第13話
久しぶりに、聞こえた、声。
すぐに、起きるから。
声を出そうとしているのに、唇はピクリとも動かず、喉はビー玉一つ分の空気を溢すのが精一杯。
意識は起きているのに、身体が意識についていっていない。金縛りになってしまったかのように。
もしかしたら、聞こえた声すら、私の無意識が産んだ幻聴なのかもしれない。
「……こんな、冷たくなるまで。ほんと、何がしたいの」
でも、このうなじに添えられた手の平が伝わってくる熱だけは、本物で。不安は芽を出すこと無く、腐って、溶けた。
今度は、俯いていた頬に、熱が触れる。人肌が、私の身体中を張った霜を溶かしていく。
「瀬戸さん、起きて」
揺さぶられる身体。外から与えられた揺れが、眠ったままだった身体に備わった非常用電源をオンにする。ようやく言うことを聞いてくれるようになってくれた身体。ゆっくりと、顔を膝の間から上げる。
最初に目に映った、綺麗な黒髪。全てを吸い込んでしまうほどの黒髪だったのに、真っ暗闇の中だと、ぼんやり淡い光を帯びていたのが不思議。
「……追い返さない?」
何を言おうとあれだけ考えていたのに。出てきたのはみっともない、すがりつくような力ない懇願。
「追い返すって言ったら、このまま動かなさそうね」
いつも見る、制服姿ではなくて、ジーンズにフリースジャケットを着た、私服姿。洒落っ気がないのに、様になっていて、まるで大学生。
学校で見る、曇りガラス越しのような、曖昧な形じゃない。ハッキリ映る、古宮さん。私の心が、ぼんやり、熱を思い出した。火種なら、まだ、ある。
「話を聞いて貰えるまで……聞かせて貰えるまで、今度は、諦めないから」
知りたい。だけでは、とっくに収まらない。
「自分勝手を押し付けないで……って言うくらいじゃ、帰ってくれなさそうね」
「うん」
何を言われたって帰らない。今度は、逃げない。
「ストーカーになる覚悟、済ましたから」
誰かに望まれた形を取っているだけの人形だって、言われたって構わない。
望まれたいばかりでも、ちゃんと私の意志が、そこにはあるから。
映る表情が、くしゃり。呆れと笑いがかき混ぜられた、微妙な顔付きに。
「ストーカーだけは止めて頂戴。いい思い出ないのよ」
差し伸べられた手。一瞬、面食らったけれど、すぐに、掴む。
「つめたっ」
「あったかい」
正反対。声も、体温も。
引っ張り上げられて、ぎこちない身体を動かして、なんとか、立ち上がる。柵の向こうに見える景色は変わらず、真っ暗闇。
古宮さんは鍵を取り出し、差し込んで、力強く捻る。解錠音を追いかけて、扉の開く音が続く。真っ暗な家の中へと消えた……と、同時、パチリという音ともに、目が痛くなる光。
「入らないの?」
久しぶりに見えた、古宮さんの部屋の中は、何も、変わっていない。
お邪魔します、の一声とともに、家の中に入る。
ハヤシライスの匂いは、少しも、残っていなかった。
「いつから居たの? ほんと、心臓が止まるかと思ったのよ」
「多分、二十時過ぎとか……」
時間はうろ覚え。古宮さんのお母さんが店から出てくる前に見た時計の時間が、十九時と半分くらいだったのが、最後の記憶。
「……バカ?」
「えっ」
「今、何時か分かってる……?」
靴を脱いで、部屋の中に上がる。古宮さんが、かちゃり。内側から鍵を閉めた。相変わらず、ドアポストには大量のガムテープで、ハガキ一枚通さないよう、バリケードが張られたまま。
「二十一時半とか……いや、もしかしたら、二十二時……?」
座ってからは、ずっと、何を言おうかと考えていた。意識も曖昧としていたから、体内時計は信用できない。
「はい」
見せられた携帯電話、液晶画面には、何処かで撮ったのだろうか。猫が映っていて……二十三時が後半戦に差し掛かっている頃だった。
「……こわ」
「それ、こっちの台詞よ」
つまり、三時間程、私は他人の玄関の前で固まっていたというわけで。通報されることも、声を掛けられることも一度も無い。それくらいに、この場所には誰も、来なかった。
