いでおねだりしてみる。

 アラサー男の上目遣いにどれほどの効果があるのか。


「これ以上太る気?」


 一欠片ほども効果はなかった。

 仕方ない。可愛くない。


「いや、太らないように気をつけるけど……走るのは、ほら……」


 弓水が中高大と陸上部として長距離を走ってきたのを知っている。大会に応援しに行ったことだってある。

 見るのは楽しかった。

 トラックを駆ける弓水の姿は最高に格好良かった。

 だが見るのとするのは話が違う。


「大丈夫だよ。ちゃんと加減してあげるから」

「わー……本気の目だ……」


 こと走るということに置いて、加減をしてくれる人じゃないことを颯太は重々理解している。この10年近い付き合いの中で、嫌と言うほどに。


「私と一緒に走るの、嫌?」


 こてんと小さく首を傾げた弓水の表情が、颯太の心にクリティカルヒットする。

 どうして普段あんなに格好いいのに、ふとした瞬間に可愛いを差し込んでくるのか。こんな空気でなければ小一時間説教したい。いい加減自分の動作にどれだけの破壊力があるのか理解してほしい。

 などと半ば現実逃避じみた思考をしつつも、それで逃がしてもらえるわけもなく。


「僕、運動、苦手。弓水、運動、好き。この差、大きい」

「何で片言なの」


 可愛い弓水を前にストレートに断る度胸がないからである。


「だって弓水、毎朝5キロでしょ!?」


 とにかく、どうにか条件の緩和を求めて交渉する。

 5キロは運動と縁遠い生活をしてきた人間が急に走れる距離ではない。


「大丈夫大丈夫、加減してあげるから」

「それで地獄を見た学生時代を僕は忘れてないからね!」


 女性だからと侮っていたつもりはない。と言いたいが実際侮っていたのだろう。うっかり朝の練習を誘われて乗ってみればとんでもない目にあった。

 颯太はその後数日筋肉痛でよぼよぼのお爺ちゃんのように動くはめになったのだ。


「あれは颯太が意地張るからじゃんか」

「付き合いたての彼女の前で、流石に体力勝負で早々敗北宣言は無理です」

「まぁ私が勝ったけどね」

「負けましたけどね!」


 意地でどうにかなるほど、日頃の努力は甘くない。

 得意げに笑う弓水に、颯太は憮然とし表情で負けを認めた。苦い過去である。


「というわけで、今日はスポーツウェア買いに行って、明日の朝から頑張ろうね」

「問答無用!?」


 交渉の余地などなかった。


「1人で痩せられるの?」

「……走ります」

「よろしい」


 何より、楽しそうな弓水へ、断固拒否など颯太にできるわけがない。

 惚れたが負けと言うなら颯太は昔々からとっくに大敗を喫しているのだから。


「痩せたら三段ケーキ作ってあげるね」


 そして弓水もまた同様に。


「一生弓水と二人で走る羽目になる気がする」


 太っては走り。

 痩せては太り。

 太っては走る。


 運動は嫌いだが、そんな生き方も悪くはないかなぁ、なんて。


「一生傍にいてほしいって言うプロポーズ?」


 悪戯っぽく笑った弓水に、颯太は嫌そうに肩を竦めた。


「しまらない告白だなぁ」

「あの時もそうだったよ?」


 どの時、なんてしらばっくれたいがそんなわけにもいかない。

 何せ、しっかりと颯太の記憶に焼きついているのだから。


「半ば弓水からだったしね、あれも……彼女がイケメンでしんどい」


 自分よりもよほどイケメンな弓水を見やりながら、気の抜けた息を零す。

 自分より格好良いからと言って、自分が格好つけなくてよくなるわけではない。

 男子は男子で大変だ、などとどうでも良いことに思考を巡らせるのは昔を思い出して恥ずかしくなっているからだ。

 そんな颯太の考えが手に取るようにわかる弓水はニヤニヤと、颯太を見つめる。


「そんな私のことが?」

「好きだけどね!」


 隠すようなことはない。


「私は愛してるけどね」

「あー、ずっるい」


 結局のところ、颯太は手を引いて前を走ってくれる弓水が好きで。


「……何だかんだ頑張ろうとしてくれる颯太が好きだよ」


 つまるところ、弓水は何だかんだとついて来てくれる颯太を愛してる。


 そんなふたりだから、今日も明日も走れるのだろう。

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