第14話
「よし、そろそろ時間かな」
結局、熱が引いたのは修学旅行の二日前だったけれど、大事を取って、修学旅行の当日まで学校を休んだ。熱がぶり返さないように、と。
寒空と冷えたコンクリという天然の冷蔵庫で芯まで冷やされたのが、かなり効いたみたい。ただ、余分なほどたっぷりの休息のおかげで体調はすこぶる快調。家の中に籠もりっきりだったから、今すぐ身体を動かしたいくらいに、節々が鈍っている。
「気をつけるのよ。何かあったら、すぐ連絡すること。危ないとこには行かないこと。あとは……」
「夜遊びはほどほどに、でしょ」
玄関先、選別した荷物を詰め込んだトランクケース。お母さんから借りた、大容量タイプ。悩みに悩み抜いた挙げ句、お洒落よりも動きやすさ重視にするべき、とスニーカーに足を通す。
玄関先で私を見送るお母さん。不安と呆れ……それから、何故か、ほんの少し嬉しそう。
「物わかりの良い子だって思ってたけど、反動なのかしらねぇ」
かなり無理を言った。無茶苦茶言ったのは私だったから、当然、怒られもしたし、お説教もされた。それでも、今回ばかりは、譲れなかった。
「一生分のワガママ、使った気がする」
先生からの覚えがよく、家の手伝いもするし、成績もそこそこ。それなりに、優等生に振る舞ってきた私の、突然特大級の自分勝手。古宮さんの言うとおり、私は恵まれている。なんだかんだ、とお願いしたら、最終的には認めてくれたのだから。
「何バカなこと言ってんの。子供のワガママに貯金なんてないのよ。無限大なんだから」
お母さんが、笑う。釣られて私も、笑う。
「ほんと? もっと、ワガママ言っていいの?」
「ワガママ言っていいか聞くなんて、海月はワガママの才能ないわね」
「ワガママの才能って、ダメな気が……」
「ダメじゃないわよ。少なくとも、私は海月のワガママなら叶えてあげたいって思ってるのよ」
本当に、そうだろうか。考えていたことを打ち明けた時には、お父さんとの二人がかりで、お説教フルコースをぶつけてきたのに。あんなに怒られたこと、間違いなく、初めて。
「子供のワガママは無限でも、私ら親が受け取れる量には限りが有るから、ちゃんと見極めようって必死なのよ」
苦い顔をしていたのが、伝わったのかもしれない。何も言っていないのに、先に説明されてしまった。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉を開ける。荷物はこれ以上ないくらい確認したし、この寝込んでいる間に考えられることは全部考えておいた。だから、問題ないハズ。
「海月」
外に飛び出して、早朝の冷たい空気を味わうよりも先に聞こえてきたお母さんの声に、振り返る。
「目一杯、楽しんできなさい」
「もちろんっ」
閉まる扉。さっぱりした号砲が冷たい空気を優しく叩いた。
家に帰るまでが旅。なら、きっと、家を出た瞬間から、旅は始まっている。
重たいトランクケースの中には、期待と不安が半分ずつ。地面を転がるローラーが、私の脚を急かす。今にも走り出そうとする全身を抑えつけて、転ばないように、汚れないように。歩いて、引っ張って、時折、段差を越えて。
すれ違う人の数は、まだまだ少ない。部活の朝練に向かう学生とか、こんな時間から会社に向かうサラリーマンとか。時折、疲れ切ったような表情でビニール袋を提げている人も居る。もしかして、今から帰りなのかな、とか。
普段と違う時間が私を浮き足立たせて。普段と違う荷物が重みで現実感を教えてくれて。
お気に入りのスキニー。動きやすいスニーカー。そして、スーパーボールのように跳ねる心が、いつもよりも、ずっと早く、軽く、私をその場所にまで運ぶ。
一週間ぶりの、ぼろアパートに。
伸縮する持ち手についてあるボタンを押して、ハンドルを押し込んで収納。トランク本体についている持ち手を握って、横幅の狭い階段を上っていく。鉄柵に時折ぶつけ、コォン。鐘を突くような音を響かせながら、二階に。
到着と同時、可変ハンドルを引っ張り出して、ころころ、一番奥の部屋の前に。
「荷物よし。準備よし。格好よし」
後は、隣に立つ人だけ。
インターホンを押す。家の中から、ドタドタと足音が聞こえてくる。やはり、防音能力は頼りない。隣に誰も住んでいないのだけれど。
かちゃり。中から音がして、ゆっくり、開く。
「おはよ、古宮さん」
中から出てきたのは、しっかり修学旅行準備を済ませて制服姿の古宮さん。いつもと同じ、きっちりしっかり美人さん。朝から活力が湧いてくる。