「あったかいお茶でも淹れるから、少し、待ってて」
台所、コンロに向かおうとする古宮さんの腕を掴む。
「もう十分待ったから」
身体を動かすだけの熱は、もう、分けて貰った。
「……今更、何を話しに来たの。あの日から、随分経っているわ。話すだけなら同じ班なんだから、タイミングなんて幾らでもあるでしょう。態々、ここに来なくたって」
結局私は、古宮さんから指摘されたからと言って、変わったわけではなかった。変える事なんて出来なかった。誰にだって好かれたい。忘れられるような、どうでもいい存在にだけはなりたくない。そんな当たり前で、矛盾を抱えたまま、今も此処に居る。
「あの時はイライラして、言い方とかキツくなった自覚はあるけれど……意見は、今も同じ。変わっていないわよ」
睨む、程ではない。怒りが滲んでいるワケでもない。ただ、いつもと同じ、ありのまま、着飾らない古宮澄が、私を見ていた。
「私の形に合わせた瀬戸さんとは居たくない。哀れまれて一緒に居て貰うなんて、みっともないこと、死んでもしたくない」
引っかかり続けた数ヶ月。今も残った、小さな棘。棘を抜くためには、何を言えばいいのだろうか。駆けだしてから、ずっと、ぐるぐると考え続けてきた。
今だって考えている。
古宮さんにどう思われても私があなたのことを知りたいという気持ちは本物、だとか。自分を変えることは出来ないけれど、色々考えて、此処に居るのだとか。誰かにどう見られるかばっかりなのが私だから仕方ないじゃん、とか。
一つ一つ、整理され、丁寧に横並んだ、瀬戸海月の想いが詰められた小瓶。その中から、一際、光を放つ小瓶に手を伸ばす。
「古宮さん」
伸ばした手は、小瓶を掴む……ことはなく、想いのテーブルの縁を思いっきり握りしめた。両手で。強く。
整理整頓なんていらない。綺麗に光る想いなんかどうだっていい。
私は、好かれたい。
好かれたいと、伝えたい。
「私で妥協しなよ」
想いが並べられたテーブルごと、全部、ぶつけてやる。
数ヶ月、考えて悩んで、自分の在り方まで見つめ直した時間も全部、全部、関係無しに、叩きつける。
私は、彼女の前では、偽らないから。
「妥、協……」
私であることを、自覚するのが何よりも心地良い。自分自身でさえ、脱ぐことの出来ない、重たい拘束具を、古宮さんは脱がしてくれる。ありのままに、してくれる。
「古宮さんが欲しがってる、互いにありのままで、わかり合える相手なんて、これから先、幾ら待っても出てこないかもしれない……ううん、絶対、出てこない!!」
「瀬戸さん、何を……」
着いてこられないのなら、手を掴んででも、私の隣に並んでもらう。
「いつまでも子供みたいに駄々を捏ねてる古宮さんに、現実を教えてあげなきゃって」
「……嫌味でも言いに来たの?」
「嫌味なんかじゃない。文句とか、クレームとか、もっとウルサいヤツかな」
楽しい。私自身を誰かにぶつけるのが。ぶつけられるのが。
「クールぶってるクセに、理想ばっかり高いんだもん」
動きづらいドレスを脱いで、歩きづらいヒールを捨てて、邪魔な髪はバッサリ切り落としたみたいな。
開放感が、私の背中を押す。
一方的な文句の押し売り、自分勝手な押し付けに、眉間に皺が寄っている。次の瞬間には、意思というグローブをはめて、ぶつけてくる。
古宮澄という、人間そのものを。
「勝手に分かった気になって、偉そうに語らないで。そういうのいっちばん、嫌いなのよ……!!」
綺麗な人には、苛烈な表情がよく似合う。どうして、私が古宮さんに拘ってしまうのか。理由の一つに、絶対、顔が好きというのもランクインしている。ありのままの瀬戸海月は、面食いみたい。
「私なら、古宮さんの理想に、あなたの好きな瀬戸海月になってあげられるよ」
「いらない、って何度言えばいいのよっ。お情け頂戴するくらいなら、一人の方がよっぽどいい……!!」
「嘘っ、本当は一人じゃ苦しいんでしょ。どこもかしこも息苦しいから、そんな変なチカラを身につけたクセに」
