第12話

 カウンターの丸椅子から飛び降りて、鞄を引っ掴む。忘れ物をしたかどうか、確認の時間すら惜しい。握りつぶしたカップを、出入り口横にあるダストボックスに放り込んで、勢いそのまま飛び出す。陽が落ちきったそぞろ寒さが、服の上から皮膚を撫でて、身体の端から順番に、熱を奪っていく。

 人の往来が幾らか疎らになった歩道。編み目のようなアスファルトを叩く足音は、私よりも重たいモノばかり。店の中から飛びだしてきた私に向く視線は蜘蛛の巣。引き千切るように、車道を、突っ切った。

 今、無敵だ。

 古宮さんが望むありのままの私。一葉が押してくれたそのままの私。誰の前でも、揺らがない、二本足で立つ。古宮さんを知りたいと望んでいるのが、私。


「あのっ!!」


 自分のどこから出たのか分からない程の大きな声は、ほんの一瞬だけ、夜の駅前を私で染め上げた。一言一句でさえ、無視させたくなかった。古宮澄という人間の内側に踏み込むのには、私一人の勢いだけでは、足りない。私が私で有る限り、追い返されてしまう。荷物も何もかも、持って帰れ、と。

 数歩の距離、その向こう側にある二対が私を射貫く。怪訝、疑問、邪魔。それらがミックスされた視線。心臓が引き攣りそうになる。でも、関係ない。


「古宮さん……澄さんのお母さんと、お父さんですよね?」


 多くはいらない。古宮さんを知る、取っ掛かりを得るためだけに、手を伸ばす。

 私の出した大きな声は、町ゆく人たちの足を止めるほどの力はなくて、すぐに、誰のものでもない雑踏へと呑まれて消える。

 古宮さんの母親は私の顔を見て、顰めていた眉を元に戻す。男性は、疑問符を浮かべて、耳打ちをしていた。


「……澄のお友達の、えーっと」

「瀬戸、瀬戸海月です」

「あぁ、そうっ。瀬戸さんね。ごめんなさい、顔は憶えてたんだけどね」


 頭の中、引っ掛かりが取れたのか、少し、スッキリとしている。


「この子、澄のお友達の子。ほら、少し前に、変わった子の話したでしょ?」


 男性に話し掛ける声。多少、声量は落としているけれど、軽々と私には届いている。変わった子、と目の前で言われるのは、複雑。せめて、私には聞こえないように言って欲しい。


「こっちの彼は、お父さんじゃないわ……これから、なるかもしれないけれどね」


 なんて言って、笑い合う二人。恋愛事に、好いた好かれた。私には、遠いもの。未だ持ち合わせていないもの。そんな、女子高生器官が未発達の私にだって、見せられているのが惚気だと理解できる。

 他人の……それも、友達でも、クラスメイトでもない、大人の恋愛事情に足を踏み込みたくない。そこにどんな感情が、熱が、思考が、練り込まれているのか、予測が立たない。それなりの精度で他人を測れるのは、学校という小社会と、そこから足を出した、少しの範囲だけ。


「澄さんは、知っているんですか?」


 いつも真っ先に顔を出す、万人受けする良い子の瀬戸海月を、一葉の言葉が抑えつけてくれている内に、走りきる。

 二呼吸分の、沈黙。遊園地で着ぐるみと遊んでいる子供に向かって『人が入っている』と伝えた時に向けられるであろう、雰囲気を壊してしまった人間に向けられる沈黙。

 大事に作った料理を地面に落としてしまった時に向けられる、場の空気という魔法を台無しにしてしまう、タブー。

 娘の友達。そこにピン留めされた私が、カチ、カチ、クリック音と共にスライドしていく。


「さぁねぇ? 言ったかもしれないけれど、知っているかは分からないわね。だって、会ってくれないんだもの」


 いらないことを言うな。笑顔を浮かべたまま、瞳の端に、浮かんだ文字が、微かに見えた。

 私の中での、この人も、少しずつ色を変えていく。


「澄さんは、どうして、一人暮らししてるんですか?」


 きっと、原因はこの人。ただの、直感……とも言えないような、決めつけと言ってもいい。決めつける材料は、たった一つ。


「あの子、気難しいでしょ? 人より反抗期が強いから、今は好きにさせてあげてるのよ。その内、諦めて戻ってくるんじゃないかしら」


 この人が、嫌い。


「大事じゃないんですか?」


 それが、神経を逆なでする一言だと、分かって言った。誰かに好かれることばかり考え続けていたから、誰かに嫌われる方法も分かるらしい。今、知った新たな私。


「たった一人の娘なのよ? 一番大事に決まっているわ。でも、今は私が何を言っても聞いてくれないから、距離を置いているの」


 この人は、自分でしか、動いていない。『あの人の中に、私の事情なんてないのよ』と、自棄な声が蘇ってくる。


「澄さんの事を一番に思ってるようには見えません」

「……それは、親だったら、恋愛をしたらいけないっていうこと?」


 言葉尻は柔らかい。けれど、声は少しずつ固くなっていて。


「澄には、嫌だったら別れるから言ってね、って伝えてるのよ、ちゃんと」

「本当に、それで、別れるんですか?」

「えぇ。だって、澄が言うんだもの。でも、きちんと話し合えば分かってくれると信じているわ」


 伝えている? 古宮さんが言うから? 分かってくれると信じている?

