第16話

「そろそろ、皆が出てくる時間のはずだわ」

「……本当に、どうしても最後に行きたいとこが、ここでいいの?」


 変装用のサングラスは既に装着済み。格好は勿論私服。

 私達は泊まっていた旅館からチェックアウトした後、荷物を駅前のコインロッカーに放り込んでからやってきた。どうしても澄が行きたいと言い張った場所。道のド真ん中で突っ立っているわけにもいかないので、目的地の向かいにある、雑居ビルの喫茶店。二階にあるイートインスペースにて、時間を潰していた。

 この三日間、どこへ行くか、基本的には修学旅行のしおりを元に考えながら、二人で行きたいところをあちこち回っていた。昼はあらゆる寺社仏閣や大きな橋を、バスを使ってあちこちと。夜は細路地だとか川の傍をただただ歩きまわったり。

 最終日、訪れていたのは、観光地から少し離れてはいるけれど、その分、大きなホテル。


「ここがいいの」

「……わかんないなぁ。友達いないでしょ?」

「事実だとしても失礼だわ。けれど、友達が居たところで、話しかけられないのだから同じでしょう?」

「じゃあ、何のために。ここら辺、他に何も無いよ?」


 澄の飲んでいたアイスコーヒーは底をついていた。突き刺さったストローにほんの少し、黒の跡。窓際、カウンターになっている席の中央の二席に並んで、ホテルを見下ろす。ロータリーには何台かの貸し切りバスが並んでいて、中から出てくるであろう制服の一団を今か今かと大口を開けて待っていた。

 私達が参加するはずだった修学旅行の、同級生の皆が泊まっているホテル。

 何をしに来たのか。バスに乗って帰る同級生を、遠目から見送りにきた。意図は、不明。


「強いて言うとしたら……自慢?」


 数度、瞬く。予想外だったから。


「自慢とかするタイプじゃ無いでしょ」

「基本的には、ね。けど、それとこれとは、別。私、負けたくないの」

「負け……?」


 カラコロ、飲み干されてしまったグラスの中をストローでかき回すと、転がる氷。底には溶けた水が、残っていたコーヒーと混ざって、薄く濁っている。


「私達の方がずっと楽しかったって。比べ物にならないほど、海月と青春したって」

「青春……改めて言われると、やっぱり恥ずかしい」


 私自身が言い出しておきながら、真っ直ぐぶつけられた言葉。気持ち的には同じ筈なのに、どうしてだか、小恥ずかしくなってしまう。


「自分で、言い出したんでしょ。青春は言っておかないと損だって」


 それは、その通り。自分で言うのと、誰かから言われるのとでは、後者の方がよっぽど照れる。自分から青春なんて絶対言わない澄から出た者だったら、尚更。


「気持ちは分かるけど……何をどうしたら、勝ちなの? 皆だって、修学旅行の想い出は作ってるだろうし、楽しかった気持ちに勝ち負けなんて、ないと思うけど」

「あるわよ」


 即答だった。何を当たり前のことを聞くのだろうとでも言わんばかりに。想い出の価値、楽しさの大きさなんて、人による、主観だけの話。そこに、勝ち負けなんて、どうやって付けるのか。突撃して、ディベートするわけでもないだろうに。


「私が、勝ったと思えるかどうか」


 清々しい程の、自分基準。ルールもへったくれもない。

 そんなこと澄だって、分かっている。分かっていて、言っている。


「じゃあさ、折角だし、圧勝しない?」


 勝った。その気持ちが全てなら、とびっきりの、勝ちをプレゼントしたい。泣いても笑っても、今日が最終日なのだから、後悔の無いように。


「どうやって?」

「……そこまでは、考えてないけど、こう、いい感じに」

「なにそれ」


 どうせやるなら、思い切って。普通の修学旅行を蹴っ飛ばして、お年玉貯金を全額引っこ抜いてまで、二人だけの修学旅行に来た。遠慮や躊躇い、なんてものは、旅立ちの日、改札に飲み込ませてしまった。

 ただ、帰るところを眺めているだけでは、少し、物足りない。


「ほら、出てきたわ」

「おぉー、壮観だね」


 少しずつ、ホテルの正面玄関から吐き出され始めた同級生達。教師を除いた全員が、見慣れた制服を着ているので、一目瞭然。


「本当なら、今頃、あそこにいるハズだったんだよね。なんだかんだ、澄と一緒だったら、楽しかったんだろうけど」


 人生の中で、一度しか無いはずの修学旅行。ホテルからぞろぞろ、栓が緩んだ蛇口のように溢れてくる制服を眺めていると、私達はそのたった一度の体験をすっぽかしたという実感が、ようやく追いついてきた。ここまで、極端な行動に走ることは無かったんじゃないだろうか、と頭の片隅、いつも冷たい部分は呟く。