もっと、見つけさせて。
もっと、深い、底にある、自分自身でさえ届かない底へ沈んでしまった、古宮澄を。
「決めつけないでっ!!」
できるなら、私の言葉で全部の彼女を知りたい。けれど、私と古宮さんは違いすぎるから、どうにも難しい。使えるものは、なんでも使わないと。彼女をよく知っている人の言葉を借りる。
ごめん、と内心で謝る。背中を押して貰った、ありのままの私は、面倒くさいだけではなくて、性格も悪いみたい。
「古宮さん、ほんと、甘えてるんだ。そのまま自分を、そのまま受け入れてくれる誰かが居るんだって。そんなの居るわけないのに」
扉に背中をぶつける。肩を掴まれ、押し潰すみたいに。彼女の爪が、制服に、突き立つ。
鋭くて、今にも噛みついてきそうな剣幕。いっそ、噛みついてくれれば、もっと、見える。水底で、膝を抱えて丸くなる、小さな少女そのものが。
やっと。少しずつ、見えてきた。
「甘えちゃダメなの……!? 瀬戸さんみたいに器用じゃない、恵まれてもない私は、何処で受け入れられたらいいのよっ」
綺麗。美人。そして、嬉しい。誰にでも見せている姿じゃない。
古宮さんが居るから偽らない私と同じ。本当の意味で偽らない、古宮さん。
瀬戸海月が踏み込んだから、沈んだ瞼を開いてくれる。誰も知らない、古宮さん。
「お母さんも、学校も、クラスメイトも、みんなみんなみんなみんな、そのままの私が、そんなに気に食わない? バカにして、オモチャにして、見下して……なんで、そんな人たちに合わせなきゃいけないの? ねぇ、家でも、学校でも、合わせなきゃいけないんだったら、私は何処に私を置いておけばいいのよ」
サラサラと、流れる、髪の毛に触れる。
シャンプーとか、コンディショナーとか、何を使っているんだろう。
「私にしなよ」
半分は、あの日と一緒。
「私に、してよ」
溺れているから、助けたい。
「……わからない。どうして、私なの」
もう半分は、正反対。
「あなたの傍でなら、息が出来るから。私に、吐息を分けてほしい。色んな人で、溺れてしまう前に」
私で沈んだ私に、酸素を口移してもらいたい。
「変わらずに、私を望んでくれているから」
ありのままの瀬戸海月を知っても、望む形が変わっていない。だから、私は、今も好き勝手な衝動に突き動かされている。
「誰かが瀬戸さんを望んだらまた、変わるんでしょう? 私と同じような人が出てきたら、私はどうなるの? 捨てられるの?」
拒絶する理由も、変わらない。私自身が不定形のままだから。古宮さんの母親みたいに、自分の理由に他人を都合良く使っているから。だから、古宮さんは私を受け入れてはくれない。
そこで結論を出して思考停止していたけれど、今は違う。根っこは、もっと、シンプル。
「誰かに盗られるのが怖いんだよね」
目の前、喉が、固まった。生々しい、引き攣る音が聞こえた。瞼が震えて、その上に乗っている長い睫毛が頼りなく揺れる。
「ごめんね。色々考えたんだけど変えられなかった。どうしようもなくって」
それきり、声を荒らげることも、呆れることも、なくなって。動きを止めて、弱々しい瞳が映る。捨てられた子犬のように、頼りない。気丈な目尻も、揺るがない背筋も、何もない。ワガママなだけの寂しがり屋。
肩を握る力が少しずつ、弱くなる。
髪の毛先に触れていた手を、彼女の手に重ねた。
「望んで」
精一杯、握りしめる。古宮さんの手を、私自身の肩を潰してしまうほど、強く。強く。
「私を望んで。誰よりも強く、深く、長く、ありのままの私を。他の全部を塗り潰して」
私よりも、大きくて、温かくて、綺麗で、弱々しい手。
「死んでも忘れないで。消えても求めて」
「忘れ、ないで」
誰だっていいのかもしれない。古宮さんではなくたって、同じような人が居たなら、同じ事になっていたのかもしれない。
それでも、今、私の手の中に、『誰でもいい』なんて欠片だって握られていない。
「……なにそれ」