 一言、一言。全てが、耳に残る。この人は、本気でそれを誠意だと思っている。

 古宮さんも、この人も、自分勝手、というたった一言では同じなのに……どうして、こんなにも、別物なのだろうか。


「ねぇ、瀬戸さんはお付き合いしたことある?」

「はぁ?」


 こんな時に。しかも、殆ど初対面と変わらないような私に対して、会話の流れを無視したようなボールがとんできて、思わず、取り落とす。相手が年上の社会人だと言うことを忘れた、礼儀の欠片も無い間抜けな声を溢すという失態つきで。


「ない、ですけど……」

 慌てて、落としてしまったボールを拾って、投げ返す。ひょろひょろと、勢いなく、飛んだ。


「そう。きっと澄も、彼氏の一人でも出来れば、私のことも少しは理解してくれるっていうのを、伝えて貰いたかったんだけど……居ないんじゃ、仕方ないわね」

「え……?」


 意味が、分からない。


「なに、言ってるんですか?」


 心底、理解が及ばない。巫山戯ているわけでも、冗談でもなく、この人は本気で言っている。欠片も理解が出来ない考え方に、思考がしっちゃかめっちゃかにかき混ぜられて、幾重ものエラーを吐き出す。何が、どうなって、今の言葉が出るのか。

 人を産んだことのある、大人から出た言葉だとは到底、思えない。言った本人は、何がおかしいのか、と首を傾げている始末。


「恋愛をして、大人になれば、きっと、わかり合えるのに。まだ、子供なのよ、あの子は」


 これ以上、聞きたくない。聞く価値ない。


「もう、いいです」


 わかり合える。信じている。並べられた美辞麗句のどれもが、薄気味悪い。何よりも気持ち悪いのは、その全てが本心から、善意から生まれた言葉だということ。

 古宮さんを知りたい……その興味は、形を変えて。


「絶対に、古宮さんは、あなたの元には返しません。返せません」


 この人の中では、もう、全部答えが決まっている。


「……澄のお友達だからって、何でも言い過ぎね」


 まともに、付き合ってやるものか。分かり合うという行為の責任を、古宮さんに一方的に押し付けるような、話し合いという行為を自分の答えに従って貰うことだと思っている人と会話なんて成立させなくたっていい。

 この人は、自分の出した答えに、古宮さんが理解を示さないのは子供だから。と、そこから進まない。

 恋愛をしていないから、分かってくれないのだと。恋愛をして大人になれば、自分の思い描いた通りの『理解』を示してくれると。


「もし、別れろって言われたら『あなたの為に別れた』って、言うんですよね。まるで、それが子供を大事にしている証明になるんだと思ってるんだとしたら……私だったら、耐えられません」


 この人は大事にしている子供のためなら、自分の中で決めきった答えを変えることもあるのだろう。本人にとっては、自己犠牲。でも、言い換えたら、責任転嫁。子供の為に、と立派な行為のように振りかざす。


「一体何がしたいの? 澄に文句言うように頼まれでもした?」

「古宮さんは、こんなこと頼まない。そんなことも知らないのに、一番大事とか言わないでください」


 分かってもらうばかりで、分かろうとしない。どこまでも自分本位。大事に思っているという気持ちが本物だと言い張る。呪いのように。

 視線の先、眉間に皺が寄る。整った顔立ちは、古宮さんに似ているはずなのに……醜く、映った。


「古宮さんの事を、何にも考えてない。自分のことばかり……あなたみたいな、年ばかりとった子供に、二度と、古宮さんは預けられない」

「……言いたいことは、それだけ?」


 もう、この人の中で私の位置は、ロクでもない場所へと移されていることだろう。


「幾らでもありますけど、いいです」


 何を言っても、『子供の言うこと』『大人に反抗したがっているだけ』なんて、分かりやすい理由をつけられて、見下して、聞く耳を持ってくれない。


「じゃあ、もういいわよね。暇じゃないの」


 どれだけ言っても、この人には響かない。それでも、構わない。

 古宮さんを知るのに、この人から得られるものなんて、なにもないことが分かっただけでも十分。古宮さんの事を考えていると思い込んでいるだけで、自分の事しか考えていない。

 全然、似ていない。


「私の方が古宮さんの事、考えてますから」


 軽く頭を下げて、踵を返す。出来るだけ、顔を見ないようにしながら。

 街灯、店に収まらず溢れた光、変わらないようで変わり続ける人の影。

 深呼吸を一つ。冷えた空気が肺いっぱいに流れ込んできて、昂ぶった血液を冷やしてくれる。踏み出した靴裏から、微かな衝撃。その衝撃は少しずつ強くなって、いつの間にか、身体に流れる血液が、肺を満たす酸素を暖め始める。