まだまだ、集合までには時間があるのに、もう、準備は完了なあたり、生真面目。
「な、なんで」
「連絡先、交換するの忘れてたから……って、いうのは建前なんだけど」
伝えようと思ったら、昨日でも、一昨日でも、直接話せた。
でも、伝えなかった。
「なんで、私服なのよっ」
私の一世一代のワガママ。今度の衝動だって、止まらない。
「ほら、古宮さんも、そんな制服なんて脱いで脱いで」
ガラガラ、スーツケースごと玄関先に上がり込んで、扉を閉める。
「待たせちゃったけど……旅館も、バスも、全部予約したからっ」
幸い、まだ、出発までには時間がある。これから、再度、荷造りするくらいの余裕ならあった。いらないものは置いていって必要なものを詰め直すだけ。
スニーカーを脱いで、部屋に上がる。古宮さんの匂いがしたから、深呼吸、一つ。
「……嘘でしょ」
私の計画の全貌を、理解し始めた古宮さんは眉間に皺を寄せて頭を抑える。
「嘘だと思う?」
手で顔を覆っている。
「思えないから、問題なのよ……」
驚き、呆れ、振り回されている被害者……みたいな声色をしているけれど、私は、知っている。というか、見えちゃってる。
「二人だけで、修学旅行に行こうっ」
指の隙間から見える口元が、にやりと、笑う。
「迎えに来たよ、古宮さん……もしかして、呆れた?」
見えた古宮さんの口元に、負けないくらい、自信満々に笑う。仁王立ちに、腕を組んで、偉そうに。
「呆れた……呆れたけど、最高だわ……!!」
初めて見る、抑えきれないほどの笑顔は、誰よりも、輝いていた。
◇◆◇◆◇
少しずつ、改札を行き交う人が増え、改札扉は開きっぱなし。
「……ほんとに、会わなきゃダメ?」
「一言謝るのと……一発、ぶつけないと、スッキリしないから」
それでも、ホームの中に入ることなく、ただ一人を待ち続ける。
古宮さんから、一言、連絡を付けてもらった。会社に向かう前、ほんの数分でいいから、話がしたい、と。
「あの人と、何かあった?」
隣、飾り気のない私服に着替えた古宮さんの声。買ったはいいけれどあまり着る機会が無いと眠っていたらしいフレアスカートにシャツ。目元には、ついさっき買った、薄い青の色つき伊達眼鏡。モデルのようで、人目は引く。バレない為の変装なのだけれど、美人は何をしても目立つ。大丈夫だろうか。
「あったよ。色々、あったけど……それは、移動中に話すね」
ふと、視線の先、一人のレディーススーツが目に留まる。悔しいけれど、なんだかんだ、古宮さんの親と言うだけあって、目を引く、美人だった。
改札に真っ直ぐ向かうことなく、立ち止まり、首を振るって周囲を探る。きっと、制服姿を探しているのだろうけれど……それだと、いつまで経っても見つけられない。
「ほら、行こっ」
「最低の気分だわ……」
「上ったり、沈んだり、ジェットコースターみたい」
「全部、あなたの所為なのよ。自覚してほしいわ」
マックスに達したかと思ったら、実の母親に会うだけだというのに、急転直下、古宮さんのテンションは地の底に。
メインストリームから、外れた柱の傍にいる古宮さんの母親。ある程度近づくと、流石に気付いた。そして、私と古宮さんにピントを合わせて、固まる。
「澄と、瀬戸さん……? その、格好……」
目を見開いて驚く。修学旅行に出発の日なのに、休みの日のような私服。きっと、すぐに、怒濤のようなお説教されたり、説明を求められたりするのかもしれない。或いは、無関心か。
今日に限っては、どちらでもいい。一方的に言いたいことを言い逃げするだけ。
「この間は、失礼なことを言ってごめんなさいっ」
思い切り、頭を下げる。嫌いだというのは変わっていない。今でも腹が立っている。それでも、この人は古宮さんの母親。好き勝手に言ったのは間違いのない事実だから……私の気が楽になる為に、この人と会わなければいけなかった。きっと、これからも、何度も顔を合わせないといけないはずだから。
「わ、わかったから、頭を上げて」
人の行き交う往来で子供に頭を下げさせているのは、結構ダメージが大きいらしく、すぐに止められた。これで、私の謝罪は、力尽くで押し通した。一応。
今度は、ワガママを捻じ込む。何を言われたって止まるつもりはない。それでも、言っておく義理はある。頭を上げて、勢いのまま、言葉を続けようとしたら、すぐ横からの手で、言葉が喉の奥へと帰って行く。
見上げる。最低って言う割に、私なんかよりずっと覇気のある表情をしていた。本当に、バカ正直なクセに、素直じゃない。
「今から、二人だけで修学旅行に行くから、一応、その報告」