私の肩を握る手から、力がストン、と全て抜けて、柔らかくなった。身長が縮んで見えるほどの虚脱感。
「私、あなたのこと何も知らないのよ? 付き合いなんて、水溜まりよりも浅いわ」
怒りも、不快も、弱々しさも、全部全部、突き抜けた表情。何でもない、苦笑い。
私だけにくれた、表情。
「なのに、誰よりも強く求めろって、無茶苦茶だわ」
「知ってる。でも、これが古宮さんの望んだ私……ううん、違うか」
首を左右に振る。今の私は、紛れもない瀬戸海月。
「古宮さんが引っ張り上げた、誰も見たことのない、そのままの瀬戸海月」
誰かの形に合わせたわけじゃない。
「私が、望んでるの。望まれたいって」
空っぽでなんかじゃない。自分自身を、自分の手で取り出せないだけ。
そのことを教えてくれた古宮さんは、代わりなんていない。
「……めんどくさい人に、目を付けられちゃったのね」
「嬉しいクセに」
人の好き嫌いばかりを考えていたから、言葉の裏側がすぐに読み取れる。
肩を握る手に力が込められて、再び、扉に抑えつけられる。体格差があるから、どうしても、見上げる形になるけれど……余裕があるのは私。彼女の吐息を抑えつけているのは、私。
「古宮さん、図星突かれたら、行動に出るよね」
多分、これもまた、図星。
「ほんと、めんどくさい」
「私も、最近知ったんだ」
吊された白熱球から落ちる熱量は、古宮さんに遮られて。影に、上書きされて。
「このまま、誓いのキスでもする?」
近かったから、つい、半分冗談で、おどけてしまう。
瞬間、再び眉間に寄せられた皺。
そして、降りてくる整った顔立ち。どんなに、近づいても、染み一つ、見つからない。
「まっ」
何の準備もしていないのに、降ってくる、黒色に、頭が追いつかない。というか、早過ぎる。
ゴツッ。旋毛が、割れた。
「いッ」
脳天ド真ん中。墜落した、古宮さんの額。想定外の衝撃。思わず、両手で頭頂部を押さえて、さする。
「先に言っておくけど……私も、かなり、面倒くさいわよ」
何故か勝ち誇ったように、見下ろしてくる古宮さん。いたた、と頭をさすりながら、強がりの笑顔を返す。
「知ってる」
肩から、古宮さんの手が、離れた。後に残ったのは物寂しさだけ。
「待っててよ。すぐに古宮さんの心を迎えに来るから」
何をどうやってかは、言えない。自分でも、整理がついていないから。
「少しだけなら」
形になるのに、時間はいらない。動き出した私は、まだまだ止まりそうは無い。
「くしゅん」
冷え切った身体が、ようやく主導権を取り戻した、と寒さを思い出させてくる。芯まで冷たくなっていて、今更に、身体が震え出す。
「……カッコつかないわね。紅茶、淹れてあげるから。上がって」
家の中、玄関先から上がった古宮さんから伸ばされた手。掴んで、部屋に上がろうとしたけれど……掴んだ手を思いっきり、引っ張る。
ぐらり。バランスを崩した古宮さんの頭を、思い切り抱きかかえる。手に、腕に、触れる髪の毛が心地良くも、くすぐったい。
胸の中、くぐもった声が聞こえてきたから、とん、とん、と赤子をあやすようにゆっくりと、背中を叩く。ほんの少しの抵抗はすぐに収まって、眠ってしまったかのように静かに。
「私の音、落ち着くでしょ」
小さな身動ぎは、多分、肯定。違っても、私はそうとしか受け取るつもりはない。
抱きかかえられたまま、ジッと動かない古宮さん。私で呼吸をする彼女から、小さな声が肺を通して、伝わってきた。
「ハヤシライス、美味しかったわ」
今更過ぎて、思わず、笑いがこぼれる。
「次はもっと美味しくなるから」
ご飯は、二人で食べた方が美味しい。私と古宮さんで食べたら、もっと美味しい。
自信に溢れた私の言葉が、狭い部屋を、いっぱいになるまで、満たしきった。
自信とは裏腹に、結局、私は風邪を引いて、思いっきり熱を出して……待たせる時間を、引き延ばしてしまったのだった。
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