 古宮さんは、どこででも、呼吸が出来る。そう言っていた。


「そうじゃない」


 学校では、誰からも理解されない息苦しさに。家の中では押し付けの善意という真綿に首を絞められながら。生きることに苦しんでいて、息が出来ずに苦しんでいて。

 息苦しさから解放されたくて、きっと、ああなったんだ。

 違うよ、古宮さん。凄いけど、それだと、あなたは救われない。浴槽の中のぬくもりは、いつかは冷めてしまうから。自分の温かさだけになった時に、寂しさに沈んでしまう。

 冷めない温度なら、ここにある。あとは、手を繋いで貰えばいい。呼吸は、分け合った方が、ずっと、温かい。

 教科書、ノート、ペンケース。ガサガサと鞄の中、跳ねて、暴れて、グチャグチャになっていく。整理整頓が行き届いていた鞄は、今はお休み。


 人の間を縫うように、二本の足を交互に踏み出す。プリーツも、呼吸も、乱れる。

 駅前から、大通りに。大通りから、分岐して、徐々に細く枝分かれしていく。たった二度、訪れただけの場所でも、頭の中の地図には今も変わらずピンで留められていて。

 軽自動車一台通るのが精々だろう細い道幅。等間隔で立てられた電灯だけが、真っ黒な道を、ぽつぽつと水溜まりのように、頼りない白で染める。電灯に集る羽虫は、光に向かって身体を、何度も、繰り返しぶつける。

 暗幕が降りた、古ぼけたアパート。幾つもの部屋があるはずなのに、見える四角の光は片手の指で十分に足りるくらい。二階には、一つの白も灯っていない。少なくとも、一番端の部屋に四角形は存在するはずなのに、どうしてか、真っ黒なまま。

 コンクリート製の階段を照らすはずの電灯は力尽き、少し離れた所から届く街灯の残滓が、唯一の道灯り。一段飛ばしに、駆け上がる。踊り場で、瞬き一つ分の時間だって立ち止まらない。


 二階に辿り着いて、一番、奥の部屋の前に立つ。


「さむっ……」

 誰に言うでもない声が、落ちて、ほんの少し、空気が鋭利になって肌を刺す。鉄扉の向こうにあるはずの部屋からは灯りが漏れることも、足音一つ聞こえてくることもない。本当に、誰かが住んでいるのだろうか、と疑わしくなるほど、何も、生まれていなかった。

 街明かりも遠く、車も時折、思い出したかのように通るだけ。柵の向こうに見える景観はお世辞にもいいとは言えない。他のアパートの壁かくすんだ長屋の屋根が大部分。

 二階に幾つも並べられた部屋はどれも、真っ暗。がらんどうで、中には何も入っていない。人の気配が少しもしないから、古宮さんももう住んでいないのじゃないか、なんて頭に過る。

 ぶんぶん、と頭を左右に振るって、考えてもどうしようもない不安を追い払う。その時は、その時が来たら、考えればいい。


「よっ、と」


 鉄扉に背中を預けるように、スカートが汚れることも気にせず、腰を下ろす。体育の授業でも受けるかのように、膝と一緒に、体温も抱きかかえて。

 熱というものの対極に位置するように冷え切ったコンクリートがお尻から、布越しで体温を奪っていく。背中に触れる扉も、同じように私を冷やしていく。熱を失い、冷たくなっていく身体。

 時折、通っていた車も、途切れて、久しい。

 体温を奪われて、寒いと感じていたのも……時間が経てば慣れてしまっていた。慣れた、のではなく、もしかしたら、身体がコンクリートと同じ温度にまで下がったのかも知れない。

 膝と膝、その間に顔を埋めて、一握りだけ残った体温を逃がさないように抱え込む。渡さなきゃいけない熱だけは、無くしてしまわないように。

 最後の体温に寄り添っていると、ぷつ、ぷつ、思考が、意識が、途切れ途切れになっていく。

 もしかしたら、このまま、死んでしまうのだろうか。膨れ上がった不安が囁いてくるのを無視。これくらいの寒さの方が、熱を持った思考回路を冷やすのに丁度良いくらい、と強がって、何を、どう、伝えるのかを一生懸命に考える。


「少し、だけ」


 うつらうつら、前に後ろに揺れる意識をゆっくりと手放していく。

 小指を離す。かくん、と首から力が抜けた。

 薬指を離すと、開いていた瞼を維持することができなくなった。

 中指を離したら、呼吸がペースダウン。すぅ、すぅ、と静かな、落ち着いたものに変わっていく。

 人差し指を離す頃には、思考が夢と現実を行ったり来たり。

 最後、親指を離すと、意識が、途切れ。最後の体温が、失われる。

 ぴたり。何かが、触れた。


「あっ」


 うなじから、太陽のような熱が流れてきて。

 一瞬だけ手放した意識。手の届く場所に合った熱を、なんとか、掴み直す。冷え過ぎて、芯まで凍ってしまったのだろうか、頭が上がらない。身体が、動かない。


「起きて。死んじゃうわよ」

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