 同じ制服を着て、隣同士バスに座って、自由行動では班を抜けて、二人で巡る。他の友人は兎も角、一葉と小春は、なんだかんだ澄とも上手くやれそうな気がするから、友達になれたかもしれない。


「海月、後悔してる?」

「してないよ」


 瞬き一つ分だって、思考すること無く、言葉が生まれた。


「なら、いい」


 グラスに添えていた手が止まり、カウンター席から立ち上がる澄。


「思いついた?」

「こういうのはシンプルが一番ね」


 上着を纏い、バッグを手に取る澄。道路を挟んだ向こう側に居る同級生達は、自分たちの事しか見え無いくらいに、楽しんでいて、引率の先生も何処か諦め気味で、生徒達が集まるのを待っていた。

 二人分のグラスが載ったトレイを、返却口に放り込む。


「ごちそうさまでした」

「でした」


 出入り口の自動ドアを潜る前に、色つき眼鏡を掛け直し、買ったばかりの帽子を被る。初日の夕方過ぎ、人で溢れかえる商店街を二人で歩き回って買った、お気に入り。

 透明の自動ドアをくぐる。大きな道路を挟んだ先、同じ高さに、制服が見える。


「こわ……バレないよね?」

「これだけ離れてたら大丈夫って思いたいけど、人数が多いから、絶対とは言い切れないのが怖いところだわ」


 窓を隔て見下ろしていた時にはなかった緊張。大きな複数車線道路を挟んだ向こう側、ノロノロと、まとまりの無い一団が、整列しバスへと乗車し始めていた。点呼や忘れ物、注意事項と言ったお約束的な先生のお話を受けている真っ最中、だろうか。

 緊張を他所に、道路に沿って足早に歩き出した澄。黒曜の絹糸が、きらきら、陽の光を沢山吸い込んで、煌めく。

 触れてみる。さらさら。心地良い。

 幾つかの横断歩道を越えた。ホテルからはどんどんと遠ざかっていく。何を思いついたのか、聞いてみたい気持ちを抑える。

 すん、と鼻を鳴らすと、知らない街の匂い。微かに混じる、古宮澄自身の匂い。雨の午後、濡れた紫陽花が静かに身に纏っている香りと体温が溶け合って混ざって出来た、私だけの香水。


「ねぇ」

「どしたの?」


 真っ直ぐ歩き続けて、また一つ、横断歩道を渡ったところで、ふと、立ち止まる。


「私、海月がいいわ」


 瞳が、ぶつかり合う。薄い青のレンズには、反射した、私が映る。


「返品不可だからね」

「お互い様だわ」


 くすり、微笑みはぶつかり合うと、ビーズをばら撒いたみたいに、きらきら、舞い溢れる。

 手が握られて、熱が伝わってくる。触れあった瞬間、熱が挟まれて、溶けて、ぐずぐずになって。ギュッと、握ると、握り返されて。力を抜くと、更に強く握りしめられて。


「これ、外しちゃいましょっか」


 もう片方の手が伸びてきて、私の色つき眼鏡を外す。


「だね」


 同じように、眼鏡を外してあげた。真っ直ぐな黒翡翠が、私を見た。互いの鞄に、手に持った眼鏡を放り込む。

 空いた二つの手は、同時に伸びて。互いの帽子を、外す。


「ほら、そろそろ、来るわよ」


 口の端、持ち上げて、持ち上げられて。

 歩いてきた道を振り返ると、遠くに道路へと躍り出て連なる観光バス。


「お見送り、だね」


 帽子も鞄の一番上に載せ、二人、道路の先を見つめる。少しずつ近づいてくるバス。日常へと戻るための、揺り籠。一生に一度、特別なたった数日を惜しみながら、満足しながら、タイヤを磨り減らし、アスファルトを転がる。

 道なりに歩いていた足を、九十度方向転換。赤く光る人が、だめだよ、と私達を引き留める。

 バスの中、落ち着きの無い、今にも溢れてしまいそうな制服姿がハッキリ見えた。近づいてきて、止まる。ついさっき、私たちが通ってきた道筋を辿るように。

 バスの頭上に見える、三色団子は、赤色に染まっていて。

 入れ替わるように、私たちの前の赤が、いいよ、と青に染まる。一緒に歩き出す。顔を見合わせる。何者にも遮られない彼女は、やっぱり、とびきり綺麗で。きっと、彼女の瞳に映る私も、負けないくらい、輝いていて。

 二人、白線とアスファルトの間に立ち尽くす。並んで、バスに真正面から向き合うと、全員が見えた。最初は誰も、私達を見ていなかったけれど、誰か一人が、横断歩道のド真ん中に居る私達を見て、指を指す。続いて、一人、二人、三人。横断歩道を渡る、私たちへ向く。

 ちかちか、視界の端、エメラルドグリーンが主張。くい、と引っ張られた手を、握り返して、駆け出す。横断歩道を渡りきった頃には、先ほどまで私達がいた信号機の赤いジェントルマンが見送りをしてくれていて。

 ゆっくりと加速したバスが、すれ違う。沢山の窓、そこにある、見知った顔。知らない顔。全部、全部に向かって。

 手を繋いだまま、歩き出す。道路沿い、引き返すように、ホテルに向かって、横断歩道を、また、渡る。

 片側の窓に張り付いた、幾つもの制服。降り注ぐ視線を、見上げながら、笑ってやる。

 一度きりのお裾分け。私だけの、彼女だけの笑顔。

 止まることなく、過ぎていく幾つものバス。見える全ての表情を楽しみながら、歩く。彼女の笑顔は見えなくても、結ばれた手のひらから滲む汗が、全てを教えてくれる。

 出来る限り、目を合わせた。クラスメイト、クラスメイトだった子、友人。それから、友達。ハッキリ見えた、二つの表情には、驚き、それから、呆れ。

 全てが通り過ぎる。去っていく。見上げはしても、振り返りはしない。

 隣を見た。たった、一分足らずの短い間。久しぶりに、彼女の顔を見た気がした。それは、なによりも濃くて、多くて、楽しい時間だったから。

 晴れ晴れとした表情は、青空よりもずっと澄んでいて、古宮澄で溢れかえっていた。私の胸も、いっぱいいっぱいに、澄で充ちていく。

 何を言うでもなく、人生で一度だけ出来るイタズラの残滓が、四本の足を浮き足立たせる。手を握り、時折離して、今度は指を絡めたりして。互いの足が、腰が、引っ付くほどに近づいたり。離れたり。

 言葉では足りないから。言葉以外で表してみる。

 気付けば、先ほどは遠くに見えていた、大きなホテルの前に戻ってきていて。同時に、さっきまで居たカフェを見上げる。


「バレたかな?」

「どっちでも」


 バスとサプライズの残り香も過ぎ去って、身体から、少しだけ、力が抜ける。

 さっきまで、あんなにも賑わっていたロータリーには、一つだって制服の影は無う。跡の一つも、存在しない。お祭りだって、ゴミの一つや二つを残していくのに、本当に何も無かったかのように。

 何かの糸が、ぷつり、切れたかのような寂しさが、私達の中に産声を上げた。

 ピークが過ぎて、最後。もう、修学旅行のしおりは役に立たない。

 しんと、二人の間にあったきらめきが凪いだ。


 痛みを感じるほど、強く握られた手が、叫ぶ。


「足りないわ」

 言葉は蒼天に吸い込まれる。

 冷たい白のペンキを空からぶちまけられたように真っ白なホテルを見上げて、力一杯握りしめる。同じだったから。


「うん、まだ、足りない」


 少しずつ、手の平が熱くなっていく。私達の間から、寂しさ、侘しさも、郷愁も寂寥も……全部全部全部全部。溶けて、地面に落ちて。


「今日の夜、何、食べたい?」

「ハヤシライス」


 二人で、踏み潰した。途端、改札を潜った時のような……いや、それよりももっと大きくて、重たい、期待感で弾けそうで。


「ここまできて?」


 足りないのなら、満足するまで。終わりたくないなら、終わらせなければいい。


「帰り、バスなら幾らでも乗れそうだったから、予約してないんだ」

「丁度よかった。泊まりたい場所、あるのよ」


 しおりは無くても、行き先を決めていなくたって。

 私達の旅は、まだ、続いていく。




 水面の上の光。

 ずっと居座っていた透明から駆けだして、互いに引っ張り合いながら、目指していく。透明の先で、息が出来るのかも分からない。ここよりももっと寒くて、苦しい場所かも知れない。

 それでも、隣で息をしてくれる人が居るなら、大丈夫。

 呼吸の仕方を忘れた時に、教えてくれる人が居るから、怖くない。

 透明な水から、飛び出した。

 変わらない透明。私たちの吐き出した丸い透明が弾けて、どこまでも、どこまでも。広がっていた。

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息継ぐ透明に果てはなく 比古胡桃 @ruukunn

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