無愛想にぼそり。どれだけ、そりが合わないのだか。
「なに言っているか、わかってるの……?」
「分かってるわよ。だから、伝えに来たの。学校には、熱出したことにしてるから」
「お金、捨てる気」
徐々に冷静になり始めたのか、理解し始めたのか、声のトーンが下がっていく。
そういうのは、今日はいい。いらない。古宮さん……そう、呼びかけて、やめた。
「澄っ!! 時間押してるから行こうっ」
どっちがどっちか、ややこしかったから。それに、この人が名前で呼んでいるのに、私だけ名字、なんて、なんだか負けた気がした。
「瀬戸さん、あなたが言い出したのね……?」
そのまま、離脱しようとしたら、矛先が私に向く。何気に、指摘が鋭くて、トランクケースの可変ハンドルに伸ばそうとした手が止まった。
「私、澄と修学旅行に行きたいって言いました」
あの日、蚊帳の外にされたのに、言質だけはしっかり取られたことが、蟠りとなって残っていた。だから、大前提ごとひっくり返してやろう、と、この計画を思いついた。ある意味、この人のお陰でもある。今となっては、嫌いだとか合わないだとかよりも、感謝が少しだけ上回っている。
「なんだかんだ楽しかったー、とか。思い返してみればいい想い出だった、と。そんなんじゃ足りないんです。お金を返せって言うなら絶対返します。怒られても、ぶたれても、構いません。絶対、行きますからっ。誰よりも、青春、したいからっ」
私達は、誰よりも楽しんでいるんだって。内側を向いて、縮こまっているだけじゃないんだって。
「澄、言いたいことは幾らでもあるけど、止まらないのよね」
「うん。もう、決めたことだから」
背筋を伸ばして堂々と言い切る古宮さん……古宮、澄。
私の目に映る、澄は、とびきり、カッコよかった。
「行くよ」
腕を引っ張られて、慌てて歩き出す。トランクが、ガタガタ、タイルを叩く。バランスを崩しそうになるけれど、私が体勢を崩しても、僅かにもブレることはない。体幹がしっかりしてるんだな、なんて。
「私の方が、澄のこと大切にしますから、ご心配なくっ」
振り返って、ペコリ、頭を下げて、言い逃げ。ほんの少しの対抗意識。
「小っ恥ずかしいこと言わないで」
「青春だって言えるの、青春の間だけなんだよ? 言っとかないと損だよ、損」
「なら、幾らでも損したって構わないわ」
ズンズン。私の言葉をスパスパと切り捨てながら……腕は掴んだままに、改札に向かって進んでいく澄。もう、自分で歩けるのだけれど、まぁ、いいかと、されるがまま。慣れないトランクを転がして、人にぶつからないようにするのは、意外と、難しい。
「でもまぁ、私が言った『青春』とか『一番澄を大切にできる』とか、全部、子供特有の、思春期にありがちなって、思われてそうだけど」
それで、私と澄が疎遠になったら、ほらね、とでも言ってきそう。そんなイメージは、私が、あの人を毛嫌いしすぎているだけなのかもしれない。駅の券売機に並び、ICカードに電車代を二人でチャージ。
いつの間にか、掴まれていた手が離れていて。
「思ってそうね、あの人なら」
「実際、その通りになるかもしれないから、今のところ言い返せないんだよね」
子供というのは事実で、これから、進路とか就職とか、幾らでも環境は変わる。人生のターニングポイントが大渋滞を起こしている数年間。来年のことすら分からないのに、今の私がどれだけ、澄のことを考えているって言ったって、十代特有の熱病と判断されて終わり。
「……あれだけの啖呵切ったのに、もう弱音?」
「弱音っていうのとはちょっと違くて。ただ、言い返す材料とか、証明するものが何もないのが悔しいなぁーっていうだけ」
通勤通学の波が少しずつ増してきた。波の中に二人で飛び込んで、改札へと向かう。
「証明なんて、五年後、十年後には出来るんだから、いいでしょ」
前を歩く背中が、改札を通り抜ける。呆れたようなアルトボイスで馴染むように入ってきた言葉。思わず、足が止まった。
なんだ。澄だって、私のことばっかり考えているんだ。
「海月」
かけられた声。慌てて、同じ改札を走り抜けて。
呼ばれた名前が、地べたに落ちてしまうよりも先に、その手を、繋ぐ。
「行こっか」
いつもよりも重たい荷物を手に、学校に行く時には踏み込むことのないホームに立つ。
時折すれ違う、見慣れた制服とは出来るだけ目を合わせないようにして、二人で、こそこそと。繋がったまま